Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • エルンストとマグリットについて
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の次章は、それぞれの芸術家に関しての文章が掲載されています。今回はマックス・エルンストとルネ・マグリットを取り上げます。まずエルンストから。「彼の絵画的な業績は、コラージュとフロッタージュと、その発見と応用とにあるということができる。彼は眠っていた古い描写メカニズムに異様な衝撃を与えた。~略~フロッタージュを発見した動機は彼の幼時に遡る。~略~5才から7才までの頃、寝室で、赤ずんだ地に黒い粗雑な線で塗った模倣マホガニーの鏡板が、きまって彼の幼い心にさまざまな有機的な形態を連想させるのであった。~略~1919年に彼がコラージュを発見した動機は、彼の手記によると、妙にフロッタージュの場合に似ている。ライン河畔の或る町での雨の日、彼は人類学、顕微鏡学、心理学、鉱物学、古生物学などの教材を図解したカタログに、いろいろ見入っていると、非常に隔絶した要素がただ集まった突飛さだけで、幻覚的な力が急激に烈しく感じられるのだった。そこで彼の幻覚の忠実な影像を得るためには、カタログのページに、対象とまったく縁のない風景、砂漠、空、床、地層図等を描くだけで充分であった。」次にマグリットです。「ベルギーの画家マグリットは、シュルレアリストのなかでもエルンストの晦渋な神秘もなく、ダリの偏執狂もない。いわば平易なシュルレアリストである。ーこの平易のなかに彼の絵画的魔術がひそんでいる。~略~マグリットはしばしば、彼の絵を窓枠のように区切っている。少なくともそのように描いている。彼にとっては、絵もまたひとつの窓なのである。花を咲かすのも窓の仕業であれば、人間を二分し、空を隠すのも窓である。キリコが室内を描いたように、マグリットは窓の超現実性を額椽に応用する。額椽を通して見えるものは必ずしも空間ではない。」今回はここまでにします。
    週末 アングラの劇作家を惜しむ
    週末にはいつも創作活動について書いていますが、訃報が飛び込んできたので、今日は劇作家にして俳優の唐十郎氏の逝去について書いていきます。私は大学生の頃、アングラ劇に刺激を受けていました。アングラとはアンダーグラウンド文化の略称で、ネットによると「反権威主義などを通じて波及し、1960年代後半に起こった、商業性を否定した文化・芸術運動のことを指す」とありました。最初の出会いは、詩人寺山修司の演劇論集で、今も自宅の書棚に「地下演劇」という天井桟敷編集委員会が発行した演劇理論誌があります。演劇実験室「天井桟敷」は渋谷にありました。何回か天井桟敷の公演を観て、日常空間と非日常空間との差異に興味を持ちました。当時「天井桟敷」以上に足を運んだのは、唐十郎主催による劇団「状況劇場」でした。新宿花園神社や江東区にある夢の島で公演をしていて、紅テントによる移動式の劇場に幾度となく行っていました。テントの中では筵が敷かれ、観客はぎゅうぎゅう詰めになって、役者の汗や唾が飛んできそうな迫力ある演劇を観ていました。台詞を機関銃のように矢継ぎ早に喋べる感情表現の方法は、今まで経験したことのない刺激と斬新さがありました。社会そのものを風刺したり、世相を批判するその内容は、時に警察に取り囲まれたりしたこともありました。私の世代は学生運動が下火になり、ほとんどデモが姿を消してしまった白けた時代だったので、こうした熱情の籠ったアングラ演劇に活路を見出していたのかもしれません。紅テントの芝居が終盤に差し掛かるところで、囲ったテントが開いて、周囲の景色を見せる演出をしたことがありました。突如日常空間が目の前に現れて、私は何とも言えない不思議な昂りを覚え、外の涼風と共にふと我に返った感覚を持ちました。劇作家唐十郎は、私にとって常に若々しい世界を見せてくれる才人だったと思っています。謹んでご冥福をお祈りいたします。
    週末 GWの1週間
    週末になりました。今週を振り返りたいと思います。今週はいよいよゴールデンウィークとなり、昨日と今日は夏日のような陽気になりました。そのおかげで各地の観光地は混雑を極め、コロナ感染症が5類に移行したことで、今まで規制されてきた外出が一気に噴き出した感があります。高速道路や飛行機、鉄道、何をとっても混んでいる状況をテレビ報道で知り、私はこの時期を使ってどこかへ行くのは控えることにしました。教職を退職した今では、ゴールデンウィークに出かける必要を感じないのです。私はいつも通り、朝から工房に通い、夕方まで陶彫制作に没頭しておりました。制作が追い込みに入ったことで、工房の終了時間を長く設定し、ほとんど丸一日を工房で過ごしています。成形や彫り込み加飾が終わり、乾燥が進んだ作品が溢れ出して、焼成をしなければならず、水曜日に窯入れをしました。翌日は工房での作業を休んで窯の温度確認だけを行なうのが今までの習慣ですが、今回は窯以外の電気が使えないにも関わらず、照明なしで作業を行いました。さすがに午後は作業を止めて、家内と映画に行ってきました。アメリカ版ゴジラが登場する娯楽大作を観て、気分転換をしてきました。ゴールデンウィーク真っ最中の混雑を心配しましたが、映画館は比較的落ち着いて観ることができました。遠出はしなくても近隣の施設で気分転換を図ることは可能だなぁと思いました。家内も邦楽器の演奏が立て込んでいたので、映画鑑賞は良かったのではないかと察しています。
    ピカビアとデュシャンについて
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の次章は、それぞれの芸術家に関しての文章が掲載されています。最初はフランシス・ピカビアとマルセル・デュシャンを取り上げます。ピカビアに関する文章は詩的です。「ピカビアは真に思春期の自由であった。鳶への受胎告知の可能、それは彼の人間的意志の極光である。王女のような海盤車を見給え。それが単に不思議に無数の官能を具足したひとつの太陽に酷似することはピカビアの真理である。」次にマルセル・デュシャンです。「マルセル・デュシャンのもっともモニュメンタルな仕事は、いうまでもなく、ガラス絵『彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも』である。~略~彼にとっては、多少とも論理的な仕方で、客観的な諸形態を分解したり(立体派)、主題の再現的な、またダイナミックな要素を混入したり(後期立体派ないしは未来派)することなどは問題ではなく、まったく別個な再現的価値の法則、形態の新しい意義を創造することが問題であった。このガラス絵は、その題が示すように機械のオルガニズムが、調革の論理のごときものによって、かえって人間的な冒険を生きようとするところの全く新しい可視世界を再創造しようとするものであった。~略~このタブローを占めるあらゆる機械的物体を結ぶ、いわば『調革の論理』は依然として難解なものたるを失わないようだ。それはしかし彼のレディ・メードのオブジェの意義の純潔さに似てはいないだろうか。ただわれわれがこの作品からうける全体の印象は、可能なあらゆる努力の意味づけによって、微動だにしない構造的なものであることだ。それがデュシャンの独特な表象法の秘密でなくてはならない。」今回はここまでにします。
    映画「ゴジラ×コング 新たなる帝国」雑感
    昨日工房で窯入れを行ない、今日は焼成のために窯以外のブレーカーを落としているので照明等が使えませんでした。午前中は自然光の中で陶彫の彫り込み加飾をやっていました。明日になれば電気は復旧しますが、今日のところは仕方がないなぁと思っていて、それを言い訳にして、午後は家内とエンターテイメント系の映画館に足を運びました。気分転換を図るため観たのは「ゴジラ×コング 新たなる帝国」で、弾け飛ぶようなアメリカ版ゴジラ映画です。私は前作「ゴジラ×コング」も観ていて、物語の繋がりはよく分かっていたので、今回も気楽に理屈抜きで楽しめました。アカデミー賞に輝いた日本版「ゴジラ-1.0」とは、ゴジラが登場する背景や、ゴジラそのものを神格化する日本版とはまるで異なり、同じゴジラが登場する映画としては別物と考えた方が良さそうです。アメリカ版は「モンスターヴァース」という連作で、地上に棲むゴジラと地下空洞に棲むコングが、奇妙な電波信号によって、そのテリトリーの均衡が破られるところから物語が始まります。地下ではコングとは別種の猿集団がいて、凍結波を出す怪獣を操り、他の生命の絶滅を図っていたところにコングとゴジラが共闘して、別種の猿集団を倒すというものでした。まさにこれはエンターテイメントで、見せ場がこれでもかと続く痛快娯楽劇に仕上がっていました。そうした特撮に関してはアメリカ人製作者の巧みさが凄くて、観客はどんどん惹き込まれていきました。エジプトやイタリアの世界遺産となっている建造物がバラバラ壊されていくのは、映画でなければ見られない場面だなぁと思っていました。観終わった後で、家内も面白かったらしく、ゴールデンウィークの過ごし方としては良かったのではないかと言っていました。私も気分転換が図れて、明日から陶彫制作を頑張ろうと思った次第です。