2014.02.22 Saturday
2週間待たされましたが、ついに陶土600キロがやってきました。配達が遅れた理由は週末を2回襲った大雪です。実は今日も大雪の影響がありました。工房には入り口にしている扉の反対側にシャッターのついた搬出搬入口があります。工房のある畑からシャッター口まで雪が積もったままで、陶土の搬入業者の車が入ってこられない状態でした。きっと午後になって陶土は搬入されてくると勝手に思い込んでいましたが、念のため朝7時に工房に行って畑の入り口からシャッター口まで雪掻きをしていました。そこへ携帯電話が鳴り、これから業者が陶土を運ぶというものでした。雪掻きはまだ3分の1程度だったので、これは焦りました。汗が滴になって流れ落ちました。必死の思いで雪をどけて業者を向かえました。ついに栃木県益子町から遥々やってきた陶土には特別な有難味を感じました。よくぞやってきた陶土よ。彫刻家は素材がなければ何も出来ないことを思い知らされました。さて制作をしなければと心は高揚しましたが、先ほどの必死な雪掻きの疲れが出て、今日は思うような制作は出来ませんでした。因みに自宅の周辺の雪掻きもやって車が出せるようにしました。横浜駅近くの職場にはほとんど雪が残っていないのに、自宅も工房もまだまだ雪がかなり残っています。明日から制作を頑張ろうと思います。
2014.02.21 Friday
ウィークディの仕事と週末の創作活動はリンクしないと考えていましたが、相互で影響し合うこともあって、週末の制作が停滞気味です。このところ制作は調子よくやっていたのですが、工房の周囲は大雪がまだ残り、ウィークディの夜に工房に行くことが出来ず、おまけに貯蓄してある陶土も底をついている状態では、何とも仕方がないのです。気持ちは充実しているので、雪が融け、陶土が運び込まれてくれば、思いっきり制作に勤しめるだろうと思います。年度末を迎えた職場での仕事が山積し、夜帰宅した後はRECORDを作るのが精いっぱいで、昼間の疲労のせいか夕食を済ますと眠くて眠くてどうしようもありません。ここ数日は無理して起きていないで早めに就寝することにしています。毎年この時季はこんなだったっけ、と思いながら過ごしていますが、毎年制作の条件が異なるので、今年は厳しさ一入なのかもしれません。職場ではインフルエンザも流行の兆しですが、今体調を崩したら公務員の仕事も彫刻の制作も万事休すになってしまうので、身体の体調を考えながらやっていこうと思っています。ゆっくり休みたい気分を抑えながら、明日からの制作に備えます。
2014.02.20 Thursday
「ツァラトストラかく語りき」(ニーチェ著 竹山道雄訳 新潮社)上巻を読み始めました。「ツァラトストラかく語りき」はR・シュトラウスの交響詩が有名で、S・キューブリック監督の映画「2001年宇宙の旅」のプロローグに使われていたので、多くの方が聴かれているのではないかと察します。あの壮大な曲の源になっているのが本書です。ただシュトラウスは本書に触発されて作曲した程度のもので密接な関連は薄いようです。さて、ツァラトストラとは誰のことか、これは他の解説を参考にすれば、ゾロアスター教の開祖のことだそうで、ゾロアスター教は紀元前に遡る古い宗教です。ニーチェは独特な語法で本書を書いていて、日本語訳の言い回しもこれに倣っているのでしょうか、諺めいた格調のある言葉になっています。ツァラトストラは序説において山上の観念界から現実の人間界に降りていき、自らの説法を行うことから本書が始まります。対話形式で進められる本書は、ツァラトストラの他に老賢者や綱渡り人、道化役者などが登場しますが、これは象徴であって人間そのものではないと考えます。決して読み易いとは言えない書籍で、文体に慣れるのにも時間がかかりそうですが、いつものように通勤の友にしたいと思います。今回は哲学と詩が混合したようなもので、ニーチェの論理には矛盾がつきものですが、そんなことより独特の感性で推し進めていくような感じを冒頭から持っています。考えることと感じ取ること、その双方を働かせながらニーチェ流世界観に触れていきたいと思います。
2014.02.19 Wednesday
ついに「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)を読み終えました。ショーペンハウワーは本書を再読をするように読者に呼びかけています。たしかに論理が込み入った難解極まりない箇所も随所に見られましたが、自分は冷却期間をおきたいと考えます。本書はショーペンハウワーが30歳の時に上梓し、その後亡くなるまで手を入れ続けた大著作ではありますが、全体を通して一つの思想を伝えたいのだと主張しています。最後に掲載されていた序文から抜粋します。「どの部分も全体によって保持されるのと同じくらいにどの部分も全体を保持していて、どの部分が最初だということもなければどの部分が最後だということもなく、いかなる部分を通じても思想の全体は一段と明瞭になるのであり、もっとも小さな部分ですら、あらかじめ全体がすでに理解されていなければ、完全には理解されえないといった、そういう有機的な連関でなければならないわけなのだ。」という「意志と表象としての世界」編集全体を構成する要素が述べられています。若い情熱と着想当初の気力で論じられた前半と、人生経験を積んだ着想の円熟と完全な彫琢で論じられた後半には、一貫性に欠ける要素が確かに見て取れますが、双方は互いに補足しあう関係だと著者は述べていて、読者にも理解を示して欲しいと言っています。さらに本書を理解しうるにはカントの教説を読むように促しています。真理に触れること、それに優るものはないと締め括っています。ここにきて亡き叔父の研究したカント哲学に漸く近づいたわけですが、自分はカントを暫し傍らに置くことにして、再びニーチェに戻ることにしたいと思います。カントは避けて通れないのかなぁ…と思いつつ。
2014.02.18 Tuesday
「美しいものに寄せる審美的な喜悦の大部分は、われわれが純粋観照の状態に入ったとき、その瞬間にはいっさいの意欲、すなわちいっさいの願望や心配を絶して、いわば自分自身から脱却し、われわれはもはやたえまない意欲のために認識する個体ー個体とは個々の事物と対応するものであるーではなしに、すなわち『眼前にある』いちいちの客観が動機となるような個体ではなしに、意志を離れた永遠の認識主観ーこれはイデアと対応するものであるーになっているということにいつにかかっているのである。われわれは知っている、われわれが残忍な意志の衝迫から解脱して、いわば重苦しい地上の空気から脱け出して浮かび上がっているこのような瞬間こそは、まことにわれわれの知りうるもっとも祝福された瞬間であることを。そうだとすれば、ここから推定して、美の享受におけるこの場合のように意志が瞬間的に鎮められるのではなくて、永久に鎮められているような人がいるとしたら、その人の生活がいかに至福に満ちあふれた生活であらざるを得ないかは言を俟たないであろう。」「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)純粋観照の状態とは美的なものに圧倒された時に、我を忘れて感動が溢れだす瞬間を言います。考える余裕もなく、つまり本書で言う意志の認識する個体ではない精神状態に置かれた時のことです。それは自分にも訪れることがあります。美術や音楽、または風景や環境によって鳥肌が立つほど震える経験です。それは意志から解脱した状態であると本書は説いています。その解脱状態が永久に続くとしたら、それは意志の否定、完全なる諦念に基づく浄化や聖化があって、さらに揺ぎない寂静と浄福と崇高な境地に立てるのだと述べています。いよいよ本書も最終に入りました。