Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • ダリについて
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)は、個々の芸術家に関しての文章が掲載されていますが、今回はサルバドール・ダリに関する論考が2つありました。論考には「超物質的形態学」と「謎の創造者」という表題がついていたのは、ダリがシュルレアリストのなかで重要な立場にいることを示しています。2つの論考から気を留めた箇所をピックアップいたします。「人間はつねに認識において、相反する二つの面ないしは傾向を持つ。形而上学的な論理的体系の構築において人間は実に巨大な足跡を印しているが、微風にさえも消えてしまいそうな、幻想的な、非体系的な、直観的、非論理的な領域においても侮ることのできない遺産をもっている。~略~彼(ダリ)の芸術は飽くまで自発的な象徴的凝固力によるものであり、ただその表現において強烈な客観法をとっている点が、彼のいわゆる批判という言葉に相当するのであって、狂人そのものの芸術とは明瞭に区別されるべきだと思う。~略~ダリの出現はまったく疾風迅雷的な観を呈し、センセーショナルであったために、シュルレアリスムの絵画即ダリの絵画というような錯覚をさえ一部の人たちに与えたのも無理のないことであろう。~略~ダリは好んで柔軟な物体を、しかも偏執的に強調して描いている。有名な柔かい時計もそうであり、やっと木製の支柱で支えられた脂肪質の軟かい肉体的変形物もそうである。こうした柔軟性の、あるいは流動性の物質はダリの形態学の特徴である。また無限を思わせる澄明な空気や、微塵までも見えそうな不思議な照射光線は空間に異様な密度を与えることがある。」私もシュルレアリスムを知った高校時代には、ダリの絵画がその代表として印象にありました。シュルレアリスムの中でダリは重要な芸術家だけれども、その体系ではほんの一部でしかないことを認識したのは大学で美術を専攻してからでした。今回はここまでにします。
    エルンストとマグリットについて
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の次章は、それぞれの芸術家に関しての文章が掲載されています。今回はマックス・エルンストとルネ・マグリットを取り上げます。まずエルンストから。「彼の絵画的な業績は、コラージュとフロッタージュと、その発見と応用とにあるということができる。彼は眠っていた古い描写メカニズムに異様な衝撃を与えた。~略~フロッタージュを発見した動機は彼の幼時に遡る。~略~5才から7才までの頃、寝室で、赤ずんだ地に黒い粗雑な線で塗った模倣マホガニーの鏡板が、きまって彼の幼い心にさまざまな有機的な形態を連想させるのであった。~略~1919年に彼がコラージュを発見した動機は、彼の手記によると、妙にフロッタージュの場合に似ている。ライン河畔の或る町での雨の日、彼は人類学、顕微鏡学、心理学、鉱物学、古生物学などの教材を図解したカタログに、いろいろ見入っていると、非常に隔絶した要素がただ集まった突飛さだけで、幻覚的な力が急激に烈しく感じられるのだった。そこで彼の幻覚の忠実な影像を得るためには、カタログのページに、対象とまったく縁のない風景、砂漠、空、床、地層図等を描くだけで充分であった。」次にマグリットです。「ベルギーの画家マグリットは、シュルレアリストのなかでもエルンストの晦渋な神秘もなく、ダリの偏執狂もない。いわば平易なシュルレアリストである。ーこの平易のなかに彼の絵画的魔術がひそんでいる。~略~マグリットはしばしば、彼の絵を窓枠のように区切っている。少なくともそのように描いている。彼にとっては、絵もまたひとつの窓なのである。花を咲かすのも窓の仕業であれば、人間を二分し、空を隠すのも窓である。キリコが室内を描いたように、マグリットは窓の超現実性を額椽に応用する。額椽を通して見えるものは必ずしも空間ではない。」今回はここまでにします。
    週末 アングラの劇作家を惜しむ
    週末にはいつも創作活動について書いていますが、訃報が飛び込んできたので、今日は劇作家にして俳優の唐十郎氏の逝去について書いていきます。私は大学生の頃、アングラ劇に刺激を受けていました。アングラとはアンダーグラウンド文化の略称で、ネットによると「反権威主義などを通じて波及し、1960年代後半に起こった、商業性を否定した文化・芸術運動のことを指す」とありました。最初の出会いは、詩人寺山修司の演劇論集で、今も自宅の書棚に「地下演劇」という天井桟敷編集委員会が発行した演劇理論誌があります。演劇実験室「天井桟敷」は渋谷にありました。何回か天井桟敷の公演を観て、日常空間と非日常空間との差異に興味を持ちました。当時「天井桟敷」以上に足を運んだのは、唐十郎主催による劇団「状況劇場」でした。新宿花園神社や江東区にある夢の島で公演をしていて、紅テントによる移動式の劇場に幾度となく行っていました。テントの中では筵が敷かれ、観客はぎゅうぎゅう詰めになって、役者の汗や唾が飛んできそうな迫力ある演劇を観ていました。台詞を機関銃のように矢継ぎ早に喋べる感情表現の方法は、今まで経験したことのない刺激と斬新さがありました。社会そのものを風刺したり、世相を批判するその内容は、時に警察に取り囲まれたりしたこともありました。私の世代は学生運動が下火になり、ほとんどデモが姿を消してしまった白けた時代だったので、こうした熱情の籠ったアングラ演劇に活路を見出していたのかもしれません。紅テントの芝居が終盤に差し掛かるところで、囲ったテントが開いて、周囲の景色を見せる演出をしたことがありました。突如日常空間が目の前に現れて、私は何とも言えない不思議な昂りを覚え、外の涼風と共にふと我に返った感覚を持ちました。劇作家唐十郎は、私にとって常に若々しい世界を見せてくれる才人だったと思っています。謹んでご冥福をお祈りいたします。
    週末 GWの1週間
    週末になりました。今週を振り返りたいと思います。今週はいよいよゴールデンウィークとなり、昨日と今日は夏日のような陽気になりました。そのおかげで各地の観光地は混雑を極め、コロナ感染症が5類に移行したことで、今まで規制されてきた外出が一気に噴き出した感があります。高速道路や飛行機、鉄道、何をとっても混んでいる状況をテレビ報道で知り、私はこの時期を使ってどこかへ行くのは控えることにしました。教職を退職した今では、ゴールデンウィークに出かける必要を感じないのです。私はいつも通り、朝から工房に通い、夕方まで陶彫制作に没頭しておりました。制作が追い込みに入ったことで、工房の終了時間を長く設定し、ほとんど丸一日を工房で過ごしています。成形や彫り込み加飾が終わり、乾燥が進んだ作品が溢れ出して、焼成をしなければならず、水曜日に窯入れをしました。翌日は工房での作業を休んで窯の温度確認だけを行なうのが今までの習慣ですが、今回は窯以外の電気が使えないにも関わらず、照明なしで作業を行いました。さすがに午後は作業を止めて、家内と映画に行ってきました。アメリカ版ゴジラが登場する娯楽大作を観て、気分転換をしてきました。ゴールデンウィーク真っ最中の混雑を心配しましたが、映画館は比較的落ち着いて観ることができました。遠出はしなくても近隣の施設で気分転換を図ることは可能だなぁと思いました。家内も邦楽器の演奏が立て込んでいたので、映画鑑賞は良かったのではないかと察しています。
    ピカビアとデュシャンについて
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の次章は、それぞれの芸術家に関しての文章が掲載されています。最初はフランシス・ピカビアとマルセル・デュシャンを取り上げます。ピカビアに関する文章は詩的です。「ピカビアは真に思春期の自由であった。鳶への受胎告知の可能、それは彼の人間的意志の極光である。王女のような海盤車を見給え。それが単に不思議に無数の官能を具足したひとつの太陽に酷似することはピカビアの真理である。」次にマルセル・デュシャンです。「マルセル・デュシャンのもっともモニュメンタルな仕事は、いうまでもなく、ガラス絵『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』である。~略~彼にとっては、多少とも論理的な仕方で、客観的な諸形態を分解したり(立体派)、主題の再現的な、またダイナミックな要素を混入したり(後期立体派ないしは未来派)することなどは問題ではなく、まったく別個な再現的価値の法則、形態の新しい意義を創造することが問題であった。このガラス絵は、その題が示すように機械のオルガニズムが、調革の論理のごときものによって、かえって人間的な冒険を生きようとするところの全く新しい可視世界を再創造しようとするものであった。~略~このタブローを占めるあらゆる機械的物体を結ぶ、いわば『調革の論理』は依然として難解なものたるを失わないようだ。それはしかし彼のレディ・メードのオブジェの意義の純潔さに似てはいないだろうか。ただわれわれがこの作品からうける全体の印象は、可能なあらゆる努力の意味づけによって、微動だにしない構造的なものであることだ。それがデュシャンの独特な表象法の秘密でなくてはならない。」今回はここまでにします。