Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 今月末の日を迎えて
    今日は5月最後の日でした。今月はゴールデンウィークに「発掘~丘陵~」が完成し、案内状の撮影を「発掘~丘陵~」を使って行いました。追って「陶紋」が完成し、カメラマンに野外撮影をお願いしました。「発掘~群塔~」は今日でほぼ完成で、番号を付けた印を厚板と陶彫の両方に貼りました。陶彫部品によってはまだ修整が必要ですが、それはまた今週のウィークディの夜に毎晩工房に通ってやっていきます。そういう意味では今月は相次いで作品が完成し、一応の成果を上げました。まだ5月と言うのに真夏のような気温が続き、毎晩通う工房で、忽ち汗が流れてシャツがびっしょりになりました。今日も印を貼るだけの作業なのに額から汗が滴り落ちていました。作品を床置きにしているので、印を貼るために立ったり座ったりして、まるでスクワットを繰り返している状態になり、脚がヨレヨレになるまで疲れてしまいました。夕方になって、若いスタッフが来月大きな展覧会に出品することに決まったので、作品の額装を手伝いました。先週は塗装作業を彼女に手伝ってもらったので、今回は私が手伝いました。持ちつ持たれつの関係がいいなぁと思っているのです。今月のことを言えば、美術館等にはよく出かけました。京都国立博物館、京都国立近代美術館、東京のBunkamuraザ・ミュージアム、東京都庭園美術館に行って、刺激的な展覧会を見て来ました。その他では海老名文化会館に出かけ、家内の胡弓による「おわら」同好会の演奏を聴いてきました。若いスタッフと横浜動物園ズーラシアにも行ってきました。作品制作に追われている時間を掻い潜って、よくもいろいろなところに出かけたものだと思っています。RECORDは反省すべきことが多いのですが、読書は相変わらず哲学に絡めたドイツロマン派の美術評論を読んでいます。まずまず充実した1ヶ月だったと思っています。
    週末 「群塔」色彩処理
    今日は午前中に職場に隣接する施設に用事があって出かけてきました。週末に仕事が入るのは立場上仕方ないことです。今日は真夏のような暑さで、そろそろ熱中症を心配しなければならない季節かなぁと思っていました。午後は工房に行きました。油絵の具の臭いが充満して、息苦しい空間になっていました。早速窓を開け、外気を通しました。先週は7点の屏風を床に置いて、工房に出入りしているスタッフたちが下塗りとドリッピングをやってくれました。スタッフと言っても全員が創作活動を展開する若きアーティストで、彼女たちがバランスを見ながら塗装した画面はとても美しい効果を齎せています。その後、ウィークディの夜に自分一人で工房に通って、ドリッピングした画面の上から油絵の具を霧吹き状に撒いて、画面を落ち着けました。この度合いが難しく、また楽しい瞬間でもあります。あまり霧吹きをしてしまうと、美しい斑点が消えてしまう可能性があるからです。その兼ね合いが大切で、どこまでやって完成とするか、判断に迷うところです。この作業に長時間は禁物です。1時間程度作業したら翌晩にまわし、再び全体を確認していく方法を取りました。毎晩通ううちに完成が見えてきました。今日はその画面に陶彫部品を全部配置して、さらに陶彫の色合いと油絵の具の色合いを確認することにしました。これもあまり同化させてしまうと陶彫による造形が目立たなくなる可能性があって、どこまでやって完成とするか、繰り返し判断に迷うところです。明日もう一度確認することにしました。それを決めてから陶彫部品に番号をつけた印を貼ります。いよいよ完成が近づきました。
    「非ー自我としての無意識」
    表題にある「非ー自我としての無意識」というのは、近代的な自我や内面の成立のことを言います。現在読んでいる「風景の無意識 C・Dフリードリッヒ論」(小林敏明著 作品社)はフリードリッヒに代表されるロマンティック絵画が、当時の時代背景や近代の物質的・思想的発展から生じた人の内面に向けられた眼に対し、それが絵画を評論する上で欠かせない要素になっていることを論じています。文中のコトバを借りれば「いわゆる『内省』とか『反省』と呼ばれるものが自然観察の対現象のようにして生じてくる。ただし、これにはひとつの条件がなければならない。それは離れる『社会や人間関係』がすでに自然と明確なコントラストをなすほどに発展していなければならないということである。鄙びた農漁村のように、人間関係やその生活形態がいまだ自然と密接に関わりを保持しているところでは、たとえ豊かな自然を前にしても、そこに『孤立』が生じる余地がないからである。言い換えれば、こうした自然を前にしての孤立が可能となるのは、その逆に社会や人間関係がすでに自然から乖離した都市化をこうむっていなければならないということである。その原因は言うまでもなく産業資本主義の発達である。」というのは、「非ー自我としての無意識」を自然の中で感じ取るのは、近代都市として発展してきた社会構造が成熟するにつれ、人が内面に向かうことが出来るというものです。そこから崇高という概念が生まれたり、芸術を取り巻く思索が生まれる契機になったことを知りました。
    造形意欲を刺激する仮面
    東京都庭園美術館はアール・デコ建築による独特な雰囲気を持つ美術館ですが、同館で開催している「マスク展」は如何なものだろうと思って、先日同館に出かけました。自分は昔から仮面が大好きで、その民族が有する原初的で生命感溢れる表現に、自分の創作意欲が刺激されてきました。とりわけアフリカの黒い木彫の仮面に強く惹かれます。20世紀初頭にピカソを初めとする多くの芸術家を魅了してきたアフリカ系プリミティヴ・アート。そこに新しいダイナミズムと美的価値を見いだした当時の芸術家に改めて感謝です。図録で気になったコトバを拾ってみます。「美術館で展示される仮面は、文化的な栄養分を絶たれてしまったという意味で、もはやもとの仮面とは似ても似つかぬものであるのかもしれない。けれども外部の世界からやってきた仮面を目の当たりにすると、見る側は多少なりとも混乱に陥る。この瞬間、展示室の壁は期せずして、西洋と非西洋、自文化と他文化というたがいに異なる世界が出会う界面になっている。その界面の上で、仮面はおそらく、ふたつの世界をつないで橋渡しをしているのである。(川口幸也氏著)」「ピカソがアフリカの仮面に注目した一方で、ブルトンは、特にオセアニアの仮面に対する賛辞を惜しまなかった。~略~パプアニューギニアの住民にとっては、~略~自然との逢瀬における存在のダイナミズムにおいて、異次元の〈境界〉を行き来することとは、彼等にとって実に容易い仕草であったに違いない。ブルトンはそこにこそ、シュルレアリスムが指向した痙攣すべき美の世界を認めていたのではなかったか。(神保京子氏著)」芸術家の造形意欲を刺激し続ける仮面群。アール・デコ建築とも相性の合う仮面群。美術館を後にした自分は精神的な充実を得られました。
    ボッティチェリの聖母子像
    先日、東京渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで開催中の「ボッティチェリとルネサンス フィレンツの富と美」展を見てきて、勤務中の緊張感が消え、ほっと和んだ瞬間がありました。キリスト教美術で思い出すのは、自分が20代にヨーロッパで暮らしていた頃に、教会建築や堂内を飾る荘厳な宗教画に辟易していた時期があり、自分の生育歴にない異文化の胎内で、やりきれない嗚咽感に襲われたことがありました。そんな若かりし頃の記憶からは想像も出来ないのですが、現在の自分はキリスト教美術によって癒やされています。本展に出品された宗教画のうちボッティチェリの作とされる聖母子像4点に、自分は静かで深い感動を受けました。羅列すると「聖母子と二人の天使(ワシントン・ナショナルギャラリー)」「開廊の聖母(ウフィツィ美術館)」「聖母子と二人の天使、洗礼者聖ヨハネ(アカデミア美術館)」「聖母子と二人の天使(ストラスブール美術館)」の4点です。注文主は当時フレンツェで富を成していたメディチ家とも考えられ、青年だったボッティチェリのスタイルにはリッピやヴェロッキオの影響が見て取れると図録にありました。経済の繁栄と密接だったそれぞれの画家の工房に思いを馳せながら、丁寧に描かれた宗教画をじっくり見せていただきました。