2022.10.25 Tuesday
「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧悌三著 日動出版)を今日から読み始めることにしました。本書はどこで購入したのか忘れてしまっていて、ずっと自宅の書棚にありました。きっと画家鴨居玲の個展会場で購入したものかもしれず、鴨居ワールドに感銘を受けてその生い立ちを知りたくなった自分が即刻読むつもりで買い求めた可能性があります。著者の瀧悌三氏は毎年ギャラリーせいほうに足を運んでくださる美術評論家で、私の個展の寸評を美術系の新聞に書いていただいています。本書は著者をよく存知上げているので、私としては身近に感じている書籍でもあります。さて、鴨居玲は西欧の薫り漂うバタ臭い絵画表現で知られた画家で、57歳で自殺をはかり、昭和60年に他界しています。そんな画家鴨居玲の生涯にはどんなことがあったのか、動機となったものを紐解けば、画家が何を表現しようとしたのかが分かるかもしれません。鴨居ワールドには描かれた対象以外の事物が登場しません。しかも暗く深遠の底を覗くような気持ちにさせられるのです。重厚な人物を描いたものが有名ですが、私が気に入っている作品は教会が宙に浮いたような作品で、人物の登場しない空間だけが広がる荒涼たる絵画です。その世界を画家に描かせた所以も知りたいと思っています。本書の最後に著者の付記があり、こんなことが書かれていました。「鴨居玲は、いかに絵を描くか以上にいかに生きるかに命を賭けたような処がある。そこが並みの画家と生き方が違い、絵も自己告白体で通し、いわゆる華美をひけらかす絵らしい絵は描かなかった。本稿は、その所以を明らかにするための一つの試みと言ってもよく、今後現れるであろう鴨居玲論や鴨居玲研究の手がかりなり資料なりになれば、私としては幸いと思っている。」私にとって興味深い画家の生涯を通して、多少でも自らの創作活動の糧を得られればよいと考えています。じっくり読み込んでいきたいと思います。
2022.10.24 Monday
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)を漸く読み終えました。ルネサンス以降、ヨーロッパの画家は神話や歴史をテーマにした壮大で緻密な具象絵画を描き続けてきました。そこに描かれた人体は理想的なバランスを持ち、背景となる風景にも完璧な陰影が施されていました。そうしたアカデミックな絵画表現は19世紀末までサロンを中心に伝統を継承してきましたが、印象派が登場したことで価値転換が図られました。これは私が知る概略の近代絵画史ですが、そこには保守派と革新派との鍔迫り合いがあって、価値転換は容易でなかったことが本書を通じて理解できました。本書の最後に「本書の構想についての自註」があってこんな書き出しがありました。「本書は19世紀後半のフランス絵画を中心にして、従来の通説のいくつかを塗り替えるーというよりは、そうした通説を支えてきた水面下の、いわば舞台裏の事情を検証しようとする試みの一端として構想された。」内容としては「印象派をはじめとする前衛の画家たちが、アカデミーの旧守派にたいする闘争で勝利を収めてゆく道程として19世紀後半のフランス美術の大筋を描く従来の図式は、はたしてどこまで妥当するのか、この点を検証するためには、19世紀後半の『近代絵画史』の分水嶺とも見なされてきた、エドゥアール・マネをめぐる、あのあまりにも人口に膾炙したスキャンダルを再検討することが必要だろう。」ということが本書全体を通して論考されていたもので、時代の移行によって美的価値基準が変わってゆくとは、つまりこういうことなのだろうと察しました。私は一読者として論考の表面しか把握できませんが、研究者としては埋没した歴史のリアルをひとつずつ解き証し、真実に迫ることがその本領なのでしょう。それによって美術史はその都度塗り替えられていくものだと理解しています。本書に限らずさまざまな研究書を紐解く度に、その著述に隠された労苦を思わずにはいられません。生命を磨り減らす作業に頭が下がります。
2022.10.23 Sunday
週末は1週間の振り返りを行なっていますが、昨日は美大の芸術祭を訪ねたことに誌面を割いてしまったので、今日のNOTE(ブログ)で振り返りを行ないます。先週の日曜日から金曜日まで毎日工房に通い、陶彫制作を継続していました。新作を只管生み出していくことが自分の生涯目標でもあるので、朝から夕方まで工房に籠っていたのでした。火曜日には栃木県益子より陶土800kgが届きました。これでまた1年間は陶土に不自由することなく創作活動に邁進できます。水曜日の夕方に車を運転中にエンジンの警告灯が点灯し、慌てて翌日朝にディーラーに車を持って行きました。点検をしてもらった結果、部品に損傷はなくカーボンの汚れが付着していることが判明し、洗浄をして車を返してもらいました。とりあえずホッと胸を撫で下ろしました。私は近隣のスポーツ施設に水泳に出かけるのも、家内と買い物に出かけるのも常に車を使用しているので、車のない生活がまだ考えられずにいます。年齢的にはまだ大丈夫と思っているのですが、そのうち自分の体調も考慮しなければならない時期がやってくると自覚しています。昨日出かけた美大の芸術祭も若い世代の子を2人車に乗せていました。車は便利ではありますが、一つ間違えば大事故に繋がることを肝に銘じなければなりません。さて、今日は最近工房で木彫作品を作り、二科展に出品している後輩の彫刻家が、野外工房を使って作品の写真撮影をしたいと言ってきました。彼も私の図録撮影を手伝ってきたので、懇意にしている2人のカメラマンと顔馴染みになっていて、相原工房での撮影は2回目になります。彼の木彫は周囲の緑によく映えて、美しい陰影を齎せてくれます。今日は天気が良かったので、なおさら爽やかな画像が撮れたようでした。私の場合でもNOTE(ブログ)に度々書いてきましたが、彫刻作品にとってデジタル処理はとても重要です。作品を人に見せる時は、彫刻は組立てに手間がかかるので、デジタル化した画像で見せるのが良い方法と思っています。光と影の演出も立体作品ならではの有効性もあります。プロの写真家にお願いするのは、自分以外の感覚を画像に入れることで、自分では気づかない作品の角度に刺激をもらえるためです。作品は協力者がいて輝きを増すという私のコンセプトを彼も引き継いでいるようです。
2022.10.22 Saturday
週末になりました。週末になると相原工房には、女子美術大学工芸学科の学生がやってきます。彼女の案内で今日は久しぶりに対面で開催された女子美祭へ行って来ました。新型コロナウイルス感染症の影響で大学の芸術祭にお邪魔するのは3年ぶりです。学生作品の展示風景を見ていると、数年前まで芸術祭によく出かけていた雰囲気が甦ってきました。当然学生が制作した作品なので、実力部分としての不満もありますが、伸びしろを感じさせてくれる作品もあって、若い息吹としては良い刺激をもらえます。研鑽を積んでいる作品は自ずと分かってきて、悩みや苦しみも表現に置き換えているんだろうなぁと思います。今回は日本画専攻の学生作品に研鑽の痕跡が多く見られました。以前、美大の芸術祭を見て幾度となく書いてきたことですが、学生は在籍する4年間は施設や指導者、仲間たちに囲まれて、自己表現の追求を誰に遠慮することもなくやっています。その4年間は素晴らしい環境が当たり前になっていて、その中で自己発見をするための悩みを抱えているのです。ずっと後になって、それが生涯最高の時間だったことに気づきます。社会に出れば、民間企業だろうが教育機関だろうが、人のため、社会のために力を尽くしていくことを余儀なくされるのです。創作活動で食べられる人は、一部例外を除いては、ほとんどいないと言えます。この美大生の中で、どのくらいの学生が自分を見失わずに将来も自己表現活動を継続していけるのか、年度によっては皆無であることもあろうかと思います。自己表現をしたいがために自分で環境を用意するのが良いと考えますが、美大に関してはそんな考えが固まらないうちに素晴らしい環境を用意してくれて、自己表現を育んでいくように仕向けています。温床で育った学生たちには、卒業後に試練が待っていて、そこで篩いにかけられるのです。私も同じ経験をしてきました。私の場合は、学生時代に自己表現が上手くいかず、やり残したことが多すぎて諦めきれなかったというのが本音です。今日は女子美祭に行って、久しぶりにこんな感想を持ちました。
2022.10.21 Friday
「絵画の黄昏ーエドゥアール・マネの闘争ー」(稲賀繁美著 名古屋大学出版会)は副題を「エドゥアール・マネ没後の闘争」としています。その「第6章 美術行政と美術制度の刷新」の「4 オルセー美術館へ」についてまとめます。私が渡欧した1980年にはオルセー美術館はまだありませんでした。巨大なオルセー駅の廃墟が放置されていて、工事用囲いの隙間から建設中らしい何かが見えていました。マネの絵画は印象派美術館に展示してあって、私はそこで初めて本物のマネの絵画を見たのでした。「マネの列神式とそれによって発生した文化状況を、先にも触れたフランスの社会学者ピエール・ブルデューの提唱に従って『象徴的な次元における革命』と名付けることも可能だろう。だが、むしろここで問題となっているのは『象徴革命』是か非か、という問い以前に、件の『象徴革命』なるものを『歴史的事実』として認知する陣営に立つか、それともそうした認識そのものが歴史認識上の『誤謬』であるとして、断固これを否認するかの分別に直に拘わる判断そのものの是非となるのではあるまいか。~略~1884年の『象徴革命』とそれに引き続く『眼の教育』は、この時代を記録すべくそれから百年を経て開設に漕ぎ着けたオルセー美術館という公共文化施設の根幹をなす運営方針の是非を問う根拠、ではなくてその根拠そのものに関する判断基準を左右しかねない視覚範疇ーつまり政治的舞台で可能な選択肢(前衛か否か、それとも折衷か、など)をあらかじめ枠づける舞台設定の限界そのもののーを舞台裏から人知れず規定する、いわば不可視の『規則』として、問題に決着をつける可能性それ自体を前以って回避させながら、それだけいっそう目立たずしかし執拗に機能しつづけ、『藝術の首都』パリの『栄光』をいや増しに高める”犯罪的”作業に密かに貢献し、また入館者をいやおうなくその『共犯者』として貢献させるように仕向けている。」つまりオルセー美術館とはそういう歴史を踏まえた美術館なのだと著者は言っているようです。次回は本書の読後感に入りますが、込み入った文章が時として意味全体の把握を難しくしているように私には思えました。漸く読み終えてホッとしています。