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  • 「意志と表象としての世界」第二巻の読後感
    「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第二巻を読み終えました。「意志」に関するさまざまな論考をまとめ上げるには、あまりに膨大でどうしたらよいかわからないと思っていたところ、第二巻最終章に適切なまとめがありましたので引用いたします。「われわれが生きかつ存在しているこの世界は、その全本質のうえからみてどこまでも意志であり、そして同時に、どこまでも表象である。この表象は、表象である以上はすでになんらかの形式を、つまり客観と主観とを前提とし、したがって相対的である。客観と主観というこの形式と、根拠の原理が表現している、この形式に従属したすべての形式とを取り除いてしまったあかつきに、さらにあとに何が残るかをわれわれは問うてみるなら、これは表象とはまったく種類を異にしたものであって、意志以外のなにものでもあり得ず、それゆえこれこそ本来の物自体である。」「実際、いっさいの目標がないということ、いっさいの限界がないということは、意志そのものの本質に属している。意志は終わるところを知らぬ努力である。」「努力や願望を実現することは、意欲の最終の目標であるようにいつでもわれわれは信じこまされているが、努力や願望はいったん達成されてしまうと、はじめの努力や願望とはもはや似ても似つかぬものに見えてくるため、間もなく忘れ去られ、古着のようにぬぎ捨てられ、実際にはいつでも、公然とではないにしても、あれは一時の錯覚であったとして脇へよけられてしまうものである。まだなにか願望すべきもの、努力すべきものが残っている間は十分に幸福でいられる。願望から満足へ、そして満足から新しい願望へという移り変りがすみやかに進む場合を幸福と称し、ゆっくり進む場合を苦悩と称するが、願望すべきものがまだ残っている間は、この休むことのない移り変りの、自由に動く余地が保たれ、停滞に陥らずにすむ。しかし移り変りが停滞すると、この停滞は生命を硬化させる怖ろしい退屈、特定の対象をもたない気の抜けた憧憬、死にたい思いにさせるほどのもの憂さとなってあらわれるのである。」以上3点の引用文をもって第二巻のまとめに代えさせていただきます。
    なぜ猫族から好かれるのか?
    私は朝6時に家を出て、帰りはかなり遅くなる時があります。ウィークディは仕事の関係で時間の拘束を受けるのは仕方がないことです。野良猫を拾って育ててきたトラ吉は、大きな猫になり、現在の体重は7キロを超えています。家の中を猛ダッシュで走り回るため、贅肉はなく精悍な身体つきをしています。トラ吉の世話は家内がやっていますが、自分が帰るとどこからともなく現われて、自分の脚に絡んできます。自分はほとんどトラ吉に会うことのない生活で、しかもまるで世話をしない自分にトラ吉が擦り寄ってくるのは不思議です。何十年も前に実家で飼っていたタマも同じでした。自分はタマに年中悪戯をしていて、そのうち猫族の罰があたると思っていました。でもタマは自分を見れば恐る恐る擦り寄ってくるのでした。健気というかタマもトラ吉も、自分が引っ叩いたり、ぶん回したりしているのにも関わらず近づいてきて、何かあれば自分から逃走する姿勢でいます。なぜ猫族から自分は好かれるのか、家内が不思議がっています。悪戯はしても餌を一度もあげたことのない自分です。猫は本能に忠実で気儘な素性があると聞いていますが、本当に気儘なのか、痛い思いをするかもしれないのに接近してくる勇気と好奇心があると思えば、決して気儘ではないように感じてしまいます。
    「意志」に纏わる論考
    「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第二巻は「意志」がテーマになっています。気に留まった箇所を引用しますが、全体としてのテーマに沿った重要な部分かどうかは自分では判断できません。「意志の現象のうちの若干数は、その客観化の低位の段階、つまり無機的な領域においては、たがいに葛藤し合い、因果性に導かれつつ、それぞれが目前の物質を占領しようとすることがあるのである。この闘争から、一つのより高位のイデアの現象が立ち現れ、今まであった不完全なイデアをことごとく圧倒してしまう。しかし、高位のイデアは自分のうちに今までの不完全なイデアの類似物をとりこむことによって、今までのイデアの本質を従属的な仕方で存立させておく。こうした事態が起こるのは、ほかでもない、イデアはいろいろあっても現象する意思は一つであること、および意志はだんだんと高度の客観化をめざして努力するものだということからのみ理解できることである。」イデアとはプラトンの定義したものです。引用を続けます。「いかなる意志現象も、人間という有機体のなかに現れる意志現象もやはり、多くの物理的・化学的な諸力と持続的な闘争をつづけている。物理的・化学的な諸力は、低位のイデアであるから、物質に対し先行権利を有しているのである。人が重力に打ち勝ってしばらくのあいだ持ち上げたままにしておく腕が、やがて下がってくるのは、この闘争がつづいているためである。快適な健康感とは、自己意識をもつ有機体のイデアが、体液を根源的に支配している物理的・化学的な諸法則に打ち勝った表現であるが、このような健康感が、たびたび途切れてしまうというのも、右(ブログでは上)の闘争が行われているためである。快適な健康感は途切れるだけでなく、大小の差はあれ、ある種の不快感につねにつきまとわれるのが本来の姿だといっていいが、それも例の物理的・化学的諸力からの抵抗に由来する。この事実だけでも、われわれの生の植物的な部分は、かすかな苦悩とたえることなく結びついているのだといえる。消化があらゆる動物的な機能を低下させるのもこの同じ理由による。同化作用によって化学的な自然の諸力に打ち勝つために、消化は生命の全力を傾注することを要求するからである。そのためにまた、一般に肉体的な生の煩わしさが生じ、睡眠の必要性が生じ、かつさいごに死の必然性が訪れるのである。」
    休庁期間 制作の振り返り
    今日で休庁期間が終わりました。9日間あった休庁期間のうち7日間を制作に充てました。元旦とその翌日は工房に行けなかったのですが、残りの7日間は全て工房に足を運びました。制作は思い通りには進まず焦りが多少あります。それでも精一杯頑張った満足感もあります。成形としては6点を作り上げました。仕上げと化粧掛けも6点できて、そのうち大小混ぜて4点を窯に入れました。また今晩から焼成をスタートさせます。今晩が今年初めての窯入れです。今年夏に発表する「陶紋」4点も先月焼成が終わっています。順調のようでいても長年の勘で何かトラブルがあるのではないかと不安を募らせています。作者はそんなものかもしれません。来週末は三連休になりますが、昨年は成人の日に大雪が降り、その日「発掘~地殻~」の木彫部分がイメージ通りにいかず、投げ出したい気持ちになっていました。大雪だったので記憶に残っているのです。それから我慢を重ねて解決の糸口を掴み、イメージを立て直した思い出があります。当時のNOTE(ブログ)には失敗とは書けず、部分的な手直しとしていますが、厳しい局面を経験したのは事実です。今年は陶彫部品の量に圧倒されていますが、どんな課題が潜んでいるのか、3分の2程度が出来上がった時に、難しい状況に陥るような気がしてなりません。要らぬ心配かもしれませんが、制作はデリケートであることに間違いはありません。明日から公務が始まります。制作三昧から頭を冷やして仕事に臨みます。
    横浜の「下村観山展」
    今日は朝から工房に篭って制作三昧でした。少しずつ調子も上がり、休庁期間の残り2日間を有効に過ごしたいと思っています。夕方まで作業を精一杯行い、その後は家内と車で地元の横浜美術館に出かけました。現在「下村観山展」を開催していて、前から見たいと思っていたのでした。下村観山は晩年、横浜の実業家原三渓の知遇を得て、横浜本牧に移り住んだことは知っていましたが、観山ワールドの全貌を知らずにいたので、今回の大回顧展は楽しみでした。東京国立近代美術館で「木の間の秋」を見たことがあって、その描写に眼が吸い寄せられた記憶があります。「古格を愛し、温雅で内省的、謹厳淳朴な生き方を選んだ画家」と図録の解説にある下村観山は、革新を求めつつ復古的傾向を示す画風で知られるようになったようです。自分の感想で言えば、画題がどうであれ、描画の緻密さ確かさは眼を見張るものがあると思いました。ヨーロッパ留学時代に模写したラファエロやダ・ヴィンチにも水彩模写とは思えない完成度があります。古画が念頭にありつつも西洋の陰影法をもって描き出される新しい日本画の境地に今後どう向き合うのか、実はその答えを見つけるには、享年57歳で没した下村観山は早すぎた生涯と言えるのではないでしょうか。夭逝でもなく長寿でもなかった下村観山ですが、抱えた課題に答えを出すのには57歳では短かったように自分には思えるのです。最後に自分が印象に残った作品を挙げます。いずれも大作が多いのですが、「元禄美人図」(双方とも)「小倉山」「鵜図」「手向」「老松白藤図」です。家内は「四眠」を挙げていました。龍が熟睡している様子が何ともいえないと言っています。