2014.01.28 Tuesday
以前のNOTE(ブログ)に、RECORDで今月のテーマにした天使について調査し考察したい旨を書きました。結局時間がなくて、天使を自分なりに解釈してRECORDに自由気儘に描いているのです。過去に西欧の芸術家が扱った天使の図像を模写したり、まったく囚われずに抽象化してみたりして、天使がモチーフになっていても、結果として出来上がったRECORDは、まるで宗教を感じさせないものになっています。近現代の抽象芸術家が扱う天使にも自由な表現があって、天使像の表現の幅の広さに驚かされます。以前のNOTE(ブログ)に天使と悪魔との関係について書きました。これは面白いと感じました。一人の人間の心に善悪が同居して、心理としてその双方が現れるのは、日常生活の中でいくらでもあります。まさにファウスト的魂で、勧善懲悪として片づけられない微妙な状況の中で、人間関係の拗れで、天使と悪魔が交互に囁き、心に傷を負わない人はほとんどいないと言っていいと思います。身近な例をとれば画題は見つけやすくなります。広範囲な捉えで天使を描いてみようと思います。
2014.01.27 Monday
「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第四巻を読み始めました。昨年暮れからずっと本書に関わっていて、いよいよ最終巻になりました。自分は朝の通勤時間帯が一番頭に入るようで、電車に揺られながら構築された内容を目で追っています。帰りの時間帯は一日の疲れがあって本書の内容が頭に入らず、同じ箇所を繰り返し読むこともあります。通勤時間帯しか読書ができないので時間がかかるのは百も承知ですが、大著作にあっては内容が細切れになってしまって、前回の復習から始めないと先へ進むことができません。そんなことを思っていたら、第四巻の冒頭に前巻までの復習がありました。「意志はたんに自由であるばかりではなく、全能ですらある。行為が意志から出てくるのみならず、世界もまた意志から出てくるのであって、意志がいかに存在しているかに応じて、行為も現象するし、世界も現象するのである。」さらに哲学とは何かを解く文面がありました。「『哲学とは』世界が『どこから』来て『どこへ』行き、また『なぜ』であるかを問うようなことはなにひとつせず、常時に随所で世界とはそもそも『何であるか』だけをひたすら問題にする考察法である。~略~あらゆる相対関係のなかに現象こそすれ、自身では相対関係に従属せず、つねに自己同一を保っている世界の本質、すなわち世界のイデアを、考察の対象とするものなのである。芸術と同じく、哲学もまたかような認識を起点としている。」最後にショーペンハウワーの死生観が述べられている箇所を引用します。「われわれがなににもまして明瞭に認識しなければならないのは、意志の現象の形式、すなわち生命の形式ないし実在の形式というものが、もともとはただ現在なのであって、未来でも過去でもないということである。未来や過去などは単に概念のなかに存在しているものでしかない。つまり未来や過去は根拠の原理に従っているような認識の連関のなかにのみ存在しているのである。過去を生きた人はいないわけだし、未来を生きてみるというような人もけっしていないであろう。現在だけが生きることの形式なのであり、また現在だけが人間からけっして奪い取ることのできない彼の確実な財産でなのである。現在はそれのはらんでいる内容もろともにいつもそこに在る。現在といい、その内容といい、ともに動揺することなしに確乎として存在しているが、そのさまはあたかも滝にかかる虹のようなものだ。」
2014.01.26 Sunday
日曜日は家内が胡弓の練習に行く日です。私は工房に篭って朝から夕方まで彫刻の制作に明け暮れています。工房での制作が終わる夕方6時頃に、家内から連絡があり、駅まで家内を車で迎えに行くのが日曜日の日課になっています。最近、家内の演奏関係の知り合いが亡くなって、家内は落ち込んでいました。夕方になって駅まで迎えに行くと、亡くなった人への想いを胡弓の調べに乗せて演奏してきたと家内は言っていました。自分には楽器があって良かった、表現の幅が広がったとも言っていました。とりわけ邦楽器は即興的な演奏をするため、情感が伝わりやすいのだろうと思います。音楽は時間芸術で、その時の高揚、感傷、情念などがそのまま表れます。ニーチェの哲学で言うディオニソス的魂で、そこに音楽が多くの人の共感を呼ぶ強みがあると言えます。自分がやっている彫刻は空間芸術で、その時の気分は作品に反映しません。粛々と積み上げる労働があるだけで、制作中の気分のコントロールは平常心を保つことに注がれます。これはアポロン的魂ですが、モニュメンタルな造形であればこその特徴とも言えます。情感に富む制作動機があっても結果を出すまでに時間がかかり、また素材を介在していくため物理的な認知も必要になります。同じ芸術表現であっても、まるで異なる精神の放出の仕方を改めて感じました。
2014.01.25 Saturday
週末になって久しぶりに工房に戻って来た感覚を持つのは、ウィークディの仕事が多いせいかもしれません。今週は次から次へと仕事に追われ、また課題を抱えながら勤務してきました。やっと週末に制作が出来ることを喜びたいと思います。「発掘~層塔~」の陶彫部品の多さに焦りを感じつつ、週末ごとの制作工程を一歩ずつ進めていこうと思っています。そんな矢先に次なるイメージが湧いてきました。イメージとして漠然と見えているのは、現在制作中の塔が数多く群がっている情景です。「発掘~層塔~」より細長い塔が、まるで集落を形成するかのように群がって、そこかしこに点在しています。それは床ばかりではありません。壁からも塔らしきモノが生え出ているのです。塔が立ち現われている生え際に波紋が広がっています。水面に突如現われた尖った蟻塚のような奇妙な都市とでも形容できるでしょうか。何とも説明がつかないイメージですが、自分の記憶から現れたモノであるのは間違いありません。しかも現在制作中の作品に囚われている最中に頭を掠めていったイメージで、メモを取らなくても忘れることのできないモノになっています。次作にするとなれば、曖昧なイメージに輪郭を与え、その情景を育てつつ具現化に動かなければなりません。今日は現在制作中の「発掘~層塔~」に埋没しながら、群塔と波紋のイメージに取り憑かれて暫しボンヤリする時もあった不思議な一日でした。
2014.01.24 Friday
「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第三巻を読み終えました。自分が第三巻で注目し、共感したのは具体的な芸術に関わる部分です。第一巻は「表象」、第二巻は「意志」に関する論理を扱い、第三巻はそれを踏まえた「芸術の各分野」についての考察が述べられていました。建築、絵画、彫刻、詩文芸、最後は音楽でまとめ上げられた壮大な論考に、自分が印象付けられた箇所はかなりありましたが、締め括りに相応しい一文を探しました。「表象としての世界の全体が、もしも意志の可視性にすぎないのだとしたら、芸術はその可視性をいっそう鮮明にする仕事なのである。芸術は人生のとりどりの対象をいっそう純粋に示し、よりよく達観させ、よりよく要約させるところの暗箱だといってよいのである。~略~いっさいの美しいものの享受、芸術のさずける慰め、そして芸術家が人生の労苦を忘れてしまうほどの熱中ぶり、天才が他の人々より勝れているというこの一点こそ、芸術上の天才に、次のような報いを与えずにはおかない。すなわち天才の意識は明晰になるにつれてそれと同じ程度に苦悩が高まるということ、そして異質な人種に立ち交わって荒涼たる孤独感を味わわされるというあの報いを。」暗箱とはカメラの原型になったもので、16世紀以降多くの画家が用いたものです。時代は移って21世紀になった現在も、芸術家の役割や苦悩は大筋のところで変わることがありません。ここにきて「意志と表象としての世界」が漸く意図してきた全貌が見え隠れしています。「ミットライト・ペシミズム」とは何かが最終巻で述べられようとしているのです。やっと辿り着いたショーペンハウワーの現代まで継承された哲学的評価、その意味をこれから探っていこうと思います。