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  • 鎌倉彫の彫師さん
    大切な友人に鎌倉彫の彫師をやっている安斉文隆さんがいます。自分がウィーンから帰国してまもなく、ドイツ語を忘れないために在日ドイツ人学校(横浜市都築区にあるドイツ学園)の夜間クラスに通っていた時期があります。安斉さんはその時に知り合った人です。安斉さんは鎌倉彫の技術を伝えに、またドイツの木彫技術を学びに行く目的でドイツ語を学んでいたのでした。それを度々実現させ、多くの写真をもって私のところに現れました。鎌倉の山水堂で1級技能士として仕事をしている安斉さんですが、彫りへの思い入れが強く、また技術には目を見張るものがあります。今日は横浜のグループ展に来ていただいたので、鑿の研ぎ方や扱い方を伝授していただきました。自分の作品は安斉さんのように緻密さも流麗さもない粗雑なものですが、自分の襟を正すためにも、こうした人が自分には必要なのです。ブログをご覧になっている方で、お時間があれば、ぜひ鎌倉駅近くの山水堂にお出かけください。安斉作品の彫りの美しさを堪能してください。
    展覧会雑感
    土曜日の横浜市民ギャラリーは大変混雑していて、3階の児童生徒作品展に見に来た親子連れが、ついでに我々のグループ展をのぞいてくれます。例年小さい子どもたちの反応を窺うようになりました。子どもたちは本能に忠実で社交辞令も遠慮もないからです。私の作品は入り口にあって広告塔のような役割をしています。すごいと言って入ってくる子どもたちが多ければ、今回の作品は成功と思っています。難解な評論より、はるかにわかりやすい基準です。美術的なるモノを問う作品というより、まず理屈抜きで楽しく感性に入ってくるモノ。美術っていいなと思えるのは、ここから始まると思うのです。今日は自分の母親と妹の家族がやって来ました。お祝いをいただきました。母親は現代美術のことをよく理解せずに応援してくれます。これが親だと思います。小さな子どもを連れた家族を見ながら、そんなことをぼんやり考えていた一日でした。
    一通の手紙より
    展覧会に来られた恩師から手紙をいただきました。以前紹介した彫刻家の恩師ではありませんが、自分にとって大切な方です。そのまま引用させていただきます。「発掘シリーズによって人間の原点を模索し、いよいよ人間性の構築への取り組みですね。愛情、失意、信頼、裏切り等、不条理な包囲網を打ち破り、何が求められるか期待しています。」文筆業をされていて、横浜にまつわる文士をテーマにした本を出版されている笠原実先生です。大変有難い言葉をいただいて痛み入ります。自分が何気なくイメージしていたメッセージを端的な言葉にしていただきました。陶彫から木彫に移行したのは単に技術的な移行ではなく、作品の意味合いまでも移行したわけです。ただし陶彫でやり残したものはまだあって、発掘シリーズは継続します。構築シリーズと併せて、振り子のように同時進行していくつもりです。
    2月 新作の第一歩
    2月になりました。今年は暖冬で、きりきりした寒さはありません。先日作品の搬入が終わり、次に残った課題に向かって新作のエスキースに入りました。今回の作品は木彫部分に彫り跡を残して塗装せずにおいたので、軽やかな印象を受けるという感想を見に来られた人から聞いたので、こういう印象を大切にしながら、自作の雛型作りを始めました。別の仕事をしている関係で制作ばかりやっていられない自分はどうしたら制作を続けられるか、常日頃から考えていました。その結果、効果的な手段を思いついたのです。それは作品が出来上がって展覧会に搬入した途端、間髪をいれずに次作を作ること。ひとつ作品が終わって、ホッとしてしまうとそのまま作品を作れなくなります。一息つくのは制作の合間にしておけば必ず作品を完成させることができると思います。今日はその第一歩です。
    作品の写真撮影
    毎回撮影をお願いしているカメラマンに、サクレ展出品中の「構築〜包囲〜」の撮影をしていただきました。昨日ギャラリーに撮影許可申請を出し、今日の夕方、2人のカメラマンの到着を待っていました。昨年図録を作ったのですが、2人ともその時からのお付き合いになります。以前は自分で写真を撮っていました。やはりプロの腕は違うとつくづく知らされた1年でした。このHPに使ってある写真はすべてこの人たちによるものです。なにしろ組み立てられた立体作品は、分解して倉庫に入ると容易に取り出せなくなります。写真だけが作品の様子を伝える手段なのです。今回の作品は、彫り跡を意図的に残したり、砂のマチエールをつけたりしましたが、これが写真という媒体を通すとどんな表現に変わるのだろうと興味津々です。またそんなことも頭にあって、今回のような表現にしたと言っても過言ではありません。