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  • 週末 スマホ&タブレット購入
    3年前に携帯電話から買い替えたスマートフォンのバッテリーが、このところ調子悪くて仕事の上で困るなぁと思っていました。今日は早朝工房で制作をした後、家内とスマートフォンを見に家電量販店に出かけました。今は修理の時代ではなくなっていて、若い店員から新機種はどうですか?と持ち掛けられました。家内は新機種に興味津々で、結局、最先端のスマートフォンとタブレットを購入することになりました。これはかなり高価な買い物だと思ったのは私だけでしょうか。このNOTE(ブログ)は、新しく購入したタブレットを使って書いています。自宅のパソコンより扱い辛さはありますが、慣れれば何とかなるでしょう。新機種のスマートフォンの方は、到底自分は使いこなせません。猫に小判、豚に真珠です。家内はさまざまなアプリから情報を得ていますが、アナログ人間の私は電話にメールくらい使えれば、それで済むのです。家電量販店でスマートフォンを購入したものの、データの移動はスマホ会社の窓口に行かねばならず、自宅に帰ったのは夜になっていました。スマートフォンやタブレットは、つまり手持ちの小型パソコンで、一時代前の携帯電話とは大きく異なっています。日頃、陶土や木材を相手に腕一本で作品を作っている自分にとって、こうしたICT機器は謎に満ちた世界です。理屈はわからないけれど、便利だから自宅でも職場でもICT機器を使っています。持ち歩いているスマートフォンとタブレットはコードすらありません。画面にタッチするだけで忽ち世界が変わります。それが当たり前と感じるのは若い世代ばかりではなく、自分の周囲の管理職仲間もいろいろな技を知っていて、時代についていけないのは自分一人かもしれないと思うこの頃です。
    塊から一面的なものへ
    現在、葉山の県立近代美術館で展覧会を開催中の若林奮先生には、「地表面の耐久性について」と題する野外展示された大きな彫刻作品があります。まさに地表面に張りついた鉄の作品で、地中からその表面が現れた様相を呈しています。図録の一文を引用します。「若林によれば『(70年代)万博以后、かたまり(量塊)としての彫刻から表面的=一面的なものへ興味が移行した』という変化には、エジプトやフランスでの体験が深く影響しているからだ。例えば、太古の壁画が、線刻や絵具で『幾重にも層になった重ね描きが形成されている』ことに(若林は)気づいた~以下略~」(朝木由香著)とありました。これは大学での教職受講生への講義のための草稿だそうで、彫刻を広義に捉え、立体としての考え方を根本から覆す思考が見て取れます。その結果、地上と地下の境界にある地表面が主題となった「地表面の耐久性について」という作品が生まれたようです。大学の講義に使ったとなれば、美術を学ぶ学生相手にどんな授業展開があったのか、立体そのものの認識に理解が覚束ない学生にとっては難解な課題が与えられたと考えられます。これは立体表現を形而上の哲学として扱う用意がなければ、講義を聴いても謎が深まるばかりでしょう。立体とは何か、それを取り巻く空間をどう解釈するべきか、それが把握できた時に、立体の一部を提示することで、私たちが普段眼にする風景とも自然とも呼べる表層としての視界が出現すると若林先生は言いたいのではないでしょうか。つまり、私たちにはモノの全てが見えていない、見えているのは表面的な一部であるというわけです。それなら彫刻だって一部が見えていたらそれで充分ではないか、そこで一部より全体を洞察するのが、日常生活に見られる自然な状態なのではないか、そんなことを考えて自分は若林作品を測る思索の物差しを想定しています。まさに塊を覆い隠して氷山の一角にする試み、一面的なものへの興味に移行したのは、これから晩年にかけて若林ワールドが一面的作風以降、人間と自然との関わりの中で彫刻が大きく展開していく導入部にあたっており、一面的作風はさらにスケールの大きな世界に拡大していく、まさに前哨戦に過ぎないと自分は考えるようになり、そこから風景を切り取ったような庭の作品が生まれていくのではないかと考察する次第です。
    戦争とは何かを考える
    先月観に行った映画「顔のないヒトラーたち」に絡めて、今日は戦争について取り上げます。私は職場にある複数の新聞には必ず目を通し、気になる記事をスクラップしています。9月17日付の朝日新聞の記事に「野火」の映画監督である塚本晋也氏のインタビューが掲載されていました。「戦争を描くなら、加害者の目線で描かなければならないと、ずっと思っていました。~略~(元日本兵が)捕虜をやりで突けと言われ、やりたくないと思いながらドーンと突いた瞬間、腹のあたりに今まで感じたことのない、ある充実した手応えを感じた、そこから殺すことが平気になって~略~加害の記憶は、多くの方が口をつぐんだまま亡くなられるので、なかなか継承されません。」という記事は、まさに塚本監督が「野火」制作へ踏み切った動機ではないかと思いました。「ヒロイズムで戦争をとらえるのは間違いだと、はっきり言えます。」という言葉に、戦争のもつ現実の痛みを実感しようとする塚本監督の思いが込められています。戦争に遭遇した人間の本質はどこにあるのか、多く作られている戦争映画の構造に、現実の戦争に対する違和感はないのか、そんなことも考えさせる言葉がありました。「敵を仕立て、それを怪物のように描き、これだけ被害を受けたのだから仕方ない、大切なものを守るために名誉をかけて闘う、そして苦戦の末に勝利する。そういうハリウッド映画が、子どものころから大嫌いでした。~略~『これが正義だ』と教えられて人を殺してしまったとしても、それを正義だと言い切れない正気の目線が、頭の上の方で常に自分を見ているはずです。」私は橫浜のミニシアターで夏に「野火」を観ていたので、インタビューの言葉を重く受け取りました。先月観た「顔のないヒトラーたち」も加害者側から戦争を描いた秀作でした。戦争とは何かを考える意味で、最近の映画の内容に真摯なものを抉り出そうとする傾向が見られることを、自分は歓迎している一人です。
    映画「顔のないヒトラーたち」について
    先月のことで日が経ってしまいましたが、橫浜の中心地にあるシネマジャック&ベティに表題の映画を観に行ってきました。ドイツ映画「顔のないヒトラーたち」は実話を基に描かれた秀逸な内容だと感じました。1958年のフランクフルトからドラマは始まります。現在では信じられないことですが、当時アウシュヴィッツ強制収容所のことはドイツ国民に知られていなかったのです。当時の西ドイツは経済復興の真っ直中で、戦争の記憶を忘れ去ろうとしていました。自国が自国民自身を裁く構図、歴史認識を変えていくことはタブーでもあったのです。そこに果敢に挑戦していく検事とジャーナリストたち、ヒトラーだけではなく一般市民が罪を犯した事に対する憤り、若き検事は自分の父がナチスだった過去の発覚に対し、精神が追い詰められていきます。どれをとっても隠蔽された過去を解き明かし、罪を償わせようとする正統な努力は、後の時代を知っている私たちは共感を持って迎え入れられますが、当時の時代風潮や抵抗は如何ばかりだったのか、思い量ると大変なジレンマに陥ったのではないかと思うのです。映画は若き検事の恋愛模様を織り交ぜて、辛辣な内容ばかりではなく、ホッとさせる場面もあります。自国民の厳しい過去と向き合うと同時に、映画は若い二人の未来も描こうとしているようで、四六時中暗いテーマで進行するわけではなく、エンターティメントにも優れていて、これは観て良かったと思える映画のひとつだったと思っています。
    14‘RECORD 4月・5月・6月分アップ
    私のホームページに2014年のRECORD4月分~6月分をアップしました。この1年間の毎月のテーマは文章でした。4月は「囚われし賤民の出航」というテーマで、制度的に見て差別を受けていた民族が、その社会から解放を願うことを抽象的、象徴的に描いてみようと思ったことがきっかけでした。大きな捉えとしては読書を通じた知識によるものですが、自分が小学生の頃、差別的な言動をして友人を苦しめていた後悔やら、後に知った部落差別のこと等も頭を過ぎりました。実際の制作ではそこまで社会の裏事情に巣食う深刻なテーマを扱うことはなかったのですが、時間が許せば一度は自分も目にしたヘイトスピーチ等にも向き合った制作を考えています。5月のテーマは「戯れあう幻獣たち」で、東京国立博物館で見た「キトラ古墳壁画」が制作の動機になっています。日本の古代史に登場する架空な動物の由縁にも自分は興味関心を持っています。6月のテーマは「地層に溜まる雨水」で、梅雨の季節に雨が浸透していく工房周辺の植木畑を眺めていて感じたことを視角的・触覚的にまとめたものです。自然との関わりを作品制作を通して自己解釈していく表現を模索したのが6月のRECORDでした。私のホームページを見ていただけるなら、このNOTEの左上にある本サイトをクリックすると入れます。それからRECORDを選んでクリックすれば、今回アップした4月分~6月分のRECORD画像が出てきます。ご高覧いただけると幸いです。