2014.02.02 Sunday
2月は休日出勤があり、週末全部を制作に当てられません。昨日と今日は丸々制作が可能だったので、無我夢中で制作に取り組みました。毎年のことですが、この時期の陶彫制作で手がガサガサになります。ハンドクリームは必需品ですが、工房から自宅に戻ると手が皺だらけで、薬品だけでは賄いきれません。それでも制作サイクルに乗ってやっていると、気持ちは満足感でいっぱいです。この欲求を満たすことで幸福を感じます。欲求は次から次へとやってきますが、ハードルを乗り越えていく度に小さな達成感が得られるのです。陶彫部品をひたすら作ることに精を出す、ともかく作り続けていくことが今は肝心です。備蓄している陶土が残り少なくなりました。来週、栃木県益子の明智鉱業に連絡をして、陶土の注文をしなければなりません。土錬機を動かすのが週1回、窯入れと窯出しは週2回というのは、今まで二束の草鞋生活の中で頻度としては初めてで、さらに陶土の減り具合の多さも初めてです。来週末もこの調子で頑張ってやっていきます。
2014.02.01 Saturday
2月になりました。寒さが少しずつ和らいできたように思います。梅の花が咲きだす頃になれば風情も増しますが、今のところはまだ冷え込む日が続いています。工房のストーブは欠かせません。さて、制作状況ですが、「発掘~層塔~」の陶彫部品作りに焦りを感じています。全体の3分の1が出来てきたところでしょうか。焼成は頻繁に行っていて、窯の中が空くことはありません。このまま作り続けないと間に合わなくなります。2月もペースダウンすることなく、ひたすら作っていきます。まだ「発掘~層塔~」全体を把握するところまで至らず、全体を眺められるのはいつになることやら、気持ちばかりが空回りしています。こんな時ほど着実にやっていきたいところです。RECORDは難しい年間テーマを掲げてしまったので、悩むことが多いと感じます。コトバを捻り出すのが至難の業ですが、RECORDにコトバを添えて、一つの世界を作りたいので、ここが頑張りどころです。読書は引き続きショーペンハウワーの大著に挑んでいきます。ショーペンハウワー曰く「誰でも自分の心中に涸れることなき苦悩の泉をかかえて生きている」。まさにその通りで、困惑した状況を満たそうとするのが幸福への道のりであるなら、たとえ完全に満たされることがないにしても、先へ進んでいくことだとショーペンハウワーの大著では謳っています。今月も先へ進もうと思います。
2014.01.31 Friday
苦痛、苦悩、苦悶は、可能な限り避けたい現象です。それを回避するため何かに縋ったり、逃亡したり、自己弁護をしたり、痛みを和らげる特効薬を使ったり、自分を含めて人生のうちにさまざまな苦しみがやってきます。苦しまない人生はありません。まず、人生には避けられない苦しみありきと考えた方がいいのかもしれません。哲学者は苦しみをどう考えるのか、「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)に中に盛り込まれている文面を引用すると「意志の現象が完全になるにつれ、苦悩もますますあらわになるものだからである。たとえば植物にあってはまだ感受性がないから、したがって苦痛もない。~略~こうして認識が明晰で、知能が高い人であればあるほど、いよいよ苦悶は増大していくのである。天才をうちにいだいている人は苦悩ももっともはなはだしい。わたしはここで、『知識を増すものは苦痛をも増す』という『伝道の書』の言葉をとりあげ、これまで述べてきた意味で、つまりここでいう知識を、単なる抽象的な知識ということではなく、認識一般の程度ということに関連づけて理解することとしたい。」というもので、苦しみは知識に比例して増していくと述べています。本書を読み進んでいくと、苦しみに纏わる論考はさらに深まるようです。苦しみを人生の偶発的なものではなく、予定されていた現象として捉える箇所があって、その理論展開に興味を覚えます。
2014.01.30 Thursday
昨日書いたNOTE(ブログ)に関連することで、死生観における哲学的な考察が、現在読んでいる「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第四巻にありました。「考えることをしない動物におけると同様に、人間においてもまた、自分は自然そのものなのだ、世界そのものなのだ、というかの最内奥の意識から生まれてくる安心感が平生は持続的な状態としては優位を占めているのである。死は確実で間近だという思想が、かくべつ人間をおびやかさないのはそのためなのであって、誰もがまるで自分は永遠に生きているに違いないとでもいうように、その日その日をやり過ごしている。」確実にやってくる死を意識しないで生きている私たちに対する考察が述べられています。また死の怯えは理性が防いでいるという箇所もありました。「理性的存在である人間の生が死の想念によって毒されたりしないよう、防いでくれるのである。このような意識こそ生活に対する勇気の基盤でもあるからである。この勇気のあるおかげで、あらゆる生物は一本立ちして、まるで死など存在しないかのように、自分の生にひたと目を据え、生に向かっていくかぎり快活に生きつづけることができるようになるのである。が、だからといってこのような勇気は、死がひとつひとつの場面で、実際に、いやよしんば想像においてにせよ、ともあれ個体に近寄ってきて、個体がいまや死をしかと直視しなければならないときに至り、個体が死の不安に襲われまいとなんとかしてこれを逃れようとする事態をなんらさまたげるものではない。」
2014.01.29 Wednesday
人生に必ず死が訪れる運命を、人はどんなところで受け入れるのでしょうか。自分の若い頃は、墓参りや葬儀の参列が嫌でたまりませんでした。線香が立ち込める寺院の雰囲気に馴染めなかったのでした。不思議なことに父が亡くなってから、父が葬られている菩提寺に行くと心が安らぐようになりました。自分の周囲の人たちの葬儀にも退屈を感じなくなり、むしろ心が落ち着き、リラックスしている自分に気づきます。加齢のせいでしょうか。それとも何か説明のつかないものが存在しているのでしょうか。死ぬことを受け入れるために芸術や哲学があると自分は信じ始めていますが、死生観という確固たる理論ではなく、それは根拠のない感覚のようなもので、終焉を受け入れるということをイメージしているのかもしれません。80代後半に差し掛かる母は、脚が悪いにもかかわらず、墓参りには行きたいと言っています。そこに行けば気持ちが落ち着くのでしょうか。自分はまだそこまでいきませんが、母に誘われて墓参りをするのは苦ではありません。自分に僅かながら終焉を受け入れる感覚が育っているように思えるのです。