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  • 「夢の仕事」(d)(e)まとめ
    「夢解釈」(フロイト著 金関猛訳 中央公論新社)第六章「夢の仕事」の(d)「描出可能性への顧慮」と(e)「事例ー夢における計算と言辞」のまとめを行います。「夢解釈」は事例に基づく考察が多く、そのつど夢の想念に関する論究を深くさせると同時に膨らませ、夢内容の解明を図っています。そのため、まとめにしたい箇所が随所に現れてきて、究極の一文が見つけにくいのです。単元毎のまとめでも、自分には総括する力量が足りず、また語彙も豊富ではないため、結局は引用に頼らざるを得ません。(d)「描出可能性への顧慮」の中で気を留めた箇所は「比喩的なものは夢において描出がなしうる。そして、たとえば新聞の政治論説をイラストで表すのがむずかしいのと同じように、夢の描出にとって抽象表現は困難だが、そうした場合にも比喩的なものはうまく適合する。」という一文です。これは全体のまとめにはならないと考えて、次の一文を付け加えます。「(夢の想念の夢内容への変化に関する要因)とは、夢が用いる特異な心的素材ーすなわち、たいていは視覚像ーによる描出可能性への顧慮である。本質的な夢の想念とのさまざまな副次的なつながりのうち、視覚的な描出を許容するつながりが優先される。そして、夢の仕事は、扱いにくい想念をまずたとえばある別の形式の言い回しに鋳造し直す。」さて、次に上げる(e)「事例ー夢における計算と言辞」でも事例が数多く紹介されています。単元固有の要素を文面から読み解けば、次の引用になるかなぁと思っています。「夢の仕事がその素材を、つまり夢の想念をどう扱うかーこれは夢に現れる数字や計算において示唆に富んだ現れ方をする。おまけに、夢の数字は迷信においてとりわけ予言的なものとされる。」
    週末 小さな球体作り
    今日は朝から工房に行って制作に没頭しました。平面的な新作に設置する10個の球体陶彫のうち、成形は8個完成し、そのうち3個に彫り込み加飾を施しました。球体陶彫は小さいので、彫り込み加飾に手間がかかりました。もともと粗土を使っているので、肌理の細かい彫り込みには向きませんが、小さめの木ベラを使って表面を削ったり、穴を空けたりしました。重宝している小さめの木ベラは、ウィーン国立美術アカデミーの工房で作ったものです。20代の頃、同校でメダルの浮き彫りを習った時に、助手から木材を与えられて手作りしました。他にも手製の道具がありましたが、今も使っているのはこの小さい木ベラだけです。30年以上も使っていることになります。すっかり手に馴染んでいて自分の身体の一部になっています。陶彫は仕上げに使うヘラがとても大切で、私は大小さまざまなヘラを持っています。ほとんどが栃木県益子の明智鉱業で購入したものです。薄い金属ベラで、湿った陶土の表面を撫でると、細かな罅割れが消えて滑らかになります。掻き出しベラは本来陶土を刳りぬくものですが、表面の僅かな凹凸を整えるのに役立ちます。そんな道具を駆使して作業していると時間が経つのを忘れます。彫り込み加飾は立体的興味は薄れますが、平面的な処理を取り込むことで、作品に装飾的な緊張感を齎せます。それは微妙な陰影を利用しながら全体としての立体を強調するものではないかと思っています。今日は装飾的で工芸的な作業に明け暮れた一日になり、肩が懲りました。来週も継続です。
    週末 展覧会&お歳暮
    やっと週末になったという気分ですが、今日は工房へは行かず、以前から見たかった展覧会と日頃お世話になっている方々にお歳暮を贈る用事に当てました。見たかった展覧会は東京世田谷区にある世田谷美術館で開催されている「フリオ・ゴンザレス展」でした。昨日は冬に珍しく大雨が降っていたのに、今日は朝から秋晴れになり、世田谷美術館のある砧公園は、銀杏の落ち葉が舗道を埋め尽くし、金色の絨毯のようでした。朝の光が絨毯にまだら模様を描いていて、その美しい情景が美術館へ続いていました。スペインの彫刻家フリオ・ゴンザレスの展覧会には「ピカソに鉄彫刻を教えた男」という副題がついていました。20世紀が始まったばかりの美術界、そこにピカソがいて、一方でブランクーシがいました。この20世紀を代表する巨匠たちを手伝い、また鉄の立体造形を教えた人がゴンザレスでした。巨匠の影に隠れてしまった技巧派作家、でも前衛を体現したゴンザレスは、自らも作品を作り、後世の彫刻家に多大な影響を及ぼしたのでした。美術館に入って最初の空間に展示されていた「ダフネ」と題された鉄の彫刻は、その颯爽として面白みのある造形で鑑賞者を魅了していました。詳しい感想は後日に改めます。次に向かったのが横浜駅近隣のギャラリーで開催していた「絵本展」でした。工房に来ている中国籍アーティストが出品しているので見てきました。彼女を含めて10人の作家が出品していましたが、なかなかの水準で力作が揃っていました。彼女の絵本作品は「水」をテーマにしたもので、日本語と中国語の詩が散りばめられていました。中国の京劇を線描した連作も、絵本に仕立てられ見応えがありました。自国の文化を大切にしている彼女を今後も応援していきたいと思います。最後に横浜駅のデパートで師匠や親戚宅にお歳暮を贈りました。この時期は大変な混みようで、かなり待たされましたが、我が家の恒例行事になっているので、これは仕方ないと思っています。明日は制作です。今日の遅れを取り戻すべく頑張ろうと思います。
    映画「草原の実験」について
    ロシア映画「草原の実験」は衝撃作として国際映画祭で数々の賞を受けました。ラストに襲いかかる衝撃があるからこそ成り立つドラマであることには違いありませんが、そこまでに至る穏やかで繊細な心理を反映した物語は、その細かな情景で私を魅了し続けました。大草原に立つ一軒の小さな家、そこで暮らす父と少女、毎日どこかへ働きに出かける父を見送る少女、彼女に仄かな恋心を抱く幼なじみの少年、そこに現れた凛々しい瞳をもつもう一人の少年、清楚で美しい少女を巡る三角関係、全編を通して台詞はありません。関係が近ければ意思の疎通に必要な言葉は要らなくなると確信するほど、各人の表情が豊かで雄弁に物語を語っています。私は少女の自然な振る舞いに引き込まれました。14歳の大人とも子どもともとれない微妙な年齢と朴訥な仕草、美しい容姿に何かを含んだ表情、これはプロの女優ではないなぁと直感しましたが、編集によって素の表情を繋ぎ合わせたことをパンフレットで知って、ひとつの映像表現を得るためのスタッフの見えざる努力が理解できました。そうした美しい風景の中に展開する些細なドラマを全てひっくり返すのはエンディングですが、その不穏な捨石が映画の随所に用意されていました。父が大雨に打たれながら家の外で裸にされ、武装した男たちに探知機で執拗に調べあげられるシーンや、父が亡くなり家を出て行く少女の前に立ちはだかる有刺鉄線、これは何を意味しているのでしょうか。旧ソ連は1949年から89年まで468回の核実験を行い、住民への避難勧告がなされなかった事実があります。そんな背景を通して、この映画が伝えたかった現実が浮かび上がってきます。この映画は決して牧歌的なものではなく、残り数分に主張の全てを盛り込んだ映画だったと思っています。
    橫浜下町に関する記憶
    私がまだ幼かった頃、父に連れられて現在の橫浜市中区の伊勢佐木町や黄金町に行った記憶があります。1960年初めの頃は、戦後の闇市の名残があって、傷痍軍人が筵の上で御国のためにしてきたことを訴え、日銭を得ている情景があちらこちらで見受けられました。娼婦もいたかもしれず、漠然とした街の怖ろしさが子どもの目にも焼きつきました。一方、伊勢佐木町には百貨店や洋菓子の不二屋があって、キラキラした街の光に私の心も高まりました。私が生まれた旭区(当時は保土ヶ谷区)は田畑が広がる農村地帯で、時折出かけた中区はまさに都会だったのでした。現在の黄金町は、アートによる街作りが進んでますが、私は記憶のどこかに昔の街の佇まいを留めていて、日雇いの酔っ払いが路上で寝ていたり、出稼ぎで来日している外国人女性の姿がありました。実は横浜市の公務員になったばかりの頃に、中区から南区に続く大岡川界隈にある職場に勤めていました。30年前の当時も幼い頃遭遇した街の景色と大きな違いはありませんでした。街が明らかに変わってきたのは、ここ最近のことです。若葉町にあるシネマジャック&ベティは1952年に出来た横浜東映名画座が前身ですが、上映される映画に興味があって、よく夕方に出かけます。現在シネマの待合室で写真展が開催されています。八木澤高明写真展「黄金町 過去・現在 写真因果経」というもので、外国人娼婦を追ったドキュメンタリーです。写真家八木澤高明氏には「黄金町マリア」という著作があります。近々読んでみようと思っています。街の風紀が変わり、浄化されることを横浜市民として歓迎しますが、その一方で人間臭さが失われることもあります。かつての記憶を何かのカタチで留めておきたいものです。