Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 「高村光太郎と近代彫刻」のまとめ①
    「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の次の単元は、私の注目ポイントであり、本書を読む前に高村光太郎関連の書籍や荻原守衛の「彫刻真髄」を学生時代に読んでいたので、このあたりの概観は掴んでいました。その確認も込めて「2 高村光太郎と近代彫刻」をじっくり読んでいきます。気が逸る中で、敢えて本単元を前・中・後半に分けてまとめます。「光太郎が《考える人》の写真を見て感動していた頃、この写真を写したと考えられるパリの展覧会場でこの作品を直接眺めて深く心を打たれた人物がいた。後にこれが契機となって、最初志していた画家から彫刻の道に転じた荻原守衛であった。」私はこれを日本の近代彫刻の出発と考えていて、これをドラマティックな映像表現にならないものか、誰か映画に仕立てて欲しいと勝手に願っていたものでした。「一般に絵画も彫刻も一纏にして造形芸術として括られてしまう場合が多い。だが絵画と彫刻のそれぞれに関わる、われわれの感覚は、実は本質的に異なるものである。つまり絵画は視覚の芸術であるのに対して、18世紀のヘルダーの『彫塑論』以来言われてきているように、彫刻は根源的に触覚に関わる芸術だということである。」やがて日本に彫刻の概念が導入されてきます。「彫り刻むということをもって『彫刻』と考えていた当時の彫刻学科の生徒たちがまず当惑したのは、洋風彫刻を習得するための基礎として学ばされた油土と石膏というまったく新しい彫刻材料を用いての造像であった。これらの素材の新奇性もさることながら、当時の日本ではこれらの材料を調達すること自体きわめて難しい状況にあった。~略~ミケランジェロでは『彫刻』がその作品の主たるものであったのに対して、ロダンの作品の主なるものは『塑造』から出ている。『彫塑』という芸術に固有な手触りの感覚は、塑造作品においてより強く印象づけられるであろう。ミケランジェロ以後、アカデミーの伝統のうちに見失われていったのは、ロダンによって蘇ったこの根源的な触覚の表現だったといえるのではなかろうか。」荻原守衛と高村光太郎の、巨匠ロダンを巡る奇跡の出会いに感嘆するのは私ばかりではないはずです。「荻原守衛はその当初画家として芸術の道を志した。高村光太郎は仏師という伝統的な木彫の技術の継承者の家に生まれている。従来のアカデミズムという物差しでロダンを測るならば、いわゆる古典主義の規範から逸脱した極端なポーズや見た目には粗悪に見える仕上げなどから奇矯な作家というほかなかろう。だが荻原は絵画的なものとの違いに気づくことから、高村は鑿と小刀を振るって巧緻の限りを尽くした彫り物と対照的なロダンの塑造との違いに眼差しを凝らすことから、ロダンが近代において再生を目論んだ彫刻の何たるかをたちどころに悟ることができたのではなかろうか。」今回はここまでにします。
    週末 作業意欲を維持する工夫
    7月個展に出品する作品が完成し、現在それらを梱包する作業に追われています。これは創作活動ではないため、作業意欲が今ひとつ起こらず、平坦な道をただ歩いているような錯覚に陥ります。創作活動は困難と思われる上り坂をどう攻略するかを常に考えながら、達成された時のイメージを持ちつつ制作を続けているため、意欲が沸々と湧いてくるのです。陶彫部品を収めるための木箱作りは、昨年も一昨年も同じで、段取りを思い出しながら製作をしているため、やはり退屈さを覚えてしまいます。梱包をやらなければならないのは重々承知していますが、何か工夫が必要だなぁと思いました。そこで随分前から取り組んでいた来年発表する陶彫の新作にまた手を入れ始めました。午前中は梱包作業をやって、午後は新作に取り組み出すと、気持ちが次第に落ち着いてきました。もう来年に向けて走り出した方が調子が良くなるのかもしれません。来年の新作に関するコンセプトは決まっています。それは別の機会に説明させていただきますが、一時は今年発表する作品と同時進行をしていました。今年の作品の図録用写真撮影日が近づくにつれて、来年の作品は後回しにしてしまいました。今日から再度来年の作品に取り掛かることにしました。自分の中では脈々と続く創造世界があって、一貫した思考の下で制作が続いていく感覚があります。そんな中で歩みを止めることが出来ないと実感しました。次作のイメージは突如降って湧くものではなく、継続する造形思考の深まりの中で降ってくるものです。それを展開と呼ぶのが相応しいのか、または発展なのかはよく分かりませんが、自分の中ではずっと続いていく道なのです。明日から梱包作業と同時進行で新作に取り組んでいこうと決めました。
    週末 梱包用木箱を作り始める
    週末になりました。今週を振り返ると7月個展に向けた準備として作品の梱包を始めました。木工土台のビニールシートによる梱包は大体終わったので、これからは陶彫部品を収める木箱を作り始めることにします。ビニールシートへの貼り付けもそうですが、陶彫部品を包むのにもエアキャップが必要で、量販店から大きなロールを3束購入してきました。エアキャップは油絵の具の塗装面や陶彫部品の破損を防ぐためのクッションの役目をするので、相当な量が必要です。木箱を作るためのベニア板も垂木も充分揃えたつもりでも毎年足りなくなります。まぁ、大量に購入して在庫をしてしまうのも倉庫の場所をとってしまうので、梱包の具合を見ながら建材店や量販店に頻繁に通うことになるのです。梱包にこれほど気を使っている彫刻家は私以外にいないように思います。梱包は創作活動に比べれば退屈な作業ですが、長く作品を保存をするとなればこれは大切な作業です。私の作品が早々に売れていかないので、なかなか辛い気分にもなります。今日は工房に美大生がやってきて自らの課題をやっていました。週末は教え子が来るというのが習慣になっています。彼女は染織専攻ですが、自分で日本美術の琳派の研究を始めるようで、琳派文様が自らの専攻に生かせるといいのかなぁと思いました。俵屋宗達や尾形光琳のことを彼女と話せるのが、退屈な梱包作業の一服の楽しみになっていました。私自身も20年以上前に、ウィーンでG・クリムトの絵画を見た時、尾形光琳の「紅白梅図屏風」の中央に描いてある川の流れの表現を見て、クリムトの装飾文様と交差して、一つの画面の中で立体と平面が織り成す不思議さに心打たれました。そんなことを思い出した一幕でした。
    「『緑色の太陽』から」のまとめ
    「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)は、今日から「第二部 芸術論の展開」に入ります。その最初の単元である「1『緑色の太陽』から」をまとめます。明治43年の雑誌「スバル」に、詩人で彫刻家である高村光太郎は「緑色の太陽」と題する一文を寄せていて、その内容の革新性を中心にした論考が展開されています。「光太郎の『緑色の太陽』の主張は、それまでの明治の洋画檀のリアリズム表現から一転して、芸術家自身の個性の表現に絶対の価値を求める、新しい世代の芸術運動の先駆けと見なすことができよう。」ヨーロッパから印象派や印象派以後の動向が伝えられて、それを日本の画壇がどう受け止めていたのか、本書では細かな状況が書かれていました。「光太郎が『緑色の太陽』を書いた時点では、まだ『後期印象派』どころか『後印象派』という言葉も存在していない。さらに言えば、『表現主義』という観念はもっと遅れて成立してきたものである。にもかかわらず、光太郎の『緑色の太陽』は、すでにこれらの観念を先取りしているように見受けられる。この光太郎の芸術家らしい直観的把握の大胆さに比べると、柳(宗悦)の『後印象派』の解釈は、セザンヌについても『内面の気息の表象』という、『白樺』の同人たちに共通する文学的な人道主義的解釈とそれほど隔たるものではない。ここに光太郎の『緑色の太陽』が、日本美術の近代を画する論考と見なされる所以があるように思われる。」やがてフランスから帰朝した黒田清輝の絵画は外光派と呼ばれ、次のような解説をしています。「一見して分かる新派と旧派の違いは、色使いの明るさと暗さにある。その違いはそもそもどこから来るのかといえば、旧派が『ものの形を書くと云ふ丈け』であったのに対して、新派は『ものの感じ方を書く』ようになったからであり、『これが時勢と云ふものでしょう』と、黒田は語っている。」その他さまざまな時流の中で、日本も右往左往しながら近代西洋絵画の咀嚼に努めていました。「高村光太郎の『緑色の太陽』はもはや『印象派宣言』とか、『後期印象派宣言』、あるいは『ポスト印象派宣言』といった言い方で簡単に総括することは出来ない。『緑色の太陽』は、それこそ国際的にモダン・アートの文脈が形成されつつあった微妙な時期に登場し、『芸術』という普遍的な視野でその近代性を主張した画期的な評論であったと言わねばならない。またこの評論はそこから遡って、日本における印象派とは何であったかを、改めて問い直し、検証するための重要な指標の役割を果たすものだとも言えるであろう。」今回はここまでにします。
    「會津八一の美学」のまとめ
    「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)は第一部と第二部の間にインターメッツオ(間奏曲)という洒落た章を設けています。そこで論じられているのが「會津八一の美学」です。私は會津八一は歌人として知っていましたが、美学・芸術学の先駆者の一人として存在感を示していたことをここで知りました。「近代の科学的な合理主義は、ひたすら生産の分業化と専門化を推し進めてきた。それは社会の組織、あるいは制度、そしてさらには学問そのものにも及んだのである。つまりこの狭い専門分化による非人間的な在り方を排して、全体としての人間性の完成に向かうべきであるというのが、會津の主張であり、そこにまた自らも万能人たらんことを目指した會津の原形、あるいは面目を見ることができるように思われる。」ドイツ古典主義の理想をカントを受け継ぐ形で展開したのはシラーで、その理論に合わせて會津も理念を説いています。「シラーは人間性の理想を、古代ギリシャ人を具体例として、肉体と精神のいずれにも偏らない調和的な人間の在り方に求め、これを『美しき魂』と呼んでいる。洋の東西の違いはあるが、同じく孔子は、自らが学問を志して以来、ようやく到達した人間としての自らの在り方を、同じく次のように語ったものである。『心の欲するままに従いて矩を踰えず』と。」シラーの美学は美的倫理主義、または美的道徳主義と呼ばれ、「これが、シラーのいわゆる『人間の美的教育』である。それは一言で言えば芸術教育、つまり素晴らしい芸術を観て感動する心のトレーニング、それが人間として美しく振る舞う心を養うのだということである。実は會津もまた、自分の弟子たちに盛んに『趣味の修養』を説いているのである。」奈良の古寺で見た仏像に古代ギリシャの影響を認めたのはフェノロサでしたが、和辻哲郎も「古寺巡礼」の中で、仏像をギリシャ彫刻に匹敵する傑作と評価しています。「この古都に対するわれわれの意識を最初に、宗教的礼拝から美の礼拝へと導いた、あるいはより人間的な美の世界へと開いたのが、和辻哲郎の『古寺巡礼』だったと考えられるのである。そしてこの『廃都』を、日本人の永遠の憧れの都として、自らの芸術を通じて究極の理想化を試みたのが、會津八一の『鹿鳴集』の絶唱ではなかったであろうか。~略~會津が奈良や飛鳥の古い仏たちに求めたものは、フォルムの美しさを超えた内面の精神の美にあったのである。和辻が『美しい様式』を賛美したとすれば、會津が評価したのは『崇高な様式』であったということができよう。」