2014.01.19 Sunday
今日は母校の卒業制作展に行ってきました。相原工房に出入りしている若いスタッフの一人が、母校の工芸工業デザイン学科にいてテキスタイルを学んでいます。そのスタッフが卒業制作展に渾身の作品を出品しているので、それを見に行くことを目的としていましたが、母校は自分が創作活動をスタートする契機になった場所でもあるのです。それまで受験用のデッサンをやっていたとしても、ほとんどの学生が本来の意味で創作を考え始めるのは専門の大学からと言っても過言ではありません。20代前半だった自分は、彫刻の魅力に取り憑かれて、立体表現を将来続けていくことを誓ったのでした。師匠に恵まれ、環境に恵まれて過ごした4年間は、自分にとって珠玉の時間だったわけで、それがあったればこそ30数年間彫刻を続けられてきたのです。二束の草鞋生活も残すところ僅かとなり、彫刻一本の生活が目の前にきています。そんな中で自分の原点を探り、あの頃の誓いをもう一度確認したかったのです。時代は変わり、学生たちの表現が拡大し、設備も充実して、羨ましく思う反面、この中で何人の学生がアートにずっと携わっていけるのだろうと思っています。若いスタッフのテキスタイルの作品は、当時の私の人体塑造より遥かに優秀で、いつでも世に出せる表現力をもっていました。彼女だけでなく、多くの学生作品に優れた力を感じさせるものがありました。また意欲が空回りしていたり、迷走する作品も見受けられましたが、それは私と同じで、曲がりなりにも継続をすれば何とかなるような作品でした。感慨一入、創作への思いはどこまで続くのか、社会人として生活していても、この4年間で培った思いだけは絶やさずいて欲しいと願う一日でした。
2014.01.18 Saturday
「発掘~層塔~」の陶彫部品の成形が4分の1程度出来上がって乾燥させている最中です。ここでウィークディの一週間を焼成に充てていこうと思っています。二束の草鞋生活でウィークディは公務員としての仕事があり、工房に通えないことを利用して、窯で乾燥した作品を焼成する期間にしています。工房の電力の関係があり、窯入れをしてしまうと他の電気が使えなくなってしまうので、好都合なのです。そこで考えた焼成サイクルは一週間に2回の窯入れをすることです。そうすることでずっと窯に作品が入ったままになります。週末の日曜日の午後に2回分の仕上げをして化粧土をかけ、その夜に1回目の窯入れ、水曜日の夜に窯出しをして、作品を入れ換えて、2回目の窯入れ、土曜日に窯出しをして、また日曜日の夜に窯入れをしていくサイクルです。前に考えた制作サイクルは、今後焼成サイクルを基に展開していこうと思っています。今日は朝から工房に篭って、今までの乾燥が進んだ作品に仕上げや化粧掛けをしました。今後焼成サイクルを充実させていきたいと考えます。
2014.01.17 Friday
森羅万象に対する視点や認識を新たに思索・提案し、理路整然と説き伏せるものが哲学書であると私は思っています。「感性」「悟性」「表象」「意志」等は偉大な哲学者たちの選び抜いたコトバの一部で、それに纏わる論考を自分は学び取っています。現在読んでいる「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)でも例外なくさまざまな事象を取り上げて、その思索が述べられています。ただ、哲学とは趣が異なる奔放な文章に出会って、まるでドラマを見るような昂ぶりを感じたのでNOTE(ブログ)に書き留めました。本書第三巻の芸術に関する箇所で「崇高」とは何かを解いています。「崇高の印象がさらにいっそう強まるのは、われわれが昂然と相争う自然力の大規模な戦いを目の前にしたときであって、~略~落下する奔流の轟然たる音にかき消されて自分の声も聞こえなくなってしまうような場合である。あるいは、嵐のさか巻く広漠たる大洋のほとりに立ちつくす場合もそうであろう。山なす高波が上下し、切り立つ岸の断崖に猛然と当たっては砕け、空高くその飛沫をあげ、風雨は咆哮し、海は怒号し、黒雲から稲妻が閃光し、そしてとどろく雷鳴は嵐も海をものみこんでしまう。このようなとき、平静不動な心をもって光景を眺めるものの内部では、意識の二重性が最高度の明瞭さに達しているといえよう。彼は一方では、自分を個体として感じる。この自然力からの打撃をほんのわずか受けただけでも打ち砕かれてしまいかねなく危い意志の現象として、自分を感じる。つまり彼は自分を、強力な自然を向うに回しては、いかんとも頼りなく、独立性のない、偶然に翻弄される存在、怪異巨大な自然の勢力に直面すればたちまちにして消え失せてしまうであろう無にひとしい存在であると感じるのである。だがそのとき、彼は同時にまた、自分を永遠の、平静な認識主観とも感じているのである。この認識主観こそが、客観の条件であり、まさしくこの全世界の担い手であるといってよい。凄絶をきわめた自然のかの戦闘といえども、認識主観からみれば、単におのれの表象であるにすぎまい。認識主観そのものは、いっさいの意欲、いっさいの困窮から解放されているし、またそれらとは無関係であって、平然としてイデアを把握するのである。これが崇高というものの全き印象である。」
2014.01.16 Thursday
2年以上前のRECORDになりますが、2011年7月分を私のホームページにアップしたのでお知らせします。RECORDとは毎日ポストカード大の平面作品を作る総称で、彫刻作品と併せて続けています。彫刻作品は週末に工房で制作し、RECORDは毎晩自宅で制作しています。ほとんど休みなく次から次へとイメージを出し、鉛筆で下書きをしています。彩色はまとめて行いますが、それもウィークディの夜に作業していることが増えてきました。週末の夜は疲れてRECORDに手が出せないことがあるのです。好きな音楽を聴きながら食卓で作業している時は、楽しいと感じる日もあり、イメージ通りにならずイラついている日もあります。何はともあれこの小さな作品を継続してきました。カメラマンがまとめて撮影し、1ヶ月ずつホームページにアップしているのです。振り返ると作っていた当時の気分が思い起こされてきます。ご高覧いただければ幸いです。なお、私のホームページはこのNOTEの左上にある本サイトのアドレスをクリックしていただければ入れます。
2014.01.15 Wednesday
今月のRECORDのテーマにした「天使」とは何か、キリスト教美術に疎い自分は一般的な画像の印象しか頭になく、天使の存在そのものを捉えておく必要があると思いました。事典を見てみると、天使とはユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通して登場し、神々と人間の中間に位置する霊的存在で、伝令や使いの者としての役割があるようです。とりわけキリスト教の天使は、人間より優れた知恵と能力をもちつつ肉体をもたない霊で、さらに面白いと自分が感じたのは、堕落した天使が悪魔になるところです。神に善きものとして造られた天使は、神に逆らって地獄に堕ち、人間に悪を薦めるようになったというのです。言わば天使と悪魔は紙一重、同じ霊的存在がジキルとハイドよろしく正反対に変貌するのは、いかにも西欧的ドラマ性を感じさせるものです。天使にも階級があることを知って、人間社会をそのまま投影した感覚をもちました。その中に登場するセラフィム(熾天使)、ケルビム(智天使)、オファニム(座天使)と呼ばれる天使とは何か、想像すると興味が尽きなくなります。天使の図像学を学んでみたくなるのです。無垢な童子や美しい女性、優しい男性が天使となって絵画等に登場するのはルネサンス以降のようです。それ以前は多数の眼と翼をもつ奇怪な存在として描かれている天使、さらに古くは肉体をもたなかった時代もあって、私たちの文化との接点も模索したくなってしまいます。