Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 飼い猫死亡と映画鑑賞の1週間
    週末になりました。今週を振り返ります。今週で一番印象が強かったのが、飼い猫として17年間連れ添ったトラ吉が、月曜日未明に亡くなったことでした。ワンボックスカーに焼成炉を積んだ火葬車というものがあって、自宅の庭先に車を停めてトラ吉を火葬しました。小さな骨壺に収まったトラ吉はリビングに置いてあります。17年間お世話をしていたので、その習慣が抜けずに家内はそのたびに思いに耽っていました。私は毎日朝から夕方まで工房に出かけていたので、トラ吉の使用したグッズの後始末は家内がやってくれました。火曜日の午前中、私は地域の公立中学校に呼ばれて、学校運営協議会に参加してきました。私は教職を退職してもう3年が経ち、そろそろ学校教育のことが頭から離れつつあるのに、こうした機会が与えられて学校現場に関われることを幸せに感じます。地元の学校が良くなることに尽力できればと思っています。この日の午後は家内とエンターティメント系の映画館に、現在流行っているアニメ映画を観に行ってきました。この情報は教え子から得たもので、私は20代の子たちと付き合いがあり、なおかつ美術を専攻する者として、日本が世界に誇るアニメーションに興味関心があるからこそ、今もアニメ映画に足を運ぶのかなぁと思っています。ヴィジュアル系表現の巧みさで言えば、日本のアニメーションには眼を見張るものがあり、人の心を掴むキャラクターを創り出す能力では、アメリカのディズニーに匹敵するのではないかと思っています。世界を席巻するサブカルチャーが日本で生まれたことに誇りを感じるこの頃ですが、自分がやっている空間造形もそうありたいと願っています。ともかく、今週も朝から夕方まで陶彫制作に励みました。
    「シュルレアリスムの作家像」について➁
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「シュルレアリスムの作家像」の後半に掲載されている芸術家の言葉についてピックアップいたします。芸術家はハンス・アルプ、サルバドール・ダリ、マックス・エルンスト、アルベルト・ジャコメッティ、ホアン・ミロ、ポール・ナッシュ、パブロ・ピカソ、マン・レイ、イヴ・タンギーの9人の言葉が取り上げられていましたが、言葉によっては短文があり、主張が明確に述べられている長文の5人に絞らせていただきました。「理性は人間に向って、自然の上位に立ち万物の尺度となるように命ずる。そこで人間は自然の法則に反して生きかつ創造しうるものと思い込んでしまう。ところが彼の生むのは出来損ないだ。」(アルプ)「自発性というものについても、ぼくはやはり豚の脚だといいたい、しかもそれはあべこべの豚の脚であって、いわば伊勢海老の如きものである。これは人の知るように、豚の脚とは反対に、骨骼は外部に現われていて、美味な肉つまり狂気はその内面を占めている。」(ダリ)「一度物体が構成されると、ぼくはそこに自然に、ぼくを深く感動せしめた影像や印象や事物、自分になにか非常に近いと感じられる諸形態をふたたび発見するのがつねである。」(ジャコメッティ)「18世紀の終りに狂人呼ばわりされたブレイクは、万物のなかに彼がつねにアルビオンと呼んだ世界の秘められた意義を認めた。同時にその作品は彼の生国の強い影響を受けている。彼の詩は一言半句すべてイギリスから生まれたものである。彼の全生涯は彼の内部の眼が知覚するための象徴を発見するために捧げられた。しかし惜しくも彼の手はまれにそれを表現し得たのみであった。」(ナッシュ)「一枚のタブローを描きはじめようとする時のぼくはそれがどうなるかをまったく知らないのだ。ひとつの形体は、それがどんな形であるかを考えてみるまでもなく生まれ出てくる。他の形体もそれにつづいてくる。すべてが意識的な干渉なしに生じる。ぼくは最後の筆を措くまで、全体の観念を持たない。」(タンギー)今回はここまでにします。
    「シュルレアリスムの作家像」について➀
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「シュルレアリスムの作家像」について気になった箇所をピックアップいたします。ただし、本章は個々の芸術家の言葉を掲載しているため、前後半に分けて書いていきます。今日は芸術家の言葉の前に、その導入としての論考を中心にしていきます。まずシュルレアリスムで使われる技法の解説から。「コラージュとは、いわば既成の絵を切り抜いた貼り合わせ絵である。~略~ブルトンは『平凡な銅像でも溝のなかに立っていると驚異の対象となる。平常な位置から対象を追放して夢のなかでしか見られないような、異常な位置に置くことが芸術の重要な機能である』といっているように、コラージュは超現実主義詩法の完全な絵画的適用であるといわねばならない。」次にフロッタージュについて。「フロッタージュ(摩擦画)はエルンストの発見した手法であって、子供がよく銅貨や木理に紙を当てて鉛筆を擦って遊ぶ手法である。~略~近代絵画における触覚の役割は非常に大きなものであるが、彼はこの触覚的な苛立たしさのいわばネガティヴを取るために、あらゆる材質に応用して見た。これは物質に内在する不思議な呟きを触発するのであった。」次はダリの絵画論について書かれた箇所を引用いたします。「彼は偏執狂的な絵画によって、ヨーロッパの絵画史を作りかえているのだ。近代絵画は立体派以後、造型的様式はいよいよアブストラクトな傾向を帯びて来たのであるが、ダリはむしろこうした系統の全き対蹠点に位置している。彼はイギリスのラファエル前派に関する特異な論文のなかで、セザンヌの林檎はプラトニックな食べられないゴツゴツしたものであるが、ラファエル前派の描いたそれは水々しく形態的にも真に重力と弾力をもった感性的な林檎であると歎賞しているのは、現代絵画の形態学に興味ある暗示を与えるのである。彼の一定義にしたがえば『美は可食的である』ということになる。」今回はここまでにします。
    「現代の美学的凝結」について
    「シュルレアリスムのために」(瀧口修造著 せりか書房)の「現代の美学的凝結」について気になった箇所をピックアップいたします。「超現実主義はまず、現代の詩と造型芸術とにもっとも新鮮な生命力を注入すると同時に、エスプリの解放に寄与せんことを望むものである。」本単元には、シュルレアリスムが取り上げているオブジェについての考察があり、そうした物体、とりわけレディメイド(既製品)に関する論考に、私は常に関心を寄せてきました。既製品を本来の用途ではなく、芸術作品として扱ったことは、芸術を学び始めた当時の私には驚きであり、自分が大学で人体塑造をやる意義さえ分からなくなっていたのでした。とは言え、その頃の自分の習作に対し、私は芸術的概念を持ち合わせていなかったので、視野を広げることを自制せざるを得ず、大学で学ぶことと社会で起こっていることが乖離している状況を受け入れていました。本書に戻ります。「もっとも注目すべきものとして、オブジェ(物体)の発見がある。この実験はダリの提唱した〈象徴的機能の物体〉に発したものであるが、既製品の物体の非合理的な再創造が、言語影像、絵画影像における場合と同じく、不可思議な凝結の幻影を形づくることを証明するのである。そしてひいては自然におけるオートマティスムの発見にまで到達する。〈捨得物あるいは発見されたオブジェ〉がそれである。こうした物体再発見の実験は、人間と対象との交通のための公有道路を見出したものであり、造型美術の領域にあっては、対象と材料の不当な極限、ジャンルの不当な防壁を打破するものである。ここでも、超現実主義は、表現芸術を、人間の内部欲望の総体において解釈するものであることを示している。オブジェと詩とを結合したブルトンの〈物体詩〉のようなこころみは芸術の仮象的境界に驚異的な通路を暗示したものである。オブジェの再認識は、彫刻の観念を革命しつつある。ピカソ、ジャコメッティ、アルプ、エルンストなどの彫刻は従来の彫刻の観念をまったく破棄したものというべきである。」今回はここまでにします。
    映画「ハイキュー ゴミ捨て場の決戦」雑感
    今日は朝のうちに工房にある窯の温度確認に行き、それから地域の公立中学校で開催された学校運営協議会に参加してきました。そんな用事を午前中に済ませて、午後は家内と久しぶりに映画に行ってきました。観たのは劇場版スポーツアニメで、教え子が勧めてくれた「ハイキュー ゴミ捨て場の決戦」でした。私は社会性のあるドキュメンタリー映画に関心がありますが、娯楽性を盛り込んだアニメもよく観に行きます。「ハイキュー」はバレーボールのチームを描いた漫画で、「スラムダンク」のバスケットボールと双璧を成すドラマではないかと思っています。私は学校に勤めていたおかげで、部活動と密接な関わりがありました。勿論そのアニメになった部活動の顧問をやったことはありませんが、身近な生徒たちが一所懸命そのスポーツに励んでいたことを思い出します。部活動に打ち込むことによって個人の心身の成長も、チームとしての協調や結束も、教員の立場としてよくわかっています。しかも最近のアニメの技術は眼を見張るものがあり、その迅速な動きと視点の誘導に思わず引き込まれてしまい、息つく暇を与えてくれません。「ハイキュー ゴミ捨て場の決戦」も烏野高校と音駒高校という因縁の対決を、個々の選手を際立たせながら、巧みに描いていました。試合にはドラマがあり、肉弾線でありながら心理戦でもあります。体力に自信のある選手もいれば、冷静な判断をして戦略を練る選手もいます。違う個性が化学変化を起こし、チームを強くしていくのは、小さな人間社会を見るようです。昭和の時代のスポーツ漫画は、一人のヒーローが全てを解決していましたが、現代のスポーツ漫画には万能なヒーローが存在しません。しかもライバルを丁寧に描くことで、試合のリアルさが増しています。映画が短く感じたのは、それなりに面白かった証だろうと思っています。今日は充実した一日を過ごしました。