Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 「世界はわたしの表象である」とは何か?
    「過去というも、未来というも[その内容が継続することは別として]、なにかある夢のようにまことにはかないものなのであるが、しかし現在というのは、この過去と未来の二つの間にあって、広がりも持続ももたない境界線であるにすぎない。時間とまったく同様に、われわれは根拠の原理のあらゆるその他の形態のなかにも同じ虚無性があることをあらためて認識し、すなわち時間と同じく空間もまた、空間と同じく、空間と時間の両方にまたがって存在するいっさいのものもまた、つまり、原因や動機から生まれ出てくるようないっさいのものが、しょせん相対的な存在をそなえているにすぎず、それらはある他のもの、自分と似たようなもの、現にちょうど同じような仕方で成り立っているものと、たがいに相依り、かつ相俟ってようやく存立しているにすぎないことを見抜くであろう。」現在通勤の友にしている「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)で、まず最初に登場するのが「表象」というコトバで、読み進むうちに上記のような「表象としての現在」を思考する文面に辿りつきます。表象とは簡単に言えば、太陽を見るのも私の目を通して太陽を認識する、大地も手で触れることによって認識する、全て私の認識があって初めて存在を認め、そこを基盤に主観や客観、時間や空間や因果性といった根拠の原理が登場してくるというものです。長くなりますが、文中にはこんな表現もあります。「表象としての世界は~略~最初の眼が見ひらかれたときをもってようやくにして始まるのである。認識というこの最初の眼を媒介することなくして、世界は存在し得ないし、またそれ以前にも世界は存在しなかった。いや、この最初の眼がなければ、すなわち認識を離れたところでは、以前ということもなかったし、時間もなかったのだ。が、だからといって時間は始まりをもっているわけではない。すべての始まりは時間の中にある。時間とは認識することが可能になるためのもっとも普遍的な形式のことであり、いっさいの現象は因果性の絆を手段として時間という形式にあてはまるのであるから、最初の認識とともに時間もまたあり、同時に両側『過去と未来』に向かう時間はまったく無限となるであろう。」第一巻のテーマである「世界はわたしの表象である」とは何か、膨大な論証はまだまだ続きます。
    週末 体調回復して制作三昧
    昨日は体調不良で思うように制作ができなかったのですが、今日はすっかり体調が回復して朝から工房で制作三昧でした。とは言っても遅れた分の制作工程は挽回できず、これは今月末の休庁期間で取り戻そうと考えています。今日の夕方工房で窯入れをしてきました。上手くいけば「発掘~増殖~」の最終部品の窯なので、「発掘~増殖~」は水曜日の窯出しで一応完成となります。まだ修整箇所が多少ありますが、大きな割れも失敗もなく順調な仕上がりを見せています。問題は「発掘~層塔~」です。次の窯にはいよいよ「発掘~層塔~」の部品を入れます。成形が出来て乾燥が進んだ陶彫部品はいくつかありますが、これが円錐形に組み合わされると、どんな具合になるのか未だ見当がつきません。逆に焼成が進んでいる「発掘~増殖~」はある程度予想が出来ているので、ほぼイメージ通りに仕上がっていると言っても過言ではありません。手のうちにある「発掘~増殖~」と自分の内面に挑んでいる「発掘~層塔~」。本当に苦しいのはこれからだと覚悟しています。継続して制作したいところですが、明日から公務があって来週末まで制作はお預けです。仕切り直しが出来ていいのかもしれませんが、気持ちの上では煮詰まってきています。また来週末、頑張ります。
    週末 体調不良のため午後散策
    このところ数日間、体調が芳しくありません。職場では元気に働いていますが、夜になるとぐったりとして動けなくなるのです。夜の工房も今週は行っていません。RECORDも遅れがちです。今日は朝から工房に出かけ、制作サイクルのノルマを果たそうとしましたが、体調が悪いときは創作活動も厳しいのです。今日は制作を午前中で切り上げて、午後はゆっくり散策をして身体を休めました。と言っても自家用車で家内と横須賀に行き、予ねて行きたかったカスヤの森現代美術館で時間を過ごそうと思い立ったのでした。現在「海老塚耕一展」を開催中ですが、カスヤの森現代美術館で見たかったのはヨーゼフ・ボイスのまとまったコレクションです。ボイスの作品は、かつてヨーロッパや山梨県清里で出会ったときより、親近感が持てるようになりました。彼は何を求めていたのかが予め理解できていたおかげかもしれません。来年はボイスの展覧会を企画しているとの話を同美術館で聞きました。また訪れたいと思いました。「海老塚耕一展」は無垢の板材に手の痕跡があって、素材が作者によってコントロールされていると感じました。素材そのものを空間にどう生かすか、素材の存在感と自己造形の微妙なかけ引きが見事に計算されている作品群でした。「水辺に佇み、風に触れる」というタイトルがついていました。自然から受ける印象をドライに解釈した世界に快さを感じました。明日体調が戻れば、朝から夕方まで制作に没頭したいと思っています。
    知られざる画家カイユボット
    先日、東京駅近隣にあるブリヂストン美術館で、印象派の画家カイユボットの展覧会を開催していたので見てきました。カイユボットは自分にとって未知の画家でした。テレビ等の情報で知りましたが、バランスの取れた構成と巧みな表現があって絵画らしい雰囲気を漂わせていました。カイユボットは父から莫大な遺産を引き継ぎ、当時の印象派画家を経済的に支えた人だったようです。自ら絵も描き、都会的な生活を主なテーマにした画家でした。画家自身が経済的に豊かだったためか画風にも優雅が漂っているように感じました。代表作の「ヨーロッパ橋」はがっしりした鉄骨による橋の構成が印象的で、広角レンズで捉えたような広さを感じさせています。歩く人、佇む人、散歩する犬が絶妙なバランスで配置されています。パリが新しい街へ生まれ変わる息吹きを感じることができます。自分はカイユボットを未知の画家と捉えていましたが、今回の展覧会には出品されていなかった絵画で「床削り」という作品を図版で見た記憶があります。上半身裸になった男たちが床を削っている情景を描いたもので、なぜか自分の脳裏に刻まれました。「床削り」の極端な遠近法の構成は「ヨーロッパ橋」にも通じる同じ構成要素を感じました。知られざる画家だったカイユボット。当時の印象派画家の中で仲間に経済的な支援をする特異な存在だったカイユボット。まだまだ未知なる実力派の画家が今後発見される可能性があるのではないかと思わせる今回の展覧会でした。
    「意志と表象としての世界」を読み始める
    「デカンショ デカンショで半年暮らす あとの半年ゃ寝て暮らす」という旧制高校の流行り歌があります。これはデ=デカルト、カン=カント、ショ=ショーペンハウワーのことだそうで、いよいよ自分も本格的な哲学書に着手することにしました。契機になったのはニーチェです。自分はニーチェをさらに深く理解したいために、まず「意志と表象としての世界」(A・ショーペンハウワー著 西尾幹二訳 中央公論社)を読もうと思いました。かの有名なミットライト・ペシミズム(共に苦を分かち合う厭世思想)とはどんなものか、実際に読み解いていこうと思います。「意志と表象としての世界」は文庫本にして3冊あり、内容は4巻から成り立つ大作です。20歳代であれば途中で放り出していたであろう書籍ではないかと思います。この歳で読む意味を探りながら大作に挑みます。「意志と表象としての世界」は72歳まで生きたショーペンハウワーが、30歳の時にまず初めに脱稿したもので、そのあと各所に変更を加えて現在のものになっています。というか死ぬまで改稿を繰り返して完成させたのが本書です。印象的な書き出しである「世界はわたしの表象である。」に続く展開を楽しみながら、時に理解に苦しみつつ、長い時間をかけて通勤の友にしていきます。まさに朝夕の通勤車内は読解と思索の場になって、知的好奇心を満足されてくれるものと信じています。