2013.12.19 Thursday
「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)第一巻を読み終えました。「根拠の原理に従う表象 すなわち経験と科学との客観」という副題がついていますが、これをまとめる能力は自分には到底なく、頻度の高い語句を中心に、気に留まった箇所を引用することでまとめに代えさせていただきます。「人間が人生の全体を多面的に展望するのは理性のおかげで、人間が動物よりもまさっている点だが、このような理性によってなされる展望は、人生航路という名前の幾何学的な、色彩のない、抽象的な、縮小された見取図になぞられることもできる。人間が動物に対してもつ関係は、さながら海図、羅針儀、四分儀をたよりに航路と洋上におけるそのつどの位置を知っている船長と、ただ波と空だけを見ている無知な乗組員との関係のようなものだといえるであろう。」理性があってこそ人間が人間たる所以で、刹那に生きる動物との違いが分かりやすく述べられている箇所を引用しました。最後にショーペンハウワーがストア派の学説に言及している箇所を引用します。「わたしがストア派の倫理学の精髄をとらえたところによれば、そのそもそもの根源は次のような思想にあるようだ。すなわち、理性は人間の大きな特権であって、理性は計画的な行動とそこから生じる結果によって間接的に、人生と人生の重荷とをはなはだしく軽くしてくれるものであるが、この理性は単なる認識によって、すなわち直接的に、人生を満たしているあらゆる種類の苦悩と苦痛とを、完全にあるいは完全に近く、一気に人間から取りはらってしまう力をももっているのではないかという思想である。~略~欠乏ならびに苦痛は、ものを持たないということから直接に、かつ必然的に生じるのではなくて、ものを持ちたいという気持がありながら、しかも持っていないという状態からはじめて生じるのであって、したがってこの持ちたいという気持こそ、持っていない状態を欠乏と感じさせるのであり、これこそ、苦痛を生み出させる唯一の必然的な条件なのである。そう人は悟ったのであった。」引用は以上です。「私」における「表象」とは何か、そこを支える根拠の原理を探り、まず「表象としての世界」をさまざまな視点で捉えた第一巻でした。
2013.12.18 Wednesday
「発掘~増殖~」は床を這っていく有機的なカタチを陶彫で表現したモノで、どのくらいの大きさにするか決めかねていましたが、来年ギャラリーで発表する作品は、ギャラリーの広さを考えて、ある程度の大きさに限定しました。「発掘~増殖~」は「発掘~層塔~」に先駆けて焼成を行い、先日無事に全ての成形作品の焼成が終了しました。大きな失敗がなくて本当に良かったと思っています。来年発表する作品で、とりあえず「発掘~増殖~」は何とか出来上がりました。細かな修整や番号のついた印を貼っていくのはこれからですが、まずは一安心です。「発掘~増殖~」はいくらでも大きくなる作品です。床いっぱいに陶彫を這わせることも可能です。当初のイメージでいけば、床にウネウネと這わせていく予定でした。今回は限定したので、ややこじんまりとした印象になりましたが、意図するところは伝わるのではないかと思います。
2013.12.17 Tuesday
「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)の中の、理性と概念に関するものを、数日前のNOTE(ブログ)にアップしましたが、今回はまず「根拠の原理」に言及している箇所を引用します。「時間とは徹頭徹尾、継起ということであって、それ以外なにものでもなく、空間とは徹頭徹尾、位置なのであって、それ以外なにものでもなく、物質とは徹頭徹尾、因果性であって、やはりそれ以外なにものでもないが、これほどに、根拠の原理が表象の一部門を支配する形態は、それが表象であるかぎり、つねにその部門の本質を厳密に言い当てて、あますところがないのである。だとすれば、概念、あるいは抽象的な表彰の部門の、本質そのものは、ひとえに関係であるといってよい。」次に自分を捉えた箇所は矛盾対立する「情」と「知」です。「情ということばが示す概念は、どこまでもネガティヴな内容のみをおびている。意識の中にありありと浮かんでいるものが概念ではないこと、理性の抽象的な認識ではないこと、~略~いろいろ相異なった要素や、たがいに敵対する要素までもが、情という概念のなかに安んじて並んでいるからである。例えば宗教的感情、肉欲の感情、道徳的な感情、触覚・苦痛・色彩感覚・音響感覚ならびに音の調和や不調和といった肉体的な感情、憎悪・嫌悪・自己満足・名誉・恥辱・正義・不正義の感情、真理の感情、美的な感情、力・弱さ・健康・友情・愛の感情等々。」「知は既述のとおり、抽象的な認識、すなわち理性認識のことであった。しかしながら理性は、いつも要するに、理性とは別口で受け入れたものを今一度『理性の』認識の前に引き据えることをなし得るのみだから、がんらいがわれわれの認識を拡大する力はなく、認識にもう一つ別の形式を与えるだけである。それはつまり、直覚的に、具体性をもって認識されたものを、抽象的に、かつ一般的にあらためて認識させるのが理性だという意味である。」引用文だけを羅列してみても前後の文脈がないので不明瞭あることは十分承知ですが、膨大な情報とその論拠とするものを端的にまとめ上げる力量は自分にはなく、パッチワーク的でやや統率を欠いたNOTE(ブログ)になってしまうことをご勘弁いただきたいと思います。
2013.12.16 Monday
別にお歳暮の季節に拘っているわけではありませんが、雪深い信州の山奥に住む彫刻家の師匠に、毎年この時期に辛口の日本酒一升を贈っています。師匠は制作の合間に日本酒で身体を温めているようで、先日感謝の電話がありました。便りを書いても凍結した山を下りるのは難しいとのこと、ならば電話で失礼すると仰っていました。奥様を亡くされて、一人で住居兼工房である長野県麻績の「エルミタ」に籠るのは如何ばかりか、岩手県の山中に籠った先人の彫刻家高村光太郎のようで、まさに師匠池田宗弘の生活はどんなものか想像に難くありません。「君の工房では陶土は凍らないだろう?工房にストーブはあるのか?素材を扱っていると時間が経つのは早いよな。」と他愛のない会話を交わしましたが、70代とは思えない溌剌とした声が聞こえてきて安心しました。冬を迎える度に、池田先生はどうして麻績の山奥に工房を構えたのか、加齢で足腰も弱くなるだろうに、先生はそんなことを考えなかったのかと家内に言ったら、池田先生は夏の気候と作品の置き場を考えたのであって、「エルミタ」で何かあった時の覚悟は出来ているのではないかという答えが返ってきました。先生なら然も有りなんと思った次第です。
2013.12.15 Sunday
円錐状になる大きな彫刻作品で、陶彫部品の数が最大数になる「発掘~層塔~」の窯入れが今日から始まりました。今日は朝から工房に篭って、成形を3点行い、午後は既に乾燥が充分出来ている数点の陶彫部品にヤスリをかけ、化粧土を施して、大小取り混ぜて窯に入れました。果たして「発掘~層塔~」はどのようになるのか、半分楽しみで半分不安な面があります。家内が昼ごろ工房に現れて、「えっ、間に合うの?」と言っていきましたが、自分が制作・焼成サイクルを作って、次から次へと休む間もなく制作に打ち込む理由が家内にもわかったようでした。誰が見ても厳しいのは承知です。今日も限界まで制作をして夕方に工房を後にしました。制作サイクルは丸2日間遅れています。制作可能な週末の日数を計算して、新作撮影のある5月初旬を目標にしています。休庁期間は入っていないので、ここで遅れた2日間を取り戻せるかなぁと考えています。今年は作り直す時間はありません。昨年は作り直しをしていました。部分的な失敗があったためで、今年もそのくらいはありうると思っています。その時はその時で何とかするとは思いますが、今はがむしゃらに先へ進むのみです。また来週末頑張ろうと思います。