2015.10.30 Friday
「詩によって心が動く、とはどういうことか。それは、言葉によって不安や不条理感が発生したり、笑いが生じたり、さびしさや爽快感が沸き出したり、あるいはこれまで意識しなかった考えに興奮したりする、そういった多様で、安易に名づけ得ない情態になることを指している。~略~それらしい物語や耳触りのよい詩語を冗舌に並べるのではなく、この『自分の言葉』に真剣に向き合うという書き手の出来事がなければ、読み手もまたその詩を出来事として出会うことはできない。」これは神奈川新聞に掲載されていた廿楽順治氏の文章です。詩とはどういうものかを常日頃から問うている自分の胸にストンと落ちる言葉でした。「推敲の痕跡など残さないように、そして読者がごく自然に流露する詩の言葉の快楽を感じ取れるように、一篇の詩を仕上げる名手」とあったのは朝日新聞に掲載されていた記事で「詩人・大岡信展」を紹介した菅野昭正氏の文章です。時代を象徴する詩人が自ら推敲したノートの写真が掲載されていて、そこには幾度となく書いたり消したりした跡が生々しく残っていました。詩は自分のイメージに従って言葉を選んで作り上げるものだという至極当たり前の方法が見て取れました。かつて自分は、自分が学んだ造形美術はエスキースを重ね、苦しんだ末にひとつのカタチに辿りつくものとしていて、逆に詩は心に浮かんだものをそのまま書いていて、作るというよりは生まれてくるものではないかと思っていた時期がありました。言葉の持つ意味やイメージによって不思議な空間に引っ張られていく自分が、詩人の計り知れない言語力に平伏してしまうことも暫しあって、どうしたらこんなふうに言葉を操れるのだろうと感じていました。詩は造形作品と同じで、書いたり消したりしてひとつのコトバに辿りつくものだと分かって、今は詩が身近に感じられています。さらに平塚市美術館で開催中の「画家の詩、詩人の絵」展を見て、画家も詩人もイメージを具現化する創作工程は同じで、双方の魂が双方の媒体に影響することが認識できました。自分が詩に拘るのも造形美術上、満更でもないのかと思った次第です。
2015.10.29 Thursday
先日、平塚市美術館で開催している「画家の詩、詩人の絵」展に行ってきました。詩魂がなければ造形作品は生まれないと考えている自分にとって、とても好都合な展覧会で興味津々でした。自分が学生の頃、現代美術は文学性を排除していく傾向がありました。文学性は情緒でありネガティブなものとの位置づけがあって、造形美術は開かれたドライな表現が時代を彩るものとされていました。自分も人体塑造が文学性と結びつくことに抵抗を感じて、もっと堅牢な表現に向かうべきと考えていました。それは当時の自分がまだ若年ゆえに時代の表層だけを追っていたわけで、現代美術の中には謎のような思索を秘めたものがあり、存在の意味を解き明かすと同時に、作品のもつ詩魂に触れて、ついに美術と文学の関係を考えるようになったのでした。図録に興味深い対談があったので引用します。信濃デッサン館長窪島誠一郎氏と世田谷美術館長酒井忠康氏の対談です。「僕が絵画の文学性というときは、決してポジティブな意味ではいっていない。ネガティブに考えたい。ここが、本流になったら気持ち悪い。」(酒井氏)「全人的な人間的なところから出発する営みであって、絵を描くのであれ詩を描くのであれ、ひとつの卵から生まれる行為なのです。たまに、作為的、恣意的に画家自身が詩人と画家を自分で住み分けるケースも見られますが。」(窪島氏)「絵はつかみどころがあるものをつかんでしまったあとの仕事で、詩はつかみどころがなく最後までつかめなかった仕事だから、それを見る人は心のなかでシェイクして融合させる。」(窪島氏)「僕は判定したいね、詩の方が上、絵が下だよ。」(酒井氏)対談を掻い摘んで引用すると何のことやらわからなくなりますが、自分が成る程と思ったところだけ取り上げました。詩については何回かNOTE(ブログ)で取り上げていますが、稿を改めて再考する機会を持ちたいと思います。
2015.10.28 Wednesday
先月、見に行った神奈川県立近代美術館葉山で開催中の「若林奮 飛葉と振動」展で、気になった作品群がありました。同展は特異な思考を具現化した彫刻家の全体像に迫る内容で、初期の鉄を用いた作品から晩年の庭の造形に至るまでの、一彫刻家の思考過程がよく分かる展示になっていました。刺激的な作品を残された若林先生は自分の学んだ大学の教壇に立っておられましたが、直接先生の指導が受けられなかったのが自分には残念でなりません。そんな独特な若林ワールドの中で、私は今回の図録に説明のない小さなオブジェについて、NOTE(ブログ)で取り上げたいと思います。小さな缶の中に納まっている鉄や木材は彫刻の雛型とも言えるし、また持ち運びの出来る小さな彫刻ともいえます。「100線」とか「新100線」というタイトルがつけられていますが、タイトルは何を意味するのでしょうか。缶の中の素材の配置や構造は随分考え抜かれた感じを持ちます。作家本人にとっては意味を持つものだろうと思いましたが、鑑賞する側にも謎解きを強いているようで、奇妙な面白みがあるのです。缶の中で閉鎖感をもって存在する作品は、作家の嗜好とも言える封じ込めた造形世界にも通じています。蓋をしてしまえば見えなくなってしまう造形は、地下に埋めたり、金属板で造形を覆ったり、痕跡を残した金属板を重ねたりして、全体を見えなくする若林ワールドの独特な思考が、この小品にも共通しているように思えます。果たして「100線」シリーズは雛型なのか、小さな彫刻なのか、その両方の役割を担っているのか、この小宇宙に刺激を感じるのは私だけでしょうか。夥しい数のドローイングに呼応するように「100線」が作られていて、缶の蓋に番号がつけられているのを見るにつけ、作家が自分の記録として、こまめに作っていたことだけは確かなようです。RECORDを日々制作している自分にとって、番号の意味するところやこのサイズにした動機などが知りたいと思いました。
2015.10.27 Tuesday
私が学校で彫刻を学んでいた頃、彫刻の研究室には池田宗弘先生がいて、共通彫塑の研究室には保田春彦先生や若林奮先生がいました。他にも彫刻界で活躍されていた方がいましたが、4年間自分が師事したのは池田先生で、私淑したのが保田先生と若林先生でした。自分が在学中から今に至るまで、それぞれ先生方の個展には必ずお邪魔して自分なりに作品の解釈を試みてきました。3人の中で一番解釈が難しく、また刺激的だったのが若林先生でした。図録の年表を見ると当時は「振動尺」が登場し「所有・雰囲気・振動」と題された個展が開催されていたようです。あの頃、先生の講義を聞いても何のことやらわからず、彫刻の概念そのものを新たに構築しようとした思索には理解が及びませんでした。でも何か自分には引っかかるものがあって、木材で出来た直方体に鉄や他の物質が加えられた彫刻「振動尺試作」が意味するものを解き明かそうとしていました。ちょうど自分が人体塑造の巧みさを競うのではなく、彫刻そのものに対して自問自答していた頃だったので、習作から表現に向かう扉を開く時期と、「振動尺」の提示が相まっていたのではないかと述懐しています。空間に置かれたモノは常に振動し、時間とともに変容していく、それら全てを彫刻表現として捉える若林ワールドに、漸く自分の理解が追いついたところで、先生が亡くなられ、残された作品を再解釈していくことになり、先生の作品が見られる機会は自分にとって大切な再会の時と思っています。先日出かけた神奈川県立近代美術館葉山での「若林奮 飛葉と振動」展を見て、改めて気づくことはいっぱいありました。また稿を改めて若林ワールドを検証します。
2015.10.26 Monday
「発掘~増殖~」は昨年ギャラリーせいほうで発表した陶彫作品です。床を這っていくようなイメージで作りました。どのくらいの規模にしようか迷った挙句、当初のイメージの半分くらいの大きさに落ち着きました。無計画な都市化がテーマですが、鑑賞者の受け取り方ではさまざまなイメージに結びつくようで、そうした意味ではうまくいった作品と判断してもいいかなぁと思っています。私のホームページ(HP)にはGalleryという頁があります。今回Galleryに「発掘~増殖~」をアップしました。画像処理はカメラマンに委ねていて、カメラマンの作品と言っても過言でないくらいの強烈な方向性を持っています。自分はそうした他者の感覚が加わってくれるのを望んでいます。なぜならそこに思わぬ視点や光陰が出現するからです。「発掘~増殖~」の画像は闇の中から浮かび上がる動物的な皮膚をもつ構造体が露わになっていく過程を演出してくれています。私のホームページを見ていただけるなら、このNOTEの左上にある本サイトをクリックすると入れます。それからGalleryを選んでクリックすれば、今回アップした「発掘~増殖~」の画像が出てきます。ご高覧いただけると幸いです。