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  • 「子安観音と聖母マリア」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第9章 聖母像の変容」は8つの単元から成っていて、今回は「3子安観音と聖母マリア」と「4観音の成立」の2つの単元を取り上げます。「日本の『子安観音』の起源は、仏教伝来よりもはるかに古い。ただ、仏教に習合されて、観音となっただけである。日本の原始的、土俗的な信仰である神道をみれば、万物を産出する水と男女神の交合が生命の根源であり、紀記によれば、日本の国土は女神イザナミが産み出したものであり、最高神は太陽である女神アマテラスであった。~略~産出するものとしての大地、水、その豊穣性は、女性性を示すものであり、それが古典的な大乗仏教の時代以来常に観音のイメージに密着してきたことが観音と子安明神との習合をおこした原因である。十一面観音とアマテラスを同体化しようとする動きは、あきらかにアマテラスの女性化を意味していたであろう。その女性化は、アマテラスが天皇の神であり国家の最高神であったために容易にはなされなかったが、子どもを産み育てる子安観音は、容易に観音と同体できたのである。両者における女性的要素は、とくに中国、日本における観音自身の女性化を考える上できわめて重要な論点である。~略~観音はさまざまな『女の災厄』を救い、『女性が男女の子を自在に得ること』を得さしめる。重要なことは、観音は衆生を救うために、この世で三十三化身を行い、その霊験を示すことである。観音がこの世界に姿を現すということ、天上の神若しくは超越的存在ではなく、天界と此の世を結ぶ仲介者の役をなすことは、たしかに聖母に似ている。~略~イラン宗教の影響がクシャーナ朝の仏教と混淆したと同時に、キリスト教は、その起源においてイラン宗教とかかわっていたのであるから、その基盤において、キリスト教の救済思想は仏教と共有するものをもっていたと考えられないか。あらゆる意味で、衆生を救う仲介者として、仏教は観音を、キリスト教はマリアを、イランから鼓吹されて生み出したのではないかと考えることもできる。」今回はここまでにします。
    元同僚の刺し子展&中華街散策
    今日の午前中は工房での制作に励み、午後は家内と横浜の中心街に出かけてきました。元管理職仲間の女性が、在任中から刺し子で大きな作品を作っていて、私と前後して退職した後も、横浜山手西洋館のひとつであるエリスマン邸で個展をやっていました。その個展が今日から始まるので、家内と出かけてきたのですが、今回はエリスマン邸ではなく、ブラフ18番館で開催していました。私は新作を見るのと同時に、お互い元気でやっているのかどうかの確認も込めて、彼女と暫し話をさせていただきました。刺し子は根気の要る作業で、画題となっているのは各地にある建物やその背景である雲を描いていて、その作業の熱意には頭が下がる思いです。教職を退職した後も私も含めて、創作活動に精進するのは大変いいことだと私は考えます。管理職の時は学校のことばかり考えていて、退職したら燃え尽き症候群になる人もいる中で、次のステップに移行できたことは大きいと思います。お互い末永く創作に関わっていければ幸いです。刺し子展を見た後、私たちは坂を下って中華街に行きました。そこで昼食をとって散策をしました。以前、中華街に来た時に師匠の池田宗弘先生に頼まれた腐乳のことを思い出し、店の前で池田先生に電話をして、また腐乳3瓶を買って先生宅に送ることにしました。先生は期日前選挙にいくため、長野県東筑摩郡麻績にある山を下りて投票所に向かっている最中でした。先生の元気な声を聞いて私も少々安心しました。中華街は相変わらず観光客が多く、食べ歩きしている人が目立っていました。人気のあるレストランには列が出来ていましたが、家内がよく利用するレストランには何とか入れてランチメニューにありつけました。今日は久しぶりに山手西洋館を巡り、中華街で食事をとるという横浜散策が出来て楽しかったなぁと思いました。
    「問題の所在」について
    「聖母像の到来」(若桑みどり著 青土社)の「第9章 聖母像の変容」は8つの単元から成っていて、今回は「1問題の所在」と「2暦、聖書、『マリア観音』をもつ潜伏キリシタン」の2つの単元を取り上げます。「マリア観音は、納戸神にみられる日本化、土俗化とはまったく逆の方向に発展した隠れキリシタンの聖母像である。それはすでにエスタブリッシュ(※確立する)されている、アジアの普遍宗教としての仏教のなかの『観音』の姿をとった。~略~『マリア観音』という名称は大正時代以後のものであって、それ以前には存在しなかったということである。『マリア観音』という名称が、近代の学者の命名であり、キリシタン信徒のものではないという事実は、非常に重要である。~略~マリアには、さまざまな場所に『顕現』する性質が信仰の初期から報告されているのだが、他のものになる、化身の性質は聞いたことがない。化身という概念は、キリスト教には存在しない。しかし、仏教の化身という作用に慣れているキリシタン民衆が、仏をマリアの化身とうけとるということはあり得るだろう。観音のもつ『化身』という指摘は非常に重要であり、すくなくとも、定説となっている『見立て』論よりは、はるかに民衆の信仰心に近いものであると考える。『化身』とは、ある本質が姿を変容することを意味するのであるから、本質は変化せず、しかも、信徒の状況に合わせて姿を変えるのであれば、辺土における変容の中でも、マリアが、その機能をかわることなく発揮することができると民衆は考えたかもしれない。~略~マリアと観音信仰との『融合』が起こったのは、まず何よりも双方が『子を抱く母性』を表象し得る形象と本質をもっていたという共通性のゆえであるという指摘には、筆者にはまったく異存はない。まさしく、マリアの像は、常に子どもを抱く母の像であった。これに対応できる仏教の仏が観音であったから、マリア観音の姿をとったのである。~略~『マリア観音』をもっている集団のほうが、心性の中でも、歴史的時間の中でも、より確実に救済を確信できる立場におり、より展望の開けた精神世界をもっていたという推測が可能になる。ということは、逆に、納戸神は、秘匿可能なイコンとして創造されたものである。すなわち、比較的途絶した環境で生まれたものであったことから、その世界は閉ざされており、『マリア観音』とは、秘匿できない環境、ある程度の公開を余儀なくされた環境の中で、仏教的形姿をもつ像を採用したのであって、その世界は開かれたものであることを余儀なくされていたという差異を示している。いずれにせよ、納戸神と『マリア観音』は非常に異なった環境における信仰形態を示すものである。」今回はここまでにします。
    「如月展」の案内状宛名印刷と投函
    今月は退職校長会メンバーによる「如月展」があり、昨晩私は案内状の宛名印刷を行ない、今日郵便局で料金別納にして投函してきました。個展と違い、現在11名の出品者がいるため案内状の数が限られているので、まず教職関係者と私の個展に来られた方を優先しました。「如月展」は今回で第47回展となり、つまり47年続いている息の長いグループ展であることは名誉なことだろうと思います。私が教職に就く前から存続していたのを知らされると、これはもう奇跡としか言いようがありません。「如月展」は誰でも出品できるわけではなく、横浜市立中学校校長を退職していないと出品資格がないのです。当然出品者は高齢化することが分かっているのと、美術科校長が少ないために、画廊で開催するグループ展なのに美術作品がほとんどないこともグループ展存続に関わるマイナス要因でもあります。それはさておき、今回の私は旧作品の雛型を出品することにしました。これはどこにも出品したことがなく、20数年前の制作なのを差し引けば、外に出すのは初めての作品になります。私は雛型をあまり作りません。作っていたとしても完全なオリジナルの雛型ではなく、オリジナルとは別の作品として小さいなりにも空間を主張しているのです。今回出品する作品はテーブル彫刻を始める際に、どのような具合になるのか、この目で確かめるために作ったものです。案内状が少ないために、「如月展」の展覧会情報をこのホームページで告知しておきます。第47回「如月展」会期:2026年2月16日(月)~2月22日(日)11:30~16:30(搬入を16日11:30~14:00、搬出を22日14:00~16:30)会場:ギャラリーミロ(横浜市中区吉田町4-1  tel045-251-5229)最寄りの駅はJR関内駅、市営地下鉄関内駅、そこから歩いて数分です。私は22日の搬出日には一日画廊におります。ご高覧くだされば幸いです。
    週末 2月の制作目標
    2月になりました。今日は日曜日です。日曜日には創作活動についてNOTE(ブログ)を書くのが習慣になっているので、今日は今月の制作目標について書くことにします。今年の夏に東京銀座の「うしお画廊」で発表する新作は、陶彫と木による集合彫刻1点、これは6個の陶彫部品で構成される作品で画廊の中央に置く予定でいます。陶彫と木による小品4点、これは今まで継続している「陶紋」の連作になります。壁に掛けるレリーフ作品4点、これは昨年の夏「ギャラリーせいほう」で発表した「痕跡」に続く作品になりますが、連作にするのは微妙なところです。これが今年の個展の全容ですが、陶彫を素材とする作品はほぼ出来上がっていて、今後精魂込めなければいけない作品は壁に掛けるレリーフ作品です。そこで今月の制作目標はレリーフ作品を7割程度完成に近づけることです。その作品に取りつけるレリーフは杉板材に穴状の形を刳り貫いて炙っていきます。杉板材の刳り貫き作業は数枚出来上がっていますが、まだ全体の3割です。刳り貫く杉板材は幾何抽象の傾向になっていますが、よく見られる抽象作品のように完成図があって作業を進めているわけではなく、大まかなイメージに基づいて、その都度詳細イメージの上書きをやっています。もう一つ重要な要素は杉板材と画面の間に隙間を作って、照明による陰影の効果をも狙っています。これは「痕跡」の展示の時に、その効果を確信したもので、杉板材を浮かせる面白さに惹かれてしまいました。今月も毎日電動糸鋸盤を駆使して杉板材と格闘していきます。7割程度の完成であれば、4点のパネルの上に刳り貫いた杉板材を配置して、全体の雰囲気を把握することが出来るなぁと思っていて、立体による陶彫集合彫刻との関係性と言うか、響き合いを感じることで、自らの世界観が一歩進むのではないかと思っています。今月は美術鑑賞をどこかで入れようと思っています。毎日元気に工房に通えるように身体の管理もしていこうと考えています。