2022.05.19 Thursday
「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)は二部構成になっていて、第一部「美学と美術史」と第二部「芸術論の展開」があります。その間にインターメッツォ(間奏曲)が挟んであり、會津八一の美学について論じられている章がありました。まず第一部「美学と美術史」は岡倉天心と森鴎外の美学を扱っていて、5つの単元に分かれていました。今回は「1 岡倉天心の芸術思想」についてまとめますが、内容が大きく芸術思想の根幹を成すため、前後半に分けてまとめることにしました。まず明治時代の美術界について触れた箇所を引用いたします。「幕末の動乱から明治初期にかけては、天心のいうように『破壊的な傾向』を帯びた時期であり、とくに当初、神道立国を目指した新政府の方針により『廃仏毀釈』の風潮が起こり、伝統的美術品は軽視され、大きな損害をこうむったのだった。」それに比べて文明開化の象徴と言われた油絵は大いに流行したようです。「さて明治初期洋風画の先覚者であった川上冬崖や高橋由一が、最初に西洋画に惹かれたのは、『逼真』つまり日本美術の伝統にはなかった迫真的な技術であった。日本において西洋画はまず美術、あるいは芸術としてよりも、水彩や油彩を用い、遠近法や明暗法を駆使して自然そっくりに写し取る科学技術として受容されたのであった。」そんな風潮に対しフェノロサが、そもそも美術とは何かを提唱しています。「すなわち美術を美術たらしめるのは、この『妙想』であり、美術と非美術を区別する基準は、作画に際しての『妙想』のあるなしに掛かっているのである。フェノロサは工部美術学校の洋風美術教育に基づく写実主義は、美術と科学を混同した『理学ノ一派』にすぎないのだと非難している。」ここでいう妙想とは何でしょうか。フェノロサは全体の有機的統一のことを言っているようです。そのままの文章を引用いたします。「各分子互ニ内面ノ関係ヲ保チ、終始相依テ常ニ完全唯一ノ感覚ヲ生ズルモノ之ヲ美術ノ妙想ト謂フ」岡倉天心やフェノロサが提唱している事柄は、現在では美術の通常の考え方になっていますが、通常の考え方になるまでの行程がいろいろあったようで、これは後半部分にも登場してきます。
2022.05.18 Wednesday
私の作品は陶彫による部品を複数配置する集合彫刻ですが、その配置を支える支持体は、厚板材を加工したものに砂マチエールを貼りつけています。そこに油絵の具を滲み込ませ、さらに絵の具を振り撒いたり、滴らせたりする技法を使った平面的処理を施しています。これはタシスムという絵画技法で、決して新しいものではなく1950年代アンフォルメル絵画が隆盛の頃に流行りました。タシスムとはフランス語で「染み、汚れ」を意味する「タッシュ」に由来します。これはオートマティスムの系譜に入るもので、無意識の無媒介的なところを絵画に取り入れたものと言えるでしょう。アメリカの画家のジャクソン・ポロックの創りだしたアクション・ペインティングがその顕著な例です。私の場合は、彫刻を作っている意識の中に、絵画性を取り入れ、立体と平面双方から自らの世界を創り出したいと考えていて、タシスム(染み)の効果を利用することにしたのです。絵画史を見れば、絵を描く行為は人類が洞窟に絵や文様を描き出した古代から続いていて、西欧では宗教の視覚化に成功した中世絵画や、遠近法を発明し写実性を求めた近代絵画、さらにリアルな現実の追求により、眼に見える情景を求めて画布を外へ持ち出した印象派、色彩と構成を自立させたキュビズムや抽象絵画に至っては、絵画を単なる視覚伝達のものではなく、造形理論に裏打ちされた思考する媒体に変えてきました。彫刻も絵画と同じ歩みが認められますが、やはり絵画の牽引力には及ばないと私は思っています。私が絵画性を求めるのには、自分がイメージする全てのものが絵画表現には内蔵されているような気がしているからです。平面表現に思索や哲学を投影する絵画には、現代にあってもまだまだ表現を模索しうる余地が残っているように思っています。
2022.05.17 Tuesday
私たちが日常使っている「美術」というコトバや、その根拠となる「美学」とは一体何でしょうか。そのコトバはいつから日本にやってきて、その曙期にはどんな摩擦が生じたのでしょうか。私はそれらを把握し、深く理解したいと思い、「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)を読むことにしました。本書は自宅の書棚に眠っていたもので、いつ頃手に入れたものか忘れてしまいましたが、我が国の近代を知る上で重要なものだろうと思っています。「序文」にこんな文章がありました。「『美学』という学問が定着するには、そのための出会いの場、あるいはそのための舞台というべきものが用意されなければならなかった。その一つが、明治十五年、龍池会で行われたフェノロサの一場の講演『美術真説』であった。文学の世界でこれに対応するものを探すとすれば、坪内逍遥の『小説神髄』がこれに当たるのではなかろうか。『修辞及華文』にしろ『維氏美学』にしろ、これらは当時の停滞したままの日本の芸術や文化の実状をまるで無視した、上からのお仕着せの啓蒙主義でしかなかった。それに対して『美術真説』や『小説神髄』が大きな反響をもって受け入れられたのは、東西の芸術の違いを取り上げて比較するという、現実に即した目配りがあったればこそであろう。」明治時代の文明開化で一旦は忘却された日本の文化財、そこに警鐘を鳴らしたのは思想家岡倉天心でした。「文明開化という言葉に踊らされて、西洋かぶれしてしまった日本人の手からいったん離れた文化財が、ここで装いを改めて帰ってきたのである。すなわち『書画骨董』改め、『美術』という名前をもってである。この『書画骨董』を『美術』に変える仕掛けが『美学』に他ならない。この困難な仕事を最初に手がけたのが、岡倉天心であり、その成果が、東京美術学校で講じた『日本美術史』から始まった、天心の数々の著述や講演であったのである。」言うなれば「美学」も「美術」も西洋の概念であり、明治時代に日本の文化財も含めて、その概念によって現代のものが形作られてきたのでした。「まずは『美学』という、西欧の『人文学』が明治期という日本近代において、どのように受け止められ咀嚼されてきたか、またそこに自らの固有の美意識をどのように反映させようとしてきたのかを、もう一度反省してみる必要があろう。」本書はこの文章が美学への導入になっています。
2022.05.16 Monday
先日、家内と神奈川県立近代美術館葉山で開催している「朝倉摂」展に行ってきました。「生誕100年」と副題にあったので、ご存命であれば100歳になっているはずです。ただ、作家は91歳まで生き、長寿を全うされていました。朝倉摂は舞台美術家として名を馳せていたので、私にとって初期の頃の絵画は初めて見るものばかりで、舞台における圧倒的な視覚表現以前に、こんな社会性のある絵画表現をやっていたことに驚きました。舞台美術家として充実期を迎えていた朝倉摂に、大学生であった家内は会っていて、その迫力に忘れられない印象を残しているらしく、今回の展覧会鑑賞に繋がったのでした。私は日本画やそれに続く象徴的な表現に一貫するデッサン力に感心しました。図録にこんな文章がありました。「『日本画』の『デッサン』が『甚だあいまいであり貧弱のもの』と批判し、『タブローを作りうるための一大要素であるデッサンの本当の意味は、コンストラクションの追求と正しきフォルム(画面に漫然と形を描く事ではなくその内在する所)の把握に外ならないのであります』と日本画の枠をこえてデッサンの重要性を強調している。自信漲る若き画家のマニフェストというべき文章であろう。そこには、恵まれた環境に育ち、父親の彫刻家としての創作から学んだデッサンという基盤が備わっていた。それは正確に量感を捉える空間感覚に秀でた彫刻家的ともいえるデッサン力であった。そこから出発したからこそ朝倉摂が、日本画と油彩画というジャンル意識を軽々と越えることができたのである。」(水沢勉著)さらに展示内容は、絵画から舞台美術に表現を移して、さまざまな人と関わる総合芸術に向っていきます。「私より大分年長だったが、朝倉さんはたとえて言えば水、それも軟水ではないさまざまな有機物を含む硬水のような存在で、年長であることは愚か、女性であることすら感じさせない、濁りのないジェンダーレスのような人だった。私が台東区の谷中に住んでいた頃、すぐ近くに摂さんの父上、高名な彫刻家朝倉文夫邸があって、ヨーロッパの貴族でも住んでいるかのようなその重厚な門構えが、権威と無縁な摂さんの人となりにそぐわない気がして、当時どちらかと言えばいわゆる左寄りの思想を持っていた摂さんには、この家から出ることが必要だったんだろうなと、私は勝手に納得していた。」(谷川俊太郎著)社会的なテーマを内在した絵画から、社会的な提言をする演劇への表現の変遷は、よく理解できました。そうした風潮とは別に、舞台が流麗さと大胆さを帯びていくのは晩年の作家の真骨頂ではないかと思えました。
2022.05.15 Sunday
相原工房は、私が自らの彫刻制作の場として建てたもので、自宅から少々離れた植木畑の中にあります。亡父が造園業を生業にしていたため、その畑を私が受け継ぎました。工房は鉄筋平屋建てですが、ロフトがあり、天井には荷物をロフトに上げるためのリフトがあります。床はコンクリート造りで窯が設置してあります。作業台がいくつかあり、トイレと水場も完備していて、陶彫制作のための環境を整えてあります。工房は賃貸料を取って貸すことはしていません。週末には私の教え子でアートに関わっている人たちが出入りしているので、以前は貸し工房と誤解をされたこともありました。教え子は高3の美大受験生から、現在美大に在籍している学生、さらに社会人に至るまで年齢には幅があります。美大や芸大を卒業して工房を必要としなくなる人たちもいて、工房にやってくる人たちは、その時によって人が変わります。その人たちは、たとえば私の図録用の写真撮影や個展の搬入搬出を手伝ってくれていて、その時は有能なスタッフとして働いてくれます。制作でも必要とならば砂マチエール施工の手伝い等をしてくれます。普段はそれぞれの課題をやっていますが、同じ空間で過ごすために、私は彼らから背中を押されるように制作に励んでいるのです。最近工房にやってきた後輩の木彫家は、ほとんど休みなく木材を彫っていて、そのバイタリティに圧倒されます。彼は勤務していた学校に置いてあった旧作を、工房のロフトに運び込んできたので、当分は工房を使うことになりそうです。とりわけ彫刻制作は、場所の問題に悩まされることが多く、大学を卒業しても制作が継続できない現実があります。学生時代は優秀な作品を作っていても、場所の問題で創作活動を諦めざるを得ない人がいるのも確かです。人によっては地方に住んで、制作場所の獲得に努める人もいますが、首都圏から離れてしまうとアート情報が入り難いこともあります。幸い相原工房は横浜にあるため、利便性も手伝って、創作活動を展開する場としてはなかなかいいのではないかと自負しています。