Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 厭世主義否定の思考を示す
    哲学者ニーチェは若い頃にショーペンハウワー著「意志と表層の世界」を読んで、厭世主義に貫かれた哲学に傾倒したことがあったようです。自分はニーチェ著「悲劇の誕生」を読んで、その源泉を探るべく「意志と表層の世界」を読んだわけですが、自分もショーペンハウワーの大著作に圧倒されました。ショーペンハウワーの生涯をかけて展開された共苦的な厭世主義の哲学は、衝撃を与えられることは請け合いですが、自分にとって何かしっくりいかない感覚が残りました。世界は苦悩で満ちているという発想は人生観を活性化する裏返しのようなものではないかと感じ、自分は共苦的な厭世主義に陥らないようにしたいと思いました。「ツァラトストラかく語りき」(ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社)では厭世主義を否定する箇所があったので注目しました。抜粋して引用いたします。「もしこれらの人々『厭世主義者』が衷心よりの同情者であるならば、かれらはかれらの隣人に、その生をより厭悪すべきものと為す筈ではないか。悪意あること、之がかれらの真の慈悲である筈ではないか。」解説によれば「かかる隣人への同情を説く厭世主義もまた論理的に矛盾である。人にしてもし真の厭世主義を奉ずるならば、隣人をもこの人生から逃れやすくしてやるべき筈ではないか。隣人にはむしろ峻酷な態度を以て対して、その生をより厭わしきものにしてやるべき筈である。」とあります。厭世主義に対する姿勢がよく表れている箇所だと思います。
    古いフォークソングを聴きながら…
    自宅の食卓でRECORDを制作しながら、古いフォークソングを聴くのが習慣になっています。自分の学生時代に流行った唄ですが、それでも当時は一般的な流行歌ではないどちらかと言えばマニアックな唄ではなかったかと記憶しています。それは小室等の「私は月には行かないだろう」や「父の唄」等で、CDの復刻盤を最近購入したのです。ドーナッツ盤は自宅の屋根裏に眠っていますが、レコードプレイヤーがないので聴くことができません。高校時代に初めて和製フォークソングを聴いて、忽ち魅力に取り憑かれてしまいました。小室等は現代詩に曲をつけて歌っていて、当時現代詩が好きだった自分は、その斬新さに驚きました。詩人の大岡信や谷川俊太郎、茨城のり子、吉増剛造等の詩は当時からよく知っていて、詞ではなく詩に曲をつければ、リピートのない、つまり1番も2番もない曲になってしまいますが、それでも原語感覚が失われることのない曲想に納得していました。自分の中では古いフォークソングは、決して古くなることはなく今だに生き続けていて自分の心を癒してくれます。思えばこうしたフォークソングから知り得た詩人もいました。美術評論家としても有名だった大岡信もその一人です。大岡信の言語感覚に大学時代の自分は共感を覚えました。見れば自宅の書棚には当時買い求めた詩集がどっさり眠っています。時間が出来たら当時の振り返りをしたいと思うこの頃です。
    他愛のない夢を思う
    私は自分の工房を持つことが若い頃からの夢でした。相原工房は今の自分にとって申し分のない空間で、そこに創作意欲と癒しの両方を感じ取ることができるのです。ところが欲望は限りないようで、夢でまるで違う工房の空間を見ることがあります。古板を張った床、白い壁に碁盤状になった棚、天井は鋼管剝き出し、机は古木、細い鋼鉄を加工した椅子、数え上げればキリがないほど充実した空間に自分が住んでいるのです。かつてNOTE(ブログ)に書いた記憶がありますが、このところまたそんな夢を見ています。夢の中で人は登場しませんが、その空間のイメージはどこからくるのか、どこかで見た部分の組み合わせには間違いはありません。たとえば工房の扉には金属の取っ手がついていますが、これは横須賀のカスヤの森美術館の扉にあった取っ手です。また錆鉄で出来た自分の彫刻の雛型が棚に飾ってあって、直方体や立方体に負の人体が刻まれた作品は、かつて見た夢の作品の続きのようなのです。新作のイメージは制作中にふと湧いてきますが、それとは別に理想とする空間願望が夢に現れると言ったらいいのでしょうか。他愛のない夢とは言え、あまりにも具体的で不思議なイメージに自分は半ば戸惑い、半ば酔っています。
    駱駝→獅子→小児についての格言
    「精神が駱駝となり、駱駝が獅子となり、かくて最後に獅子が小児となる」という格言は、現在読んでいる「ツァラトストラかく語りき」(ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社)にあったものです。駱駝の意味は向上する精神の第一段階は強靭なる受動性を指すことを言っています。その受動的な精神をよりよく獲得するのには獅子の如く大胆な勇気がいるというのが駱駝から獅子に進み出るものです。さらに小児に見られる純真さ、忘却、遊戯においては自発的で、一切の他律的な力を認めず、下界と拘りなく自己の世界を創造するものとなり、獅子が小児に進んでいく過程になるのです。自分なりの雑駁な解釈を許してもらうとすれば、人生においてまず受動期があり、これは学術的知識や社会倫理を得る教育期間にあたるのではないかと思います。次に社会的地位を得て、その業務促進や判断を行う時期が到来し、大胆な勇気と細心な注意を要する仕事の期間が訪れるのです。やがて人は知遇を得て自由闊達になり、真に創造行為に身を投じることができるのではないかと思われます。これは自分流の独断的解釈で、果たして格言の意図するところとは若干異なるかもしれませんが、精神面での理想的な成長を描いたものであることに間違いないのかもしれません。
    週末 筋肉痛の制作
    昨日の雪掻きで朝から筋肉痛でした。昨日は陶土の運搬業者が予想より早く朝8時に到着したため、工房前の雪掻きを焦ってやりました。それから午後は自家用車を出すために自宅裏の駐車場から道路まで雪掻きをやりました。トータルで3時間以上は雪掻きをやっていたことになります。思わぬ労働で足腰が疲れていたため、身体の調子を戻そうと昨夜は近隣のスポーツ施設で水泳をしてきました。それでも今日は筋肉痛が残りました。制作においてもパワーが必要で、中腰になったり、しゃがんだりして陶土と格闘するので、筋肉痛で辛いかなぁと思っていましたが、集中すると不思議に筋肉痛は感じなくなりました。成形を2点やって、さらに乾燥した別の成形部品4点に化粧掛けを施して窯に入れました。今週は焼成を2回行う予定です。今日の分の制作がほぼ終わったところで、再び筋肉痛が襲ってきました。時は待たず、新作は間に合うのかどうか相変わらず不安が過ぎります。今週は雪も消えて工房に夜行けると思っています。気力は十分なので、これからが頑張りどころです。