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  • 「スポーツの日」に陶彫成形継続
    今日は三連休の最終日で「スポーツの日」です。私は旧称「体育の日」の方が言葉に馴染んでいて、いつごろから「スポーツの日」になったのか、ネットで調べてみることにしました。旧称「体育の日」は1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開会式が行われたことで、これを国民の祝日としたのが始まりだったようです。2000年(平成12年)から移動祝日になり、2020年(令和2年)に東京オリンピック・パラリンピックが開催予定だったことで現在の名称に改称したようですが、新型コロナウイルス感染症の影響で、実際の東京オリンピック・パラリンピックは翌年の開催になりました。「スポーツの日」は日本の移動祝日の中では、1年のうちの最後の祝日になります。今日はいつも工房に来ている美大生や美大受験生がいて、それぞれの課題に立ち向かっていました。この三連休は制作に訪れる人が工房に入れ替わり現れたため、私も朝から夕方まで制作に集中していました。この三連休は陶彫制作に明け暮れ、気候の良さも手伝って作業はよく進みました。三連休といえども通常の陶彫制作ですが、今日は陶彫の成形を行いました。成形は制作工程の中で最も彫刻的な仕事で、私には楽しい仕事になります。立体が立ち上がっていく過程は、たとえ定型の立方体であっても楽しさに満たされます。私の場合は日常から継続している制作工程を消化しているわけですが、昨日のNOTE(ブログ)に書いたように頭の中に新しいイメージが湧きあがってきて、手を動かしながらも新鮮な気持ちになれるのです。今日は若い世代の2人が来ていて、大いに背中を押されて頑張りました。夕方、彼女たちを車で送りながら工房を後にしました。
    週末 イメージの素描
    三連休の中日です。今日は美大受験生が工房に来ていました。私は土練機を回し、数枚の座布団大のタタラを掌で叩いて作っていました。これは陶彫成形や彫り込み加飾の前段階で行なう肉体労働で、今日は気温が下がっているにも関わらず、シャツを濡らすほど汗を掻きました。こうした作業中に私は作品のイメージが浮かんで、暫し空想に憑かれてしまうのです。これは次作のイメージというわけではなく、さまざまな情景が浮かんでは消えていくのです。紙に描き留めたり、メモをしない自分は記憶の浮き沈みに任せてしまい、そのうちに確かに見えてきたものを次作にエントリーしていくのです。今まで湧いてきたイメージを素描するとすれば、私のイメージには相反するものがあります。ひとつは開かれたイメージで、空漠とした丘陵のところどころに崩壊された建造物が残っている画像です。私が旧作で試みてきた古代遺跡の発掘現場で、「発掘シリーズ」が始まった頃から私に去来するイメージです。もうひとつのイメージは閉鎖された空間に何かが蓄積されたもので、私自身はそれを箱ものと呼んでいます。または限界空間とも呼んでいて、内蔵された造形に、内側へ向う深淵を表してみたい欲求が私にはあるようです。それはトルコで見た石造による地下都市かもしれず、またヨーロッパ各地に点在するカタコンベ(地下墓地)の記憶からきているものかもしれません。カタコンベとは教会地下の通廊の壁に、長方形あるいは上部が半円形の壁龕をつくり、そこに遺体を安置し、煉瓦または大理石板でふさぎ、石灰で密閉したものですが、観光化されたものとしてウィーンのステファン大聖堂のカタコンベが私の記憶に鮮明に刻まれています。そんなイメージが私のどこかに貯蔵されていて、折に触れて頭を過ぎるのです。私のイメージは若い頃に刷り込まれた画像が多く、畢竟するに西欧の文化圏から逃れられないものになっています。陶彫という日本に立脚した技法を使い、西欧の建築要素をテーマにしているところが私の作品の大きな特徴となっていることを改めて感じながら、今日は土練りに汗を流した一日を送りました。
    週末 気温の急激な変化
    週末になりました。今日から三連休が始まりますが、創作活動一本になった現在の私にとって三連休は気分が上がるものではありません。教職に就いていた頃は、連休を利用してどこかへ出かけることもあり、また創作活動を思い切りやれる時間が確保できるものでもありました。今となっては日常の繰り返しで、変化のないものになってしまいました。今日は週末になるので、今週の振り返りをしたいと思います。今週も一日も休むことなく工房に通い続けていました。日曜日に窯入れをした関係で、翌日は窯内の温度確認に工房を訪れました。数日はメンテナンスを終えた窯の様子を逐一見続けていました。照明が使えない中で陶彫の成形も行ないました。今週一番悩まされたのが気温の急激な変化でした。夏のような蒸し暑い気温から一気に降下して冬のような気温になった時は、体調がおかしくなっていました。秋を一気に通り越して冬になったようで、それでも工房では相変らず制作に精を出していました。そんなことで身体に無理がかかりそうだと思っていたところ、飼い猫トラ吉の様子を見ていると、いつもより多めに寝ていてグダグダしていました。人も自然を素直に受け入れるとすれば、こういう温度差が激しい時はグダグダ過ごすのが良いのかもしれません。猫は癒される存在ですが、本能に忠実に生きている彼らから学ぶこともあり、体調がすぐれない時はサボるのが得策かなぁと思っています。とりわけ私は生真面目で、自分の決めた通りに仕事に打ち込んでしまうため、猫の怠け癖を取り入れることも必要と思っていたところ、今週は急激な温度差で咳が出るようになってしまいました。咳き込む私をトラ吉が見ていて、おや、どうしたの?という顔をしていました。
    「藍狂い症候群」について
    「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第5章 黄昏あるいは黎明」の「2 藍狂い症候群」についてまとめます。「仕上げをめぐる論争と並行して、マネ晩年の評価をめぐるいまひとつの争点となったのが、『藍狂い』とユイスマンス(ジョリス=カルル・ユイスマンス)が呼んだ、異様な原色表現だった。~略~マネの『青』を意図的な主管と指弾することによって、『自然への忠実さ、画家の気質を通して見られた自然の一隅』といった自然主義の教条を論破してみせたマンツらに対抗するかのように、ユイスマンスが1880年に主張したのが、擬似生理的・医学的な印象派眼病説であった。意志的な探求の努力が昂じて発生する偏執狂ゆえ、ある画家はすべてを青く、ある画家はすべてを紫に見たのだ、この色盲症状はサルペトリエール病院のシャルコー博士の実験で知られる、ヒステリー患者の色彩感覚が変性するという症例を裏書するものだ、とユイスマンスは主張してみせる。」藝術論争は思わぬ方向へ進展していったようで、印象派が抱える問題の大きさが伺えます。「さらにマネの没年にはすでに、印象主義の賦彩法の欠陥を『科学的』に乗り越えようとするジョルジュ・スーラ(1859-1891)のいわゆる『点描主義』の試みも現れていた。一方では、色彩同時対比の原理に立脚し、対象の発する輻射光線をプリズム上の原色のスペクトルムへと分光し、そうして得られた原色光の物質的等価物たる純色の色彩を、その強度を損なわぬように、混ぜ合わすことなく画面上に併置する。他方ではそうした純色の並列が、距離をとって鑑賞すれば網膜上において視覚的に混合されて再構成が成立するものと見なされる。~略~遅まきながら『新印象主義』の名を授けるのは、ようやく1886年、スーラの畢生の大作、《グランド・ジャッド島の日曜日の午後》が公開される年の事である。」今回はここまでにします。
    「仕上げの彼方へ」について
    「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第5章 黄昏あるいは黎明」の「1 仕上げの彼方へ」についてまとめます。ここではマネの言葉が掲載されています。「愚か者たち。やつらはぼくの出来不出来ばかり言い立てた。だけどこれほどの褒め言葉はなかったのさ。自分自身にたいして同等なものでありつづけることはない、というのがずっとぼくの野心だったのだから。昨日やったことは翌日には繰り返さないってことが。やすみなく新しい局面から霊感を得つづけて、あらたな調子を聴かせるべく努めることがぼくの野心だったのだから。ああ、あのカチンカチンのご不動どもめ。定式を手にしてそこに執着して、それで年金を手にする奴らめ。それがどうして藝術をおもしろくできるだろうか。ねえどうだい。そうじゃなくって、一歩でも前へ決然と進み、なにかを示唆するところある一歩を記すのが、それがオツムのある人間の職務というものだ。1世紀先に生きる連中、連中は幸せなことだろうよ。連中の視覚器官はぼくたちのよりももっと発達していて、もっとよく見えるだろうから。」次に解説が続きます。「ここでマネの目指しているのは、あらかじめ設定可能な予定調和の『完成』状態へと収斂するような出来合いの制作過程そのものを拒絶する態度である。この場合、鑑賞者に要求されるのは、もはや実現された作品と実現されなかった意図との乖離を透視して、両者の落差を埋め合わせるような想像力ではないだろう。むしろ必要なのは、制作の苦心を糊塗する彩薬という『仕上げ』の化粧術の虚妄を剥ぎ取るような想像力であろう。」それでもマネにはゾラの後押しを必要としていたこともありました。「『理想もなく、構想もなく、情動もなく、詩情もなく、デッサンもなく、構成された絵画を作る能力もない』というないない尽くしの連禱はジョセファン・ペラダンがマネ回顧展を見物したあとで公表した罵倒だったが、実はこうした欠如にマネの長所を見出すような価値観の転倒こそ、ゾラがここで記述に縫い込んだ屈曲であり、1884年のこの文章(回顧展序文)が『象徴的な革命』に加担していた所以でもあった。~略~あらゆる規則の不在、アカデミーの教育の無意味、自然主義の勝利、日本人の影響、これらがあきらかにあらゆる束縛から解き放たれた藝術の、楽しげな孵化を決定していたのだ。」今回はここまでにします。