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  • 横浜の「横山大観展」雑感
    「西の栖鳳 東の大観」と称された日本画2大巨匠のうちの一人、横山大観の展覧会の終了期限が迫っていたので大急ぎで横浜美術館に行ってきました。このNOTE(ブログ)を書いている今日は美術館では次の「下村観山展」の準備に入っていることと思います。前に竹内栖鳳の大がかりな展覧会が東京竹橋の美術館であって、大変な混雑の中を見てきましたが、「横山大観展」も大いに賑わっていました。大観は折に触れてよく目にしていて、自分の中ではポピュラーな画家です。今回の展覧会は大観を中心とした周辺の人たちの作品も出品されていました。展示物には大観の師匠である岡倉天心の書を初めとする資料があり、また画家仲間の作品は、大観と共に競い合い、大いに鼓舞した様子がわかって楽しい企画になっていました。横山大観は東京美術学校時代から秀でた力量を発揮し、長きに亘って日本画壇を牽引してきた巨匠です。作品によってはざっくりした骨太の構成があり、繊細な描写表現があって変化に富んでいます。いわゆる朦朧体という没線彩色の作品が有名ですが、西洋画の陰影を取り入れた新たな日本画の方向を探り、流麗で大きなスケールを獲得しているように思います。
    素材を感じさせない表現へ向けて
    胡弓奏者である家内が、演奏していく上で楽器の音を感じさせるようでは駄目だとよく言っています。楽譜を辿っているようでは、まだ演奏の域ではないということです。演奏家の曲想があって、さらにその音環境から情景や物語が創出されていくのが理想なのだと家内は言いたいのです。優れた音楽会で感じる何とも言えない情感は、そうした音楽家の研鑽と感性から生まれるものでしょう。美術の場合はどうかと言えば、素材を感じさせない表現になるのではないかと思います。自分はイメージを具現化するために陶彫という素材を用いています。作品が陶彫を感じさせないくらい確固たるイメージの表出があれば、つまり頭の中で作品を思い返した時に素材ではなく作者が作ろうとした何かを表現したモノになっていたら、その作品は成功しているのではないかと思うのです。素材は素材に過ぎません。その素材に振り回されていてはならないと思いつつ、週末には陶彫の技巧的な難しさと闘っている自分がいます。素材を感じさせない表現に向けて努力あるのみです。
    自分だけの知的財産
    自分は学生時代からの書籍が捨てられずに書棚に残しています。古いものは黄ばんで埃を被っています。部屋の周囲を取り囲んでいる書棚は、もう書籍で埋め尽くされている状態で、床にも積んであり、足の踏み場がなくなってきました。各展覧会の図録は工房に持っていって工房の道具用スティール棚に並べてありますが、それすら一杯になっています。今は電子書籍の時代になりつつあって、こんな古臭い書籍に埋もれていると、そのうち地震でもあって自分は書籍の下敷きになって動けなくなるのではないかと危惧しています。それでも自分は頁を捲ることの出来る書籍が好きです。装丁も好きで、とりわけ紙質と印字された趣きに魅力を感じているのです。古書としての価値はよくわかりませんが、自分にしてみれば知識を授けてくれた大切な財産だと思っています。自分だけの知的財産。再読したものもあり、鉛筆で線を引いたものもあります。ほとんど読んでしまっているものばかりで、改めて眺めてみると趣向の偏りがあるなぁと思っています。そろそろ書棚を増設しようかと考えています。以前から書棚は自分が木材を買ってきて手作りしているのです。分類は滅茶苦茶ですが、その整理のためにも時間が欲しいなぁとつくづく思います。
    アカシャ記録とは何か
    「シュタイナーの思想と生涯」(A.Pシェパード著 中村正明訳 青土社)を読んでいて、自分の無知のせいで、何とも信じ難い論理に困惑を覚えます。霊界が存在する、物質界とは別の世界がある、こんな荒唐無稽な記述に初めは面喰いましたが、丁寧で分かりやすい解説のおかげで、これも学問として漸く認識するに至りました。アカシャ記録というこれも聞き慣れないコトバが気に留まりました。その記述がある10章から引用します。「シュタイナーの霊学のとびぬけて重要な要素は、人間の起源と運命についての記述である。」「歴史的現象はいわゆる『アカシャ記録』、すなわち『消滅することのない記録』に保存されているという。」さらに解説者はシュタイナーが書いたコトバを掲載しています。シュタイナー曰く「太古の時代に関する事実はオカルト研究によってとらえられないものではない。人間は肉体の存在として生まれた以上、肉体の死とともに物質的な部分は消滅する。しかし、自らの深みから肉体に存在の基盤を与えている霊的な力は、それとはちがって『消えてしまう』ことはない。霊的な力は自分の足跡ないしは自分のありのままのイメージをあとに残すのであり、それは世界の霊的な基礎に刻みこまれる。目に見えない世界をも知覚する能力を身につけた人はだれでもついには、世界の歴史のあらゆるできごとが記録されている広大な霊的パノラマを見る段階にまで達する。非物質的なすべてのもののこうした消滅することのない足跡は、霊学においては『アカシャ記録』と呼ばれている。」まさに死後の世界観における魂の存在を示したものでしょうか。自分には測り知れない学問ですが、これはシュタイナーの科学的論考があって示されているもので、しかも事例を鵜呑みにしてはいけないとシュタイナー自ら謙虚に言っているところが、客観的洞察を可能にしていて、不思議な立地条件にある学問を、学問として万全な体制を図っているところがさらに限りなく不思議に思えてきます。
    ターナーの豊潤な空気感
    先日、東京都美術館で開催されている「ターナー展」に行ってきました。家内は学生時代からターナーのファンで、帆船を描いた絵画を大学に提出する課題に応用していたようです。家内は大学で空間演出デザインを学んでいて、舞台美術を考える際、ターナーの求めた光陰が常に頭にあったと言っていました。私はリード著「芸術の意味」によってターナーを知りました。私の場合は初めに知識ありきで、オリジナルを見たのはずっと後でした。今回ターナーの世界に触れ、筆致が豊潤な空気感を表して余りある表現に圧倒されました。色彩実験と称する作品にも表現しようとする何かの意図が読み取れました。絵画の絵画たる所以は、平面に深遠なる奥行きを感じさせ、また漂う空気は写真や影像とは異なる印象を鑑賞者に齎すものと理解しました。私は忽ちターナーの世界に入り込み、そこで新鮮な酸素を胸いっぱいに吸い込んで、光に包まれる息吹きを感じ取っていました。家内は涙が出そうなほど感動していて、ターナーが醸し出す表現を、自分の演奏活動に当て嵌めて、その情感表出の丁寧さを感じ取っていました。有名な巨匠のまとまった展覧会とあって、多少の混雑は覚悟して来ましたが、それでも優れたものとの出会いは何事にも代えがたいと感じました。