2016.10.29 Saturday
やっと週末になりました。来年度人事が始まっているせいか一週間が長く感じました。週末の仕事も厳しい制作工程を迎えていて、どっちの仕事もなかなかどうして痺れるような時間を今後過ごすことになります。毎年これからが本腰を入れる時なんだと改めて認識しました。今日は朝から工房に篭りました。相変わらず大学院生が工房に来ていて、彼女に背中を押されるように今日も頑張りました。新作のテーブル彫刻の背の低い作品は、そろそろ陶彫部品を次々窯に入れて完成させておかないと、次の工程に進めません。5点ほど仕上げを施し、化粧掛けをしようとしたら、化粧土がなくなっているのに気づきました。業者に電話したら、在庫はなく次週の入庫になると返事が返ってきました。今は焦る時期ではないので、仕方ないなぁと今週末の窯入れは断念しました。窯入れは準備だけしておいて来月早々から焼成を始めようと思います。午後は大学院生に手伝ってもらって、背の低いテーブルを作る用意をしました。明日ドリルで穴あけをしてテーブルにしていきます。毎週のことですが、土曜日はウィークディの疲労が残って身体が思うように動きません。時々脚が攣って困りました。家内もこの時期は商品としてのジュエリーを複数個作っていて、やはり疲労しています。表現活動に夫婦揃って翻弄されています。明日はもっと頑張ろうと心に誓って工房を後にしました。
2016.10.28 Friday
一日1点のノルマで、小さな平面作品を作っているRECORDでは月毎にテーマを決めています。今月は「さからう」というテーマで、今日の分までの28点が終わりました。まずテーマがあった方が制作動機を導きやすいし、カタチがまとまりやすいので、1ヶ月の最初にテーマを設定しています。それと同時に私はホームページにアップする際に、テーマを言語化する試みをやっています。これは詩と呼べるようなシロモノではないと自分では思っています。ただ、テーマの造形化に比べて言語化はコトバに対するニュアンスが異なり、「さからう」から発するコトバとしてのイメージを膨らませます。人の場合、大抵逆らうのは自分の思いが通じない場合です。思春期の反抗期にも見られます。私自身が何かに逆らった記憶が最近ではめっきり無くなっています。職場では職員の総意に従って、職員が働きやすい環境を作ることに苦慮していて、今まで私が体制に逆らうことはありませんでした。もしも、体制に逆らうことがあるとすれば、私はどんな行動をとるのでしょうか。管理職の意向に沿わないとして、たった一人で体制をひっくり返すことが出来るでしょうか。将来を見据えて、今この方向に行かなければと主張し続けることが出来るでしょうか。リーダーに求められる資質のひとつですが、職員が私と同じような未来を描けなければ、本流に逆らうことは大変困難です。来年度人事では先行きを見通して、職員との間に多少の波風が立ちますが、お互い逆らうところまでいかず、納得と了承で決着していきます。「さからう」というイメージの言語化にあたり、自分の中で究極に逆らっている状況をシュミレーションしてみて、現実と妄想の間を行き来しているのです。
2016.10.27 Thursday
「パラノイアック・クリティック」とは何か、昨日から読み始めた「シュルレアリスト精神分析」(藤元登四郎著 中央公論事業出版)の最初に出てくるコトバです。精神医学の専門用語というのですが、全く聞き慣れないコトバです。本書からその部分を拾ってみると「パラノイアックは気難しい性格、妄想的、横暴」という意味だそうで、画家ダリは「パラノイアック・クリティック的活動を、妄想的現象の解釈的・批判的連合に基づいて非理性的な知識の自然発生的な方法」という意味で使っていたようです。随分長々とした定義です。本書第一部の「パラノイアック・クリティック」の章を捲っていくと、ブルトンが提唱したシュルレアリスムとパラノイアック・クリティックの相違が書かれていました。「ブルトンは『無意識が意識に先行する』というフロイトの無意識理論の忠実な信奉者である。したがって、超現実は現実そのものの中に含まれており、現実を超えるものでもなく、現実の外にあるものでもない。一方、ダリのパラノイアック・クリティックは、逆に『意識が無意識に先行する』という概念に基づいている。」ブルトンのシュルレアリスムは、無意識のオートマティスムに基づくものであり、ダリのパラノイアック・クリティックは、それにとって代わるものという意味で、やがてブルトンと袂を別つダリの主張が、本書の導入になっているのです。パラノイアック・クリティックをキーワードに本書は幻想画家の世界を紐解こうとするもので、私がずっと拘ってきたフロイトの精神分析学やそれを礎にしたブルトンのシュルレアリスムと視点も観点も異なる理論に注目したいと思っているところです。
2016.10.26 Wednesday
「シュルレアリスト精神分析」(藤元登四郎著 中央公論事業出版)を今日から読み始めました。著者は精神医でSF評論の視点からシュルレアリストを捉えています。扱っている画家はボッシュ、ダリ、マグリット、エッシャーで、偶然にも私は最近「ダリ展」(国立新美術館)や「エッシャー展」(そごう美術館)を見たばかりでした。本書はこの二つの展覧会を見るずっと前に購入して自宅の書棚に仕舞い込んでいたので、奇遇としか言いようがありません。ダリやエッシャーの他にボッシュやマグリットも私の興味関心を引いていて、まさに自分にとってはツボに嵌まる書籍と言えそうです。今までの読書歴を鑑みても、私の趣向する分野の範疇は決して広いモノではないなぁと思っていて、NOTE(ブログ)にアップする話題も限定的になっていると自覚しています。若い頃は、柔軟にあれもこれも吸収しようと思っていたのですが、知識欲の嗜好が徐々に狭まってきている今は、加齢による好奇心の衰えかと自分自身のことが心配になっています。読書もRECORDも継続は出来ても、幅が広がっていないジレンマがあるのです。ともあれカフカの小説に続いて、今回はシュルレアリズム関連の評論を読むことにしました。旧知の作品であっても視点が新しければ、そこに新たな発見があるだろうと期待しています。評論は多少難解さがあって通勤の友として相応しくないと思うのですが、自分が好きな画家の作品を扱っているので、充分楽しめるのではないかと思っているところです。
2016.10.25 Tuesday
「城」(カフカ著 前田敬作訳 新潮社)をやっと読み終えました。NOTE(ブログ)のアーカイブを見ると、7月15日から読み始めているのですが、8月と9月の2ヶ月間読書をしなかったので、中断したまま鞄に携帯していました。今になって漸く読み終えた感じです。カフカ文学の特異性や全編に漂う不安定な雰囲気は、どうやら次から次へと読み進めたい気分を剥ぎ取っていくように思えます。これは古城のある小さな村に到着した測量士が、その村の人々の感覚に馴染めず、仕事を依頼された城に近づくこともできず、心理的に疎外されていく物語ですが、自分と多少重なる箇所があるとすれば、20代の頃暮らしたヨーロッパで私は似たような体験をしたことです。ただし、私は留学先の美術アカデミーに帰属意識がありましたが、単に異国と言うだけではすまない根源的な自己疎外感が、この物語の根底にあるようです。というのもカフカ自身の生い立ちに関係していることを「あとがき」で知ったからで、そのうちいくつかの文章を引用したいと思います。「『ぼくは、ぼくの家庭のなかで、他人よりもなおいっそう他人のように暮らしている』のだった。さまざまな世界にすこしずつ属しながら、どの世界にも完全には所属しない、生まれながらの『異邦人』ないし賤民、これが、彼の生誕の宿命的星座であった。」「いかなる世界にも所属できない異邦人であるということは、存在を喪失しているということ、存在の零地点に『流刑』されているということにほかならない。彼は、存在喪失という原罪を負うて生れたのである。彼の生涯の苦悩と努力は、いかにして世界に入場と所属をゆるされ、どうして存在の数値を獲得するか、という一点にかかっている。」これがユダヤ人カフカの生育歴であり、そこから導かれる主張には危険な部分も露見されるのです。「城」に登場する人々から感じられること、それは「理解せずして服従するという不可知論は、政治的にはファシズムへの服従を意味する」ということで、カフカ自身が作品の焼却を遺言したのは、こうした危険性をカフカ自身がよくわかっていたのかもしれません。