Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 世界情勢を考える
    週末になって、いつも通り工房に朝から篭って制作三昧でしたが、日本時間で午前2時にトランプ米大統領が就任式を迎えることになり、海の向こうでは反対派の集会や暴動が報道されて大変な事態になっていたようです。私もトランプ氏が次期大統領と決まった時は信じられない気持ちになりました。世界情勢は常に変動していて、バランスや安定を欠く場合もあるということを認識しました。私は1956年に生まれたので、日本が終戦後の経済復興に励んでいた時代と重なります。当時は超過労働は当たり前になっていて、朝の通勤に凄いラッシュがありました。横浜の臨海には工場が数多くあって、煙突からもうもうと煙が上がっていました。それでも日本は平和な国家として安心安全が守られていたと自覚しています。現在では働き方改革に迫られていたり、安全保障を心配する声も聞かれるようになりました。明らかに世界情勢が変貌していて、私たちの日本にも何らかの影響があるのではないかと思うところです。今は妙な情報に流されず何事にも冷静に判断するのが一番だろうと思っています。陶彫部品を作りながら、世界が永遠に安定することはないのかなぁ、でもこんな生活がずっと続けられたらいいなぁと思っていました。
    自己満足の捉え方
    自己満足をマイナス要素として捉えてはいけない、自己満足があるからこそ人は生きていけるのだと京都に住む版画家の友人から言われたことがあります。確かに自己満足というコトバを使う場面では、客観的評価ではなく、周囲から見れば本人だけが悦に入っていることが多いと思われます。表現されたパフォーマンスや作品を見ていて、鑑賞者に伝わらず、寧ろ恥ずかしささえ感じるモノがあることは否めません。それを自己満足と称して蔑む傾向もあります。でも表現活動の発端は自己満足にあると言っても差し支えないと思っています。京都の友人はそこのところを端的に言ったのでした。それが証拠に彼の版画はマイナス要素の自己満足とは思えない評価を得ているからで、個展では鑑賞者を常に惹きつけてやみません。私も自己満足の中で生きていると感じることが暫しあるのです。他人の評価を気にするより、まず自分が満足できなければ創作活動は面白いものではありません。自己満足が社会的評価と共有できている状態が、表現活動の醍醐味なのでしょう。それ故、作品を介して作者と鑑賞者がコミュニケーションを図る機会を作るため、発表の場を設定することになるのです。美術館や画廊、劇場やその他諸々の場所が発表の用途によって選ばれます。自己満足の客観的評価はそこで行われるのです。工房で制作途中の作品はまだ自己満足の域を出ません。作品によっては難解なモノもあります。見ていて虚無に襲われ、マイナス要素としての自己満足に浸っている作品は、鑑賞者にそっぽを向かれることもあります。難解だけれども鑑賞者が何かを感じ取り、作品の謎解きに挑むこともあります。これは自己満足がプラス要素として反応した場合です。自己満足の評価は大きく分かれ、そこで作品や思索の質が問われてくると私は考えています。
    真冬の夜は睡魔と闘う
    仕事から帰ってくると、私にはもうひとつの仕事が待っています。二束の草鞋生活の辛いところですが、夜は時に工房に出かけ、陶彫制作をやってみたり、自宅の食卓では毎晩RECORDをやっています。リビングに置いてあるパソコンではホームページのNOTE(ブログ)を書いてアップもしています。ほとんど一息つく間もないのですが、習慣になっているせいか、身体や心に鞭を打ちつつ遂行している現状です。家内はそんな亭主を横目で見てどう思っているのか、余裕のない私にはわかりません。身体が休みたがっていると感じる日も暫しあって、もの凄い睡魔に襲われる時があります。年間で見ていると真冬の夜に睡魔がやってくる確率が高く、RECORDを描きながらウトウトすることもあります。寝てしまうべきか、最後まで仕上げるべきか、自分との闘いがあって、昼間の仕事の他にそんな制作を抱える自分は、たまに全てを放り出してしまいたい衝動に駆られます。私ほど生真面目な人間はいないのではないかと自画自賛して放棄欲望を抑え、イメージの蓄積に励む構図ができてしまいます。不思議とストレスはなく、やはり創作活動は自分にとって生きる証になっているのかなぁと思う次第です。それでも睡魔は容赦なくやってきます。体調によって睡魔に負けてしまうことがありますが、それはそれでいいのではないかと思うのです。心地よい眠りにつくことも普段頑張っている自分への褒美として甘受したいと思っています。海の深淵に落ちていきたい本能的欲求には逆らえません。
    「人は多面体」原稿まとめる
    職場関係の人に頼まれて、久しぶりに原稿を書きました。時候の挨拶もなく、いきなり論理に導く文章で稿を起こしました。自由記述に近かったので、さて、何を題材にしようか迷った挙句、彫刻家らしく立体的な解釈を伴うものを選びました。「人は多面体」というのは、人は内に秘めて多種多様な面を併せ持ち、その場面や出会う人によって異なる面を見せるということを書いたものです。性格を立体的解釈にすることで、一面では捉えきれない人の複雑な思いを描こうと思ったのでした。人は幼児の頃に身近な事物を絵にします。これは自己表現の始まりですが、平面的な捉えが最初にあって、成長とともに空間認識をしていくのではないかと考えます。空間認識は高度な意識が必要で、中学生や高校生になってもそれが出来ない子がいると言っても過言ではありません。内面性も同じで、平面でしか捉えられない人は内面を深めていくことは出来ないのではないかと思うところです。心が多面体であればこそ、学問であれ芸術であれ探求する意思が芽生えるのではないか、また社会的な人間関係も豊かになるように思えます。原稿は芸術に特化したものではなかったので、あくまでもお互いを理解しようという社会性の構築に話を持っていきました。
    表現の拡散について
    工房でお茶を飲みながら、若いスタッフや職場の人と話す内容は、畢竟美術のことばかりになります。若いスタッフは現代アートを網羅する思索を続けていて、また大学院で先端芸術を専攻しているため、仲間も多く創作環境も整っています。職場の人たちは絵を描き始めたばかりで、写実的描写のノウハウを学んでいます。美術への関わり方に相当な温度差がありますが、それでも話題が成立するのは、美術の特殊な性格にあるのだろうと思われます。美術はその歴史において、新しい潮流を取り入れて表現の幅を広げてきました。それは表現の更新ではなく、従来の価値観も認めながら新しい表現を足し算してきた結果、古典的な表現形式から現代の地域活性や社会問題提起に至る広範囲な表現形式まで並立して存在する媒体になったと言えると私は考えます。そうした中で、自分がどこに軸足を置くかで表現方法や造形による主張を決めていくべきで、現代の流行や潮流に流されることなく、己の信じる創作活動を続けていくのが良いと思っています。私自身の考えを言えば、日本では地域発のトリエンナーレ等が隆盛を極める中、美術は町興しだけのイベントになっている傾向はあるのではないか、一方画室に籠もって旧態依然とした制作を続けている人に閉塞感はないのか、社会的なニーズのない活動に今後の活路はあるのか、さまざまな考えが去来しているのです。人は何故無用のものを作りたがるのか、経済的な支援を夢見ながら、それでも何かを創作していくことは人間でなければ出来ない行為です。人間の脳にそうした働きがあるのかどうか専門外なのでわかりませんが、表現の拡散した昨今、創作活動本来の動機を探っていくことも一興かなぁと思っています。