2018.10.13 Saturday
制作サイクルが回り出すと、無我夢中になれる瞬間があって、週末の制作が楽しみになります。新作の集合彫刻は2つの塔が並列するイメージでやっていて、現在は床に接する1段目の陶彫部品が出来上がっています。先週から2段目に取り掛かり、今日は2段目の2個目に当たる成形を行いました。成形の準備としてのタタラはウィークディの夜の時間帯に作っておきました。さらに先日土練りを多めに行ったので、3個目の準備として今日中にタタラを作ることも出来ました。成形は制作工程の中では一番楽しい作業で、集中力が増します。今日は朝から夕方までそんな作業に追われていました。気候も涼しくなりました。環境的にも好条件が整ってきましたが、先日から右ひざが痛くなって、先週整形医院に行ってきました。レントゲンの結果では右ひざの接合部分の軟骨が磨り減っているとのことで、治療を始めることになりました。加齢なのか、無理しすぎていたのか、座った姿勢から立ち上がる時に痛みがあるのです。歩き始めると何でもなくなります。飲み薬と湿布をもらって帰ってきました。仕事に出かけるのも、東京の美術館に出かけるもの全て足を使うので、大事に至らないようにしたいと思っています。彫刻制作は身体を酷使する場面があって、どこか身体の一部が悪くなると忽ち影響が出てきます。数ある芸術行為の中では一番身体が強くないとやっていられない分野なのです。そのせいか先輩の諸氏は、皆んな元気で溌溂としています。自分も末長く彫刻制作に携わっていたいと願っていて、身体には気を使っています。明日は制作の後、東京の美術館に出かけます。久しぶりに師匠の作品を拝見してきます。
2018.10.12 Friday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)の中で、昨日は「点」について取り上げました。カンディンスキーの有名な著作である「点・線・面」の順番から言えば、今日は「線」を取り上げていきます。本書の中では「点・線・面」から引用した文章が散見され、そこを起点に現象学的見地からカンディンスキーの抽象芸術について論じている部分も少なからずあります。まず「線」の定義となる一文を取り上げます。「『この力は、平面内に喰い込んでいる点に飛びかかって、点をむりやりに引き離し、それを、平面上或る方向へと押しやる。』とカンディンスキーは詩的なことばで明確に述べている。点に働きかける新しい力の指し示す方向ーその力が変わらないかぎり同じままである方向ーへと、追いたてられる点、それは線なのである。」同じ「点・線・面」の引用から次の一文もありました。「純粋にフォルム的な線の働きにとって、生のあらゆる力ーその力のみごとな完成から劇的な対立までーを現実化することが可能なのである。カンディンスキーはこう書いている。『このように、線の世界は、冷たい情熱に始まり熱いドラマチックに終わるところの、表現的な響き全部を所有しているのである。』」カンディンスキーにとってのフォルムとは何か、この考察も述べられていました。「カンディンスキーは内部の音色にもとづいて、生の情念的多様性とその限りない様態変化にもとづいてー芸術の抽象的内容にもとづいてーフォルムの語彙をつくりあげているのである。情念が線を出現させる力の情念であるかぎり、線の働きが(そこから生ずるフォルムの広大な領域に支えられつつ)そうした力の働きであり、われわれの生を物語るものであるかぎり、フォルムの語彙は生の表現となっているのだし、そうなることができるのである。」線についての考察はここまでにしておきます。
2018.10.11 Thursday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)を昨日に続いて取り上げます。画家カンディンスキーは抽象絵画の創始者であるとともに、当時バウハウスで講義した抽象芸術の理論が有名で、近代美術史の中では実践と理論双方で大きな業績を残した巨匠と呼ばれています。私もカンディンスキーの著作である「芸術における精神的なもの」や「点・線・面」の邦訳を読み耽った時期がありました。嘗てこのNOTE(ブログ)でもカンディンスキーの著作を取り上げたことが記憶にあります。今回は著者ミシェル・アンリによる「点」の解釈を載せます。「点」を定義した本文を引用いたします。「バウハウス時代、探究が集中的に向けられて行くフォルムの最初のものは、点である。~略~まぎれもなく、点は幾何学的存在でもある。幾何学的存在としての点は分割することができず抽象的であるが、これは、純粋状態で(もはや自然のフォルムとしてではなく)把握され考えられた幾何学図形一切を表す場合の、非具体的で観念的な存在という意味においてである。」現実に点を作品表面に穿った場合はどうなのか、こんな一文もありました。「現実の点は、いくぶんか小さかったりいくぶんか大きかったりする。したがって、点が大きくなればなるほど、それが占める表面がまさしくひとつの面になり、そういうものとしてその固有の音色とともに知覚され体験される。~略~点が少しずつ面に変わったり、あるいは逆に面が再び点として把握されたりする間、二つの内部の音響、二つの情動的な基調色、点と面の基調色は重なりあっているけれども、ただひとつの外部の要素、現実の点という要素のほうは眼ざしをとらえ続けて離さないのである。」
2018.10.10 Wednesday
職場の私の部屋に置いてあるフランスの現象学者の書籍「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)を久しぶりに手に取りました。現在、フッサールの現象学に挑んでいる自分にとって、もう一人の現象学者の書籍も難解なものに変わりはないのですが、ただ扱っているテーマが画家カンディンスキーに関するものなので、カンディンスキーの抽象絵画やその理論を知る私には、多少取っつき易い書籍になっています。「絵画性の解明」では、まず言語化された基調色に関する分析があり、カンディンスキーは具象の機能を排除することで、無垢な色彩が現れ出てくる世界を獲得していると述べられています。フッサールと関わりのある部分を書き出します。「カンディンスキーの分析は、ここでもやはりフッサールの形相的分析のように働いている。つまり、芸術の本質をその純粋さの中で眺めるために、芸術の本質とは無関係な諸特性を除去することが重要なのである。まさしく客観的〔対象的〕表現をとり除くことによって、絵画の純粋な本質の開示がなされるのだ。~略~絵画の非本質的な特徴ー対象と結びついた具象的特徴ーと、純粋な絵画性に依拠する本質的特徴とは、同じレベルに位置してはいない。非本質的特徴とは、意識が意図的に構成したもろもろの客観的な意味であって、外部にあり、フッサールのいう意味では『超越的』である。本質的な特徴、つまり絵画的で形象表現的なフォルムは、感性に、すなわち絶対的主観性とその〈夜〉との属している。」この部分ではカンディンスキーが有名な著作「点・線・面」の中で述べた箇所を引用しています。「前者〔具象芸術〕にあっては、要素『それ自体』の有する音響は、おおいに隠され、抑制されてしまう。抽象絵画においては、それは、おおいに隠されることなく存分に鳴り響く。」本論のまとめになりますが、二重の変動が必要だという見解が最後に述べられていて、その引用をもってこのNOTE(ブログ)を終わりにしたいと思います。「第一の変動によって要素は、実生活の中で自らが担っているもろもろの意味をとり除かれて、感覚的で純粋な現われへと還元されている。第二の変動によってこうした現われは、内部の条件へと、目に見えない生の基調色という条件へと導かれている。」
2018.10.09 Tuesday
自分のことは好きか嫌いか、単純な問いかけですが、答えは単純ではなさそうです。服を脱ぐように肉体を脱ぐという新聞掲載の詩人のコトバがありました。もしそうであるならば、肉体と魂を別物として考えると、私の自分に対する嫌悪感は多少変わってきます。私は彫刻を学ぶ前からギリシャ彫刻のような理想的な人体の美的比率に憧れを持っていました。自分の背格好を見るにつけ、私は自分の肉体に絶望してきました。私は子どもの頃から鏡を見たくないと思い続けた人間で、20代で欧州に暮らしていた時は、街行く人を眺めて尚更その思いに苛まれました。反ナルシスト宣言をしたいくらいでした。ただし、内面に秘めたものに私は一縷の望みを見ていて、自分の首尾一貫した姿勢を可としています。人生60年の辿った道を見ると、私はどうやら軸足が動かないことが判ってきました。20歳の頃に志した芸術への夢を今も追っているのがその証拠です。それを魂と呼ぶならば、私の魂は決して器用ではなく、立ち居振る舞いも上手とは言えず、社交性にも欠けている嫌いはありますが、唯一、こうしようと決めた志の炎を長く消さずにいることが出来るのです。これは私にとって利点です。自分は至極当然なことであっても、人には容易なことではないと家内に言われたことがありました。人生の岐路に立った時に、私は言い訳をしてきませんでした。自分を誤魔化すこともなくここまで歩んできました。他者を羨んだことは数知れず、嫉妬もありましたが、結局のところ周囲に振り回されることもなく、自分を見失わなかったことが救いなのかなぁと述懐しています。肉体は加齢とともに劣化してきますが、精神や魂と呼ぶものは場合によっては深層化し、満足が与えられることがあるのかもしれません。それでも私は現状に精神的な満足を得ているわけではありませんが、歩んだ道が間違ってはいないことは確かだろうと思っています。人生の岐路はどこにあったのか、脇道に逸れなかった自分には見当もつきませんが、きっとあの時にあの選択をしたんだなと思う節があります。自分がぶれることがなく自然に歩いてきた人生です。これからも摂理に逆らわず黙々と歩いていこうと思っています。