Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 鑑賞についての覚書
    洋の東西を問わず優れた芸術品を集めた展覧会は、マスコミの情報もあって大変な人気となり、入場制限がかけられる時があります。20代から美術に関わっている者としては嬉しい限りです。鑑賞されている方々から漏れた言葉を聞いていると、かなり専門的な知識がある人もいて驚かされますが、小さな子どもに説明している親御さんの語りかけには微笑ましさがあります。若い男女が、学校の美術の授業で習った絵だと呟いていたのを聞いて、学校教育の重要さを思わずにはいられません。自分にとって美術鑑賞とは創作への糧であり、散策を楽しむ機会です。さらに言えば創作活動には思索と実践があって、鑑賞が思索の窓口になり、それが制作という実践に繋がります。自分にとって鑑賞と読書は思索の肥しとして大切なものなのです。作品を鑑賞し、そこで何かを感じ取る、難解なものであれば背後にある哲学を捉え、作品の意図するところを考察する、そんな鑑賞の方法を自分に課しています。歴史で認められた比較的平易なものであれば、その表現の深さを味わい、現在進行中の美術の価値観を問うものであれば、その論拠としているものを知る、時に書籍を参考にする場合もあります。そんな思いをもって自分は画廊や美術館に出かけています。
    ギリシャ悲劇の起源
    「ギリシャ悲劇の起源という問題は、まことに迷路と呼ばざるをえないほど複雑怪奇をきわめている。」「悲劇が悲劇の合唱団から発生したものであること、もともと悲劇は合唱団にすぎなかった~略~」「ギリシャ人はこの合唱団のために、架空の自然状態をあらわす吊り桟敷を設け、その上にこれまた架空の自然の生きものを置いた。悲劇はこういう基礎の上に生いたったものであり、それだけの理由からでもすでに始めから、現実といちいち対照するわずらわしさをまぬかれていることはいうまでもない。」「どんなにかすかな苦悩にも、どんなに重い苦悩にも無類の感受性を持っていた深遠なギリシャ人、その切れるようなまなざしで、いわゆる世界史の恐ろしい破壊活動と自然の残虐性のただ中に目をそそいで、仏陀的な意志の否定にあこがれる危険にさらされていたギリシャ人は、その合唱団によって慰めを得たのである。彼らを救ったのは芸術だ。そして芸術によって自分のために彼らを救ったのは…生なのだ。」現在読んでいる「悲劇の誕生」(ニーチェ著 秋山英夫訳 岩波書店)で、気に留めた箇所を羅列しましたが、続くソフォクレスやアイスキュロス、エウリピデス、ソクラテス等々が悲劇芸術を主題として取り巻いていく本書前半は、一筋縄ではいかない読解を求められつつ、ニーチェの独断的とも思える破天荒な面白さに時が経つのを忘れます。いったいニーチェとはいかなる人物なのか、興味は尽きません。
    アポロン的夢幻とディオニュソス的陶酔
    「悲劇の誕生」(ニーチェ著 秋山英夫訳 岩波書店)の巻頭で古代ギリシャから借用し、芸術の発展を分析するにあたって、ニーチェはアポロン的夢幻とディオニュソス的陶酔という2分化を提唱しています。文中の言葉を引用すれば、アポロン的夢幻とは「われわれはすべて夢の中を生みだすことにかけては完全な芸術家といえるが、この夢の世界の美しい仮象が、あらゆる造形美術の前提であり、それどころか、のちに見るように、文学の重要な一半である演劇の前提でもある。」それに対しディオニュソス的陶酔とは「ディオニュソス的なものは陶酔の類推によって、われわれにきわめて身近なものとなる。原始的な人間や民族のすべてが賛歌のなかで語っている麻酔的飲料の影響によって、あるいは全自然を歓喜でみたす力強い春の訪れに際して、あのディオニュソス的興奮は目ざめる。」とあります。言わばコスモスとカオスであるアポロン的とディオニュソス的と称する相対定義は、かつて読んだO・シュペングラー著「西洋の没落」に頻繁に出てくるアポロン的魂とファウスト的魂の基盤になった定義であろうと思われます。シュペングラーはニーチェからの影響があり、文化・文明史もこうした相対定義で論じられると図り、さらに東方的なマギ的魂を付け加えています。アポロン的とディオニュソス的分析を自分は大変興味深く感じていて、芸術を考えていく上で、この定義に従った思考を自分の中に留めたいと思っています。甚だ西欧的な論証ですが、自分の教育基盤がここにあるので、自分としては分かりやすい捉えが出来るのです。この双方が綿密に絡み合って芸術が培われていく過程に思いを馳せているところです。
    11月RECORDは「脚」
    一日1点ずつ作品を作っていくRECORDは、文字通りRECORD「記録」していくものですが、葉書大の小さな平面作品とは言え、時間的な面でも気持ちの面でも制作に対し厳しい時が結構あります。それでも曲りなりに苦慮して続けてきました。成長と後退、緊張と緩慢を繰り返し、自分としては上昇する螺旋のように作品が深まっていくことを期待したいのですが、果たしてどうなのか見当がつきません。それでも継続の意思は固いので、今月も既にやっているところです。今月のテーマを「脚」にしました。大地に立つための生命体の脚、または構築物を支えるための脚。今月もイメージを捻り出していこうと思います。
    週末 窯入れ開始
    今日は日曜日なのに職場関係の公式な出張がありました。午後の出張であったため、午前中は工房に行って制作を行いました。午前中は成形を主に行い、午後の出張から帰った夕方に、乾燥した陶彫部品にヤスリをかけて細部を整理し、化粧掛けを施しました。およそ1年ぶりの仕上げ作業でした。化粧土や道具等の確認をしながら作業したので、1週間2回の窯入れをしていく焼成サイクルに乗せられず、とりあえず最初の1点目だけに留めました。水曜日に窯出しをする予定ですが、窯も1年ぶりなので、焼成具合がどうなるのか一抹の不安もあります。途中で停電にならないのを祈るばかりです。この最終工程である焼成をして、初めて陶彫と呼べる立体作品になります。焼成は自分の手の届かない工程なので、面白さ半分、辛さ半分といったところでしょうか。制作サイクルに窯入れを含む仕上げ作業を入れるのは、時間的に厳しいとは思いますが、実際に仕上げ作業を始めてみると、この焼成があってこそ自分が極める世界になりうるのだということを改めて思い返します。いよいよ始まった窯入れですが、慣れているようで慣れていない最終工程に心の昂ぶりを覚えます。