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  • 「夜と霧」新版を読み始める
    「夜と霧」(ヴィクトール・E・フランクル著 池田香代子訳 みすず書房)を読み始めました。タイトルに新版としたのは、本書には旧版があるためです。霜山徳爾訳の旧版はあまりにも有名なので私も知っていましたが、今回の新版には年代を経たからこそ可能になった新たな解釈が導入されているようです。ここに来て、どうしてユダヤ人捕虜収容所の体験記を読みたくなったのか、読書歴がショーペンハウワーからニーチェの著作に移った後、ちょっと哲学を離れてみたくなったものの、何か厭世主義的な傾向が頭に残り、そこに永劫回帰がやってきて、さんざん読んだ形而上の思索より、具体的な厭世を垣間見たくなったのかもしれません。具体的と言っても自分の成育歴とは環境が違いすぎて、戦争当時のアウシュヴィッツやその周辺にあった捕虜収容所の様子を知ることは不可能に近いと考えます。でも、たとえ実感できなくてもそれなりのイメージを持ち、負の遺産を受け入れることはできるのではないかと思います。自分はポーランドのアウシュヴィッツには行ったことがありません。自分が20代に滞欧していた時期は、米ソ冷戦時代最後の頃でした。チェコやハンガリー、ルーマニアには行っていたもののポーランドに足を伸ばすことはありませんでした。少し無理をしても行っておくべきだったかなと思っています。ともあれ本書を読んで、極限状態にある人間の悲劇を考えたいと思います。
    「ツァラトストラかく語りき」読後感
    「ツァラトストラかく語りき」(ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社)下巻を読み終えました。本書は上巻・下巻に分かれ、4部構成からなる大著です。ニーチェ晩年の思想が述べられていますが、ニーチェの生涯で精神を病んでから執筆活動をしなくなる最晩年があるので、本書はそれまでの間に書かれたニーチェ哲学の集大成に位置づけられる著作と言えます。ニーチェの著作に飛翔せんとする勢いのあるパワーを感じるのは私だけでしょうか。詩を散りばめた本書にも縦横無尽に疾走するニーチェ独特の哲学があると思います。それにしてもニーチェのパワーはともかく、内容は理解困難な箇所がたくさんありました。訳者の解説にも?がついている箇所があり、ニーチェ存命当時の細かな状況を知り得なければ翻訳不可能なところもあったのだろうと思います。でも面白さは伝わりました。一部の文面にハッとさせられる輝きがありました。永劫(永遠)回帰は、本書だけでは理解できず、別の解説書に頼りました。こうした思想がどこから生まれ、そもそも意図するものは何なのか、詩情溢れる本書からこれを読み取ることは自分には出来ませんでした。本書は比喩も多く、場面場面で登場する魔術師や法王や驢馬などは何かを例えている存在であって、それらを読み取っていく洞察力も必要でした。本書を再読する機会は訪れるでしょうか。ニーチェ哲学に拘りがあれば、あるいはもう一度チャレンジするかもしれません。その時まで書棚に眠らせておこうと思います。
    神の死に纏わる雑感
    ニーチェが言う神の死を自分はどう捉えたらいいのでしょうか。宗教は人類が創造した偉大なる精神文化で、とりわけキリスト教は人間を超えた存在を神として畏怖しつつ、人が創った神を逆転の発想として、神によって人が創られたとしました。それによって罪深き人々に救済の思想が与えられました。人々が一定の道徳観念をもって、より良く生きるための方策が聖書にまとめられていて、人が心惑う時に聖書を紐解いて、心を安らかに保つ教えをそこに見いだすと私は思っています。私自身はキリスト教徒ではありませんが、その宗教の意図するところは解ります。東洋人であってもキリスト教信者が多くいる現状の理解として、キリスト教が地域性を超えて国際的な視野を獲得したものと理解しています。そこにニーチェの神の死という思想が持ち込まれました。宗教を生活の中心に据える敬虔な信者にしてみれば、驚くべき発想であったと察します。茫洋たる東洋の神秘思想に比べると、西欧の宗教は理に適う思想であって、ニーチェもまた哲学を持ってキリスト教に対峙しています。日本人としてそこに若干の違和感と学術的面白さを感じます。
    近親者の通夜に思う
    先日、妹の嫁ぎ先の姑が亡くなったことをNOTE(ブログ)にしましたが、後を追うように舅も亡くなり、今晩は通夜が営まれました。享年96歳。大往生とも言える年齢で、自分もこの歳まで生きていたいなぁと素直に思っていました。長く生きられた秘訣は何かと参列していた妹の義姉夫妻に家内が聞いていました。故人は頭を使う碁が好きだったこと、よく書物を読んでいたこと、駅まで歩いてカフェで新聞を読むのが習慣だったこと、粗食だったこと等、いろいろありましたが、自分の時間を楽しんでいた様子を窺い知ることができました。今の自分にはまだ考えが及ばないところですが、そろそろ自分も定年を意識していることがあって、定年後の自分をイメージする絶好の機会でした。さらに通夜に参列して、最近ぼんやり考えることがあります。それは魂の存在です。このところ神秘思想家シュナイナーの理論や哲学者ショーペンハウワーやニーチェを読んでいるためか、知識として魂の存在を脳裏に刻みつけているところですが、いずれ知識を超えて、魂そのものの存在を捉えることがあるかもしれないと思っているのです。自分が芸術や哲学を本当に必要とし、魂の具現化に意欲するときが来ると信じて疑わないのです。今晩はそんなことを考えながら過ごしたひと時でした。
    「神は死んだ」根拠について
    哲学者ニーチェには、「神が死んだ」というあまりにも有名な言葉があります。ニーチェを読まずともニーチェが反キリスト教の立場を取っていたことは、高校生の頃から自分も知っていました。現在読んでいる「ツァラトストラかく語りき」(ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社)にその箇所があります。訳者の解説と共に抜粋します。「神は人間が十字架に磔せらるるを見て、人間への愛は人間の地獄となり、ついには人間の死となることに堪えなかった、と?」『解説:キリストが磔刑さられたことは、人間に憐憫同情・隣人愛を教えることが、結局は人間性を堕落せしめる所以であることを示す』「彼は、秘密に充ちて隠れたる神であった。まことに、息子を生むためすら、彼は蜜路を忍んで来たったのである。彼の信仰の門口には、姦淫がある。」『解説:キリスト教の神の観念には人間性の裏をゆく疚しげなるところがある』「愛する者とは、報酬と報復の彼岸に愛する者であるべきだ。」『解説:神は人間から反対給付を求めていた』「あまりにも大いなるおのれの憐憫の故に、窒息した。」『解説:ユダヤ教・原始キリスト教・中世の信仰には、なお強烈な意欲があったが、現代のキリスト教は無気力に堕して衰弱した』「彼は多義であった。」『解説:神が弱体化したのは、その性格と言葉が多義曖昧だったからである』「もしわれらの耳に泥があるならば、いざ、之を投げ入れたのはそも何人であるか?」『解説:人間のはい徳を創造したのも、神ではないか』以上の箇所に神を死に至らしめる言葉が散りばめられています。「神は死んだ」とニーチェが主張した根拠はまだありますが、本書の中で気に留めた箇所を挙げさせてもらいました。