Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 4月を振り返って…
    週末になりました。NOTE(ブログ)で恒例になっている今週の振り返りと、今日が4月の最終日なので、今月の振り返りも合わせて書いていきます。今週も相変わらず毎日工房に通っていました。新作の砂マチエール施工もやっていましたが、主な作業は「発掘~崩層~」の土台を成す三層目の厚板刳り貫き作業でした。朝から夕方まで制作をやっていると、一気呵成には作れない彫刻制作の特性を今更ながら感じてしまいます。前にもNOTE(ブログ)に書いていますが、彫刻は労働の蓄積で、日々の地道な作業が効果を生むと自覚しています。今週はそんなコツコツした作業に費やした一週間でした。今月は30日間ありましたが、そのうち28日間を工房に通って制作に充てていました。工房に行っていない2日間は美術館や博物館へ鑑賞に出かけた日でした。一日目は「メトロポリタン美術館展」(国立新美術館)、「ミロ展」(Bunkamuraザ・ミュージアム)に出かけた日、もう一日は「空也上人と六波羅蜜寺」展(東京国立博物館)に出かけました。その他では元同僚による刺し子作品展(横浜エリスマン邸)に出かけましたが、その日は午前中工房で制作をしていました。今月は展覧会だけの鑑賞に限られ、映画館や劇場へは足を運びませんでした。新型コロナウイルス感染症の影響が今も私には重く圧し掛かっていて、どこに出かけるにも心配が尽きないのです。自宅と工房を行き来していることだけが、感染の不安を取り除いてくれるので、勢い制作を頑張ってしまう結果になっているのだと思います。日々1点ずつ制作をしているRECORDは、悪癖が出てしまい、制作が滞っています。下書きが山積みになっている状態で、これを何とかしようと思っているところです。これを仕上げるにはまとまった時間が必要かもしれません。読書は「ウィーン工房」に関する書籍を読んでいて、嘗てウィーンに滞在したことのある自分にしてみれば、興味関心の尽きない内容になっています。滞欧中に現地で購入した関連書籍もありますが、ドイツ語を読むには困難なので、今回の日本語による論文が大変有難かったことがあり、また初めて知った内容もあって、願わくばもう一度ウィーンに行きたいと思っているこの頃です。
    昭和の日 GWをどう過ごす?
    今日は「昭和の日」で、今日からゴールデンウィークが始まりました。昨年は新型コロナウイルス感染症の影響で、ゴールデンウィークはどこにも出かけず、創作活動だけをやっていました。昨年から創作活動1本になったこともあって、制作に集中していたことを思い出します。今年も新型コロナウイルス感染症が高止まりをしていて、決して予断を許さない状況であるのは変わらないので、毎日制作をやっているのかなぁと思っています。「昭和の日」とは何でしょうか。私が生まれた頃には昭和天皇の誕生日として今日を認識していました。元号が平成に変わる時に「みどりの日」となり、やがて「昭和の日」となりました。今日は工房に据えてあるラジオから昭和歌謡が一日中流れていて、私には馴染み深い音楽ばかりだったので、気分が上がりました。教職に就いていた頃に、ゴールデンウィークを利用して、友人たちが出展している栃木県益子の陶器市や茨城県笠間の陶炎祭に出かけていました。校長職になってから行かなくなってしまいましたが、校長を7年間もやっていたので、もう長いこと陶器市や陶炎祭には行っていないことになります。このあたりで制作が追い込みに入る時期になり、創作活動一本になってもなかなか時間が空けられないというのが実感です。今日も新作の土台加工に終始しました。考えてみれば、二足の草鞋生活の時はゴールデンウィークと聞いただけで気分が高揚し、制作目標を立てて作業を頑張っていました。その気持ちは今も残っていて、ゴールデンウィーク期間中は頑張ろうと思っていますが、今は毎日がゴールデンウィークのようなもので、休みの実感は薄れています。それでも刳り貫き作業はこの期間中に終わらせようという目標だけは立てていて、今日も7時間ほど工房に籠っていました。明日も継続です。
    「第一次世界大戦下の活動」のまとめ②
    「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第六章 第一次世界大戦下の活動」の後半部分をまとめます。ここではデザイン教育について取り上げています。「女性メンバーに共通する明るさ、軽快さ、優美さを伴う装飾的作風の原点には、クンストゲヴェルベシューレにおけるホフマンとフランツ・チゼックのデザイン教育があったと考えられる。~略~クラスの特性は、ホフマンの建築教育思想に基づいていた。ホフマンにとり、室内空間に関わる応用芸術は、建築家が学ぶべき領域のひとつであった。建築家は技術的な必要条件のみならず、洗練された趣味や環境と現象のリズムに対する感覚を表現すべきであり、それゆえ現代の建築学校はさまざまな応用芸術の分野から切り離されてはならないというのが、ホフマンの主張であった。~略~『装飾形態学』の授業は、『感覚のリズム化の訓練』を主軸とした。チゼックは、装飾は個人の内面のリズムと法則を表現する必要があるとの考えから、授業では生徒たちの感性を表出させることを重視した。クンストゲヴェルベシューレでの彼の教育活動は、第一次世界大戦を境に二つの時期に区分される。前半期の1910年代の教育の特徴は、自然のモティーフの装飾的転換であった。チゼックは自然模倣に偏重した芸術に批判的であり、生徒たちに、身近な単純な模写ではなく象徴化が可能となり、その後、生徒たちが想像力による単純化や変形を繰り返すことで新たな装飾が生まれるとされた。」このような教授たちによって教育された女性デザイナーは、戦時中もウィーン工房を支え、オーストリア国家もその活動に協力をする存在になっていったのでした。「第一次世界大戦末期、国家宣伝材料となった工芸品の『オーストリアらしさ』の基盤を形成したのは、ホフマンの新古典主義、ペッヒェのネオ・バロックのデザインに加え、女性たちの柔軟かつ直観的な装飾感覚であったといえる。『国家的』とされたデザインは、彼女たちの創作の源泉となったバロック、ロココ、ビーダーマイヤー、および自然表現や同時代の前衛芸術の要素が混在しており、一元的なナショナリズムとは程遠いものであった。」今回はここまでにします。
    「第一次世界大戦下の活動」のまとめ①
    「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第六章 第一次世界大戦下の活動」の前半部分をまとめます。第一次世界大戦が勃発し、ウィーン工房の経営がどうなったのか、本章のテーマになっています。「ウィーン工房は自社の特徴である装飾的デザインを維持したまま戦時を乗り切った。素材、人材、販路が制限された戦時下もウィーン工房が存続できた要因として、以下の二点が挙げられる。すなわち、男性不在の製作陣を支える有能な女性デザイナーの存在および体外的プロパガンダと外貨獲得のため、ウィーン工房のもつブランド・イメージを利用したい国家との結びつきである。」女性デザイナーのおかげで存続ができたと言えます。「1920年代、ウィーン工房では女性メンバーが主力製品のデザインに従事し、男性メンバーと同等に重要な役割を担った。これは、男性中心であった他の同時代のデザイン団体には見られないウィーン工房の大きな特徴であり、こうした女性メンバーの活躍の基盤は、男性メンバーが減少した第一次世界大戦中に形成された。~略~ウィーン工房では1910年代以降、1910年頃開設のテキスタイル部門、1911年開設のモード部門を中心に女性メンバーの活躍の場が広がっていた。そして、それらを超える重要な創作拠点となったのが芸術家工房である。ここでは女性が構成員の過半数を占め、1920年には23名中、19名が女性であった。」代表として4名のデザイナーが挙げられていますが、まずフェリーツェ・リックス。「リックスは日本で上野リチとして知られており、それは彼女が1925年に当時ホフマンの建築事務所に勤務していた京都出身の近代建築家上野伊三郎と結婚したことに由来する。彼女は、1926年から1930年まで日本の関西地方の近代建築運動に関わりつつ、両国を往復しながらウィーン工房の仕事を続けた。~略~ウィーン分離派は日本美術に影響を受けており、リックスのテキスタイルデザインにも、日本の着物の装飾的図案を参照したと思われる太さの異なる縞、格子、線描的な文様が見られる。」次の女性デザイナーは「芸術家工房のデザイナーの中で、同時代のキュビズム、構成主義、未来派、ロシアのレイヨニスム(光線主義)の前衛的表現に最も敏感に反応したのはマリア・リカルツである。」とあり、その他にマティルデ・フレークル、ヒルデ・イェッサーが挙げられていました。「女性メンバーのデザインに通底するのは、明るい色彩とリズミカルな細い線による、伝統、実験精神、自由な感覚性が混在する装飾性である。」モードについても触れた箇所がありました。「ウィーン工房製テキスタイルは、1910年代前半にパリのポール・ポワレにも影響を与えた。ポワレは20世紀のモードの変革者であり、1906年に女性服に不可欠とされていたコルセットを取り払った直線的シルエットのドレスを発表し、従来の規範を一変させる新しい美学を生んだことで知られる。」最後にまとめると「ウィーン工房モード部門の活動内容は、多様な装飾的なテキスタイルの使用を特徴とするドレスや小物類の生産、モード画やモード画集の印刷・出版であった。モード画は服飾の専門知識がないデザイナーも参入しやすかったことから、モード部門はテキスタイル部門とならび女性メンバーの最初の活動の場として重要な意味をもった。」とありました。今回はここまでにします。
    「『ウィーン工房』のブランド確立へ」のまとめ②
    「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第五章 『ウィーン工房』のブランド確立へ」の後半部分をまとめます。ここではドイツ並びにオーストリア工作連盟について書かれていました。「クンストシャウの前年、1907年10月にミュンヘンにて芸術家、職人、企業家の連合体であるドイツ工作連盟が結成された。これは、ヨーロッパ近代デザイン運動の主眼が工芸改革から機械化と市場経済の問題へと移行したことを象徴する出来事であった。~略~ドイツ工作連盟の活動が拡大する中で、オーストリア、スイスから参加したメンバーに自国の独立機関を求める動きが生じた。1912年にオーストリア人メンバーが独立し、オーストリア工作連盟を結成した。~略~ドイツ工作連盟との決定的な差異として、オーストリア工作連盟は機械化された産業社会のための近代的デザインを創造できなかった。オーストリアではウィーンを中心に、後のバウハウスに継承されるような合理的、機能的な工業化された近代デザインよりも、デザイナーの感性と技が生み出す優美な美術工芸品が好まれたのである。」ここで装飾的なウィーンのデザイン傾向に反対する建築家が登場してきます。「数少ない対抗者として反工作連盟の猛批判を展開したのは、彼らの活動に自意識過剰な近代主義者の欺瞞を見出したアドルフ・ロースである。ロースとホフマンは、どちらも1870年生まれのブルノ出身でウィーンの代表的な近代建築家であるが、二人の建築理念は大きく異なった。ロースは、世紀転換期にはウィーンの芸術刷新運動の賛同者であった。~略~(ロースの)建築に見られる古典主義の影響を受けた厳格な対称性、大理石や木材等の素材自体の優雅な質感は、1920年代のインターナショナル・スタイルの非対称性の無機質な平面とは異質である。ロースにとり、建築の簡潔さは機能の表現ではなく様式の問題であった。そして、時代に応じた様式は根本的な資質、形態、空間性が飾られずに現れたときに明らかになるという信念から、装飾は破棄された。」ウィーンの旧市街にロース設計による簡潔な建物があり、周囲のバロック建築群の中では新しさが際立っていました。1914年にケルンで開催された工作連盟展の様子を書いた箇所がありました。「分裂と混乱に見舞われたドイツの展示が不振であった一方、~略~オーストリア工作連盟は結成当初からドイツ側に評価されていたオーストリア近代工芸の強固な芸術的・手工芸的基礎を、あらためて明示した。展覧会の様相や関係者の発言から、同じ工作連盟という名の組織でありながら、ドイツとオーストリアではその性格が大きく異なっていたことは明白である。こうしたオーストリアの産業的仕事の独自性を最も鮮やかに印象的に表現したのは、ウィーン工房デザイナーたちによって装飾的にデザインされた工芸品、日用品であった。1908年のクンストシャウで確立されたウィーン工房のブランド性は、1912年の春季オーストリア工芸展、1914年のケルンでの工作連盟展を経て、一層揺るぎないものとなり、『ウィーン工房』は国家を代表するブランドとなった。」今回はここまでにします。