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  • 演劇空間についての考察
    昨日、下北沢の本多劇場で公演中の演劇「マイクロバスと安定」を観に行った後で、私は20代の頃に思いを馳せた演劇空間についての雑念に頭が囚われてしまいました。現在の私の創作活動では彫刻が空間を演出するための装置と考えているところがありますが、当時の私は彫刻を学んでいるにも関わらず、空間を捉える意識がなかったのでした。当時は人体塑造の巧拙にばかり目がいっていて、アルバイトでやっていた亡父の庭園造成にも空間的な解釈はしていませんでした。そんな近視眼的な私に不思議な空間感覚を齎せた分野がありました。それは当時流行していたアンダーグラウンド演劇(アングラ劇)で、その中には外でテントを張って上演する野趣あふれる興行もありました。代表的な劇団には、唐十郎主催「状況劇場」、鈴木忠司主催「早稲田小劇場」、寺山修司主催「天井桟敷」などがあり、私は頻繁に観劇に行っていました。そこで私が気がついたことは日常の中に立ち現れる非日常の演劇空間のことでした。たとえば客席と舞台がしっかり分かれていれば、舞台空間を非日常化することは十分考えられ、安心して観劇できるのです。一方、劇団によっては舞台が定まらないこともあり、客席との境が曖昧で、そこに見えない結界が張られているのではないかと思わせることがありました。日常の中に突如非日常が登場する、その演劇的事件が若い私を刺激していました。私たちが慣れ親しんだ日常の当たり前な状況が、ふと超現実的な世界に変貌する、意味が分からない中で、私たちはそれが何かを究明したいと願い、それを受け入れるのに時間がかかります。そんな究極なことは現実にはありませんが、私たちの生活の中には馴染みのある非日常空間の現出もあるのです。それは神社仏閣が行う祭りです。そこに登場する祝祭空間は非日常で、神や仏を奉る儀式と演劇がどこか似ているように私には感じられるのです。人間は時折日常の中に演劇空間をもち込むことで、新鮮な視点を得たいのかもしれず、それを感じることで私たちの生活が活気のあるものに生ま変わることがあるのだろうと思います。昨日、本多劇場で友達が演じていた芝居を通して、そんなことを考えたのでした。
    演劇「マイクロバスと安定」雑感
    私の高校の同級生に俳優の竹中直人君がいます。彼を主役にした演劇「マイクロバスと安定」が東京下北沢の本多劇場で公演中なので、今日それを観てきました。劇場の受付前で、同じ同級生にも会って、昔の話題で盛り上がりました。その彼と竹中君と私は今も続いている同級生仲間で、昨年開催された同窓会でも親交を深めました。今日の「マイクロバスと安定」は竹中君と生瀬勝久氏による企画で、今回は第四弾となる作品でした。ベテラン俳優2人に5人の若手俳優が絡む緊張感溢れる芝居は、本当に見応えがありました。作・演出は倉持裕氏で図録には「世界に終わりをもたらす要因がー小惑星の衝突だとか宇宙人の襲来だとかーたとえどんなに現実離れをしていようとも、そこには必ず『死に直面した人間の振る舞い』という、誰もが将来必ず経験することが描かれています。」(倉持裕著)とありました。その通り本作では、世界が残り僅かで破滅するかもしれない中で、日常を過ごす人々の心理劇になっていました。舞台は演出家の自宅兼稽古場で、演出家(竹中直人)、演出助手(井岡晴太)、出演女優(サリngROCK)、演出家の旧友で嘗ての劇団仲間(生瀬勝久)、その娘で役者志望(飯豊まりえ)、隣人男女(松浦りょう・浜野謙太)の7人が平時を過ごしながら、そこで織りなす人間同士の関係性が中心に描かれ、その端々に世界が終末へ突き進む微妙な台詞が導入されていました。役者はその役になり切るのが才能と思いますが、本作では創作された架空の人物たちが、本当に課題を抱え、右往左往しているように感じられました。7人にそれぞれキャラクターの違いがあり、その個性や癖を全面に出し、また沈黙で覆いながらちょっとした間合いを取る、それは7人が徹底して脚本を読み込んで、己の人格の中に架空の他者を血肉化している証拠に他なりません。本作には豪華な演出もなく、また遊戯性もありませんが、演劇本来の面白味が詰まっていると感じました。演劇の空間とは何か、実は若い頃から私が考えてきたもののひとつで、今日の演劇を観て、私は若い頃に夢中になった演劇の空間にもう一度思いを馳せていました。竹中直人君、今日は有難う。そしてたまには自分を労ってください。
    「宗教図像学入門」読後感
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)を読み終えました。私は特定宗教を信仰しているわけではないし、先祖が敬ってきた地域の菩提寺に墓地があるにも関わらず、その菩提寺の宗派である浄土宗にも関心があるとは言えません。私にとって宗教とは学問のひとつに過ぎないと思っていて、そうしたことで派生する宗教的文化には、実は前から興味がありました。彫刻の師匠がキリスト教に関わる作品を数多く作っていること、亡くなった叔父が哲学者で、無教会主義を唱えた内村鑑三の私淑者であったことなど、周囲にはキリスト教に纏わる環境がありましたが、それよりも20代の頃に住んだヨーロッパで壮麗なカトリック教会で見た過剰な装飾に圧倒されたことが、私を宗教文化に近づけた要因であろうと思っています。本書を読んだ感想として、宗教のもつ根源的な問いかけに私の心は刺さりました。「宗教はすべて自己の根拠を問うものだという考え方がある(今・ここにいる私の究極の始原は何か?究極の原因は何か?究極の拠り所は何か?)。」という文章に造形によって自己表現を究めようとしている私には、宗教を芸術に置き換えれば常に自分が考えていることの合致を見るからです。精神的な捉えとしてみれば、宗教と芸術は似ているのかもしれません。本書は図像学を扱っているので、世界にある多種多様な宗教に対し、信仰や感情とは一定な距離を持って冷静に客観視していることに私は好感を持ちました。私も前述した通り、宗教を学問として扱いたい立場です。本書が特定宗教に深く入り込まず、カタログ的な図像紹介に努めているため、私はもう少しこれを知りたいと思ったこともあって、それは別の機会を持とうと考えています。本書のおわりに書かれている著者の文章を引用いたします。「宗教とは論理と感性が絡み合う形で成立して文化であることをイメージトリップを通じて理解していただくのが本書の目的だ。章を進めるごとに現れる宗教的視覚表現の新たな地平に、感性的論理の多次元性を看取していただけたとすれば、本書の目的は達成されたことになる。」さて、本書はあくまでも入門書なので、ここから学問としての宗教に入っていくスタートラインとも考えられ、差し詰め私は身近な宗教的なものから取り上げていこうと思っています。
    「根源的驚異と畏怖の喚起」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の6つ目のパート「根源的驚異と畏怖の喚起」は最後のパートで3つの章から成り立っています。まず「第22章 原初の怪獣」から。「西洋はドラゴンの形状は爬虫類タイプ(四本足)あるいは鳥類タイプ(二本足+二枚の翼)、そして両方が合わさったようなペガサスタイプ(四本足+二枚の翼)と色々ある。大きさは犬並みから恐竜並みまであり、翼は中世以降コウモリ型になった。しかしドラゴンという言葉自体は蛇の名称に由来する。~略~インドのナーガは漢語で『竜』と表記されるが、実際には中国の竜に似ていない。西洋のドラゴンにも似ていない。実際これはコブラを意味しており、図像的には人面蛇身に描かれる。多頭の蛇として描かれることもある。釈迦の修行中に天蓋の代わりを務めたとも言われ、ヒンドゥー神話ではヴィシュヌ神に対して同じことをしている。~略~中国の竜は爬虫類の王様のような存在だが、絵ではだいたい蛇のように長くて四足を持ち、頭のあたりに鬣や髭や角など色々なものがついていて複雑な顔立ちをしている。~略~中国の竜には高貴なイメージがあり、地上と天界を結ぶ働きをもっている。そのためもあって、中国の皇帝はシンボルとしている。怖い存在であるには違いないが、恐怖よりも畏怖の感じだ。」次に「第23章 世界と自己の起源」。「宗教はすべて自己の根拠を問うものだという考え方がある(今・ここにいる私の究極の始原は何か?究極の原因は何か?究極の拠り所は何か?)。私の始原を問う思考は、個人的な限界を飛び越えて世界そのものの始原を問う思考に流されていく。そうだとすれば、宗教の神話の究極の姿は天地創造の語りということになる。~略~最初の三日で天地の舞台(時間、空と海、陸)を整備し、続く三日で生き物(日月星辰、空と海の動物、陸の動物と人間)を造り上げた神は、七日目に休息する。聖書の天地創造神話はユダヤ教の安息日(1週間に1度の労働停止日)を根拠づける神話なのだ。」最後に「第24章 死と終末」。「大乗仏教の浄土信仰は、輪廻空間の一種である浄土(極楽など)に生まれ変わる(往生する)という仏教としては変則的なプロブラムをもっている。苦しみ多き輪廻において浄土は一種の緊急避難所となり、そこで修行を積んで解脱するのである(ただしはるか後世、日本などではこの浄土を究極の救いという風に捉えるようになった)。新約聖書の『ヨハネの黙示録』は世界終末における審判のビジョンを取り入れた。世界はやがて終結し、キリスト再臨など色々な出来事が起きたのち、善き者は『新しいエルサレム』すなわち天国へ、最後まで悔い改めぬ者は『火の池』すなわち地獄へ落される。~略~近代化が進むにつれ、先進国では宗教は主流の社会規範ではなくなった(人々は科学や国家の法律や哲学的な倫理に従うようになった)。これに応じて宗教的来世観も希薄化した。社会的怨念や神の復讐を唱えることは上品なこととはみなされなくなり、宗教信者も地獄をあまり語らなくなった。」以上です。
    「塔と宇宙樹、聖なるランドスケープ」について
    「宗教図像学入門」(中村圭志著 中公新書)の5つ目のパート「聖なる空間をレイアウトする」は4つの章から成り立っています。今回はそのうち後半の2つ「第20章 塔と宇宙樹」と「第21章 聖なるランドスケープ」を取り上げます。「塔はいかにも印象的であるし、ピラミッドから仏塔まで、カテドラルの尖塔からミナレットまで、聖性の象徴であることは間違いないように思われるのだが、それは教理的なものというよりも、宗教行事の式次第や祭壇のレイアウト、聖歌の印象的な節回しと同様の、典礼的な演出法に属する。宗教をメタな視点で横断的に眺めたときに、聖なる演出として塔が目をひくというわけである。~略~城塞などの塔には監視塔の役割もある。これと天を衝く高さという要素を掛け合わせると、人間界を監視する『神の眼』のピラミッドのイメージが生まれる。~略~近代において宗教社会から世俗社会に変貌を遂げた欧米社会では、搭状建築は(科学的・産業的・社会制度的な)進歩の象徴ともなった。~略~こうした象徴物は宗教原理主義者の格好のターゲットにもなる。21世紀になってすぐ、ニューヨークの貿易センタービルはイスラム過激派によって破壊された。ここにもバベルの塔に対する宗教的不信感が作用しているのかもしれない。」次に聖なるランドスケープ。「一般に中国思想においては陰と陽の対照が大きな意味をもっており、山水画の場合も同様だ。なお、谷が女性性を象徴するということには、老子の『道徳経』にある神秘の牝としての『谷神』のイメージも響いている。~略~東アジアの日本だが、神道そのものがアニミズム的色彩が強く、山、森、島、滝などに霊性を感じる伝統がある。それは密教によっても補強され、行者が山野を駆け巡る修験道という伝統も成立した。富士を竜脈ならぬカミそのものとして拝む富士参詣曼荼羅のような図像も生まれている。」私は日本のアニミズム的色彩に大変興味があって、さまざまなところに神が宿る伝統を喜ばしく思う一人です。両親の実家があった時は、正月の朝になると、庭の井戸や納屋、裏山の祠に小さく刻んだ餅を捧げていました。私にとっては聖なるランドスケープであったわけで、そこに棲み給う神々が自分を守護してくれていると子供心に信じていたのでした。