2023.07.28 Friday
今日は栃木県益子町にある陶芸用品専門店「明智鉱業」から陶土800キロが届きました。陶彫制作を続けているうちに、いつの間にか在庫の陶土がなくなり、今週初めに「明智鉱業」にファックスを送りました。まだ陶彫制作が現在のような状況になっていないうちは益子に直接出かけていき、複数の陶土を購入しては実験を繰り返していました。その頃は横浜と益子を往来する生活でしたが、その時は焼成した陶土がイメージ通りになるかどうか、迷いつつ苦闘をしていました。私の作るモノは彫刻であるため、器ではなく、しかも釉掛けもしません。大きめの陶彫が錆鉄のような色合いになることと、形が出来るだけ歪まないことを念頭に入れ、ヨーロッパで培ったイメージ世界の具現化を求めていました。テストピースで気に入った肌合いが出来たとしても、実際のサイズで作ったら大きく歪んでしまったことも度々ありました。そんなことを経て、漸く現在のような陶彫が出来上がってきたわけです。今回は新作陶彫が陶土をどのくらい使用したのか、厳密には計算できませんが、陶土の搬入日を遡ることでその消費結果が分かってきました。2022年は10月18日に陶土を搬入しました。2021年は9月7日、2020年は10月24日に陶土が届いています。ほぼ1年くらいの間隔が空いていますが、今年は今日陶土が届いたので、やはり現在作っている日付のある陶彫立方体は、かなり陶土を消費していることになります。制作中にも何となく分かっていたことですが、あぁ、やはりそうか、と思ってしまいました。日付のある陶彫立方体は、まだまだ継続するので、陶土の減り具合もかなりあると見積もっていきます。また明日から届いたばかりの新鮮な陶土で制作をやっていきます。
2023.07.27 Thursday
今日付の朝日新聞に面白い記事がありました。「世界各国のTOTOの工場で働く技術者が集まり、トイレなどで使われる衛生陶器作りの技を競う『衛陶技能選手権』が25日、北九州市の同社工場で開かれた。新型コロナ禍で2019年を最後に中断し、4年ぶりの再開となった。陶器にうわぐすりを塗ってつやを出す『施釉』と、便器などを形作る『成形』の2部門があり、今回は施釉の部の8回目。米国、インド、タイ、台湾など九つの国・地域の14の生産拠点から選抜された精鋭29人が参加した。つや出しと保護のためのうわぐすりを、トイレのタンクにスプレーで塗る競技や、塗布した厚みを目視で当てる競技に臨んだ。」審査結果は焼成後に決まるようで、これは我が国が世界に誇る衛生陶器作りの基本を成すものだろうと思います。今回、成形はなかったようですが、便器の形をより現代に合ったシャープで、しかも利便性を高めることに、私の興味関心が引き寄せられていきます。これは工業デザインの分野で、自分が高校時代に目指していた仕事でもあります。若い頃、私はヨーロッパ各国を回ったり、また教職に就いてから夏休みを利用して東南アジアを旅行してきました。そこの国のトイレ事情は否が応でも気になっていたところですが、何と言っても日本のトイレは清潔で、しかもデザイン性に優れたものがあります。M・デュシャンは便器に「泉」というタイトルをつけて、展覧会に出しましたが、日本の便器なら差し詰め「花弁」と名づけたいような未来型の美しい曲線をもった造形もあります。新聞によると4年前に2部門とも優勝をしたのはベトナムだったそうで、近い将来は東南アジア各国にも未来型の便器が登場してくるかもしれません。生活を楽しむこと、生活に美意識を取り入れること、これからのデザインの役割は大きいと考えています。
2023.07.26 Wednesday
「古寺巡礼」(和辻哲郎著 岩波文庫)は単元で分けず、内容として私の興味関心を惹いたものを順次取り上げようと思います。今回取り上げる「百済観音」は法隆寺にあり、教職に就いていた頃の修学旅行でも、私事旅行でも訪れた寺院観光の定番と言えるところです。「百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。あの肩から腕へ、胸から胴への清らかな肉づけや、下肢に添うて柔らかに垂れている絹布のひだなどには、現実を鋭く見つめる眼のまがいなき証拠が現れている。しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違っているのである。この相違のうしろには、民族と文化とのさまざまな転変や、それに伴う作家の変動などが見られるかもしれない。~略~抽象的な『天』が、具象的な『仏』に変化する。その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。人体の美しさ、慈悲の心の貴さ、ーそれを嬰児のごとく新鮮な感動によって迎えた過渡期の人々は、人の姿における超人的存在の表現をようやく理解し得るに至った。神秘的なものをかくおのれに近いものとして感ずることは、ーしかもそれを目でもって見得るということは、ー彼らにとって、世界の光景が一変するほどの出来事であった。彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。そこに測り難い深さが見いだされた。そこに浄土の象徴があった。そうしてその感動の結晶として、漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。」現在は法隆寺大宝蔵院に安置されている百済観音ですが、由来を紐解くと謎が多いことが分かります。古い資料によると「虚空蔵立菩薩」と呼ばれていたらしく、他の寺院から法隆寺に移されたものという説もあるようです。百済観音が今のように有名になったのは本書「古寺巡礼」で和辻哲郎が語ったところの影響もあり、著者の観察眼に説得力があるのがよく分かります。何年も前に、私は生徒を引率する慌ただしい中で、百済観音を見ていた記憶が甦ります。すらりと伸びた仏像の姿勢に一瞬清らかな雰囲気がしたのが忘れられない思い出です。個人で訪れた法隆寺で改めて百済観音に対面し、暫し佇んで仏像の周囲に漂う空気を感じ取っていました。
2023.07.25 Tuesday
「古寺巡礼」(和辻哲郎著 岩波文庫)は単元で分けず、内容として私の興味関心を惹いたものを順次取り上げようと思います。今回取り上げる奈良県聖林寺に私はまだ行ったことがありません。各地に残る十一面観音の中で、本文に促されたことにより、私は是非行ってみたいと思うようになりました。「聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。仏教の経典が仏菩薩の形像を丹念に描写していることは、人の知る通りである。何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。これはまず第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。また何人も法華経を指してそれが幻像の書でないとは言い得まい。それはまず第一に仏を主人公とする大きい戯曲的な詩である。観無量寿教のごときは、特に詳細にこれらの幻像を描いている。仏徒はそれに基づいてみずからの眼をもってそれらの幻像を見るべく努力した。観仏はかれらの内生の重大な要素であった。~略~わが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。半裸の人体に清浄や美を看守することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。」それでは十一面観音とはどんな仏を言うのでしょうか。ネットで調べると「苦しんでいる人をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全方向を見守っています。またそれぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)という様々なご利益があり、千手観音菩薩と並んで人気の高い観音です。」とありました。十一面観音は聖林寺の他にも安置されている寺院が複数あり、訪ね歩くのもいいなぁと思います。
2023.07.24 Monday
今朝の朝日新聞「折々のことば」に掲載された記事に目がとまりました。「偉大な創造的行為やまっとうな人間関係はすべて、力が正面に出てこられない休止期間中に生まれるものである。E・M・フォースター」この文章に対して著者の鷲田精一氏がコメントを書いています。「社会の基盤はたしかに力によって支配されるものだが、大事なのは『それが箱から出てこないようにする』ことだと、英国の作家は言う。『文明』とは、ほかでもないこうした暴力の『休止期間』を意味する。暴力が眠っていない間は、寛容も善意も『軍靴に踏みにじられる一本の花』にひとしいと。評論『私の信条』(小野寺健訳)から。」ウクライナでは現在も大切なものが踏みにじられる行為が行われています。世界文化遺産であるオデーサの救世主顕栄大聖堂がミサイルによって破壊されたというニュースが入ったばかりで、私の心は痛みました。美しいものを感受する心は世界共通で、どんな人にも素晴らしさを齎すと私は信じています。そこに宗教や民族性を問わず、多文化を認め合う大きなパワーが存在すると思っています。暴力が猛威を振るっているうちは、美しいものは存在を失い、破壊を受ければそのままになってしまいます。私たちの文明は、暴力の休止期間に発展を遂げたというのがフォースターの持論です。戦争からは何も生まれない、科学の発展は見込まれるかもしれませんが、人が美しいと感じるものは何も生まれないのです。己の領土拡大のためにその土地の文化を奪うのは大変な罪になるということを分かってほしいと私は願っています。その土地で育まれた文化を否定して、支配した国に他民族を同化させる政策も私は間違っていると思っています。勿論我が国もそうした愚かな政策をしてきたのは理解しています。過去の間違いを反省し、現状で正しいことを選択するのも私たちで、他者を敬う心も育てていくべきだと考えます。