2022.04.10 Sunday
今日も昨日に続いて初夏を思わせる気候で、工房内は暑くも寒くもなくちょうど良い温度でした。ただし、このところ急激な温度変化があって、身体がだるく、作業を度々中断して休憩を取りました。今日は朝から美大生が来ていて、イメージトレーニングになる小作品をやっていました。午後は後輩の彫刻家がやってきて、彼が制作している厚板を工房に運び込んできました。私は相変わらず新作の土台の刳り貫き作業をやっていましたが、疲れが出ているのか、遅々として進まない状況でした。そんな時、私は創作の原点を思い返して、自分が創造する世界のイメージをもう一度頭の中で描くのです。輪郭が定まらない大地から掘り起こされた遺構が現在制作中の作品です。大地は積層になって遺構を覆っていて、積層の断面は崩れかけています。大地から顔を出している遺構は、全体のほんの一部に過ぎず、それが点在して風景を成しています。あたかも日本の石庭のような印象ですが、石庭と異なるのは自然の在るがままのカタチを使うのではなく、私の場合は西洋の彫刻的な考え方に立脚しているので、風景全てを造形化している点にあります。作品のタイトルが決まれば、このNOTE(ブログ)にタイトルの根拠となる私自身の造形思考を述べさせていただくつもりですが、今は疲れた頭に刺激を与えるべく、創作の原点を前後の見境なく書いているに過ぎません。私は紙にエスキースを記さないので、頭の中で幾度となく創作の原点を思い返すのです。最初は曖昧だったイメージが少しずつ具現化して、さらに視覚としての図像と相俟って、私には思考が生まれてくるのです。何かを創り上げるのには動機があり、裏付ける根拠があります。私が希求するものは何か、また鑑賞者に主張したいものは何か、造形は哲学でもあると私は考えていて、それらが一体化して初めてひとつの作品になるのでしょう。哲学や思索は造形の陰に隠れているのが美術作品の一般的な在り方ですが…。
2022.04.09 Saturday
週末になりました。今日は初夏を思わせる陽気になって、気温が上昇して爽やかな一日になりました。桜は散り始めているもののまだ美しさを保っています。葉桜になってもなお麗しく目を楽しませてくれています。工房の周囲は亡父が残した植木畑になっていて、木々が大きくなっても青葉若葉が繁り、創作活動を行う環境の良さを改めて実感いたします。1年間を通して今の時期と秋の時期が一番過ごし易く、制作工程を進めていくのには最適な季節と言えます。今週は毎日工房に通っていました。手帳を見ると一日中工房で過ごす日が多く、新作の二層目になる厚板を切断したり、刳り貫く作業が続いています。今週も木材加工ばかりで1週間が過ぎていきました。新作では陶彫部品とコラボレーションする木材加工が重要な表現として作品を左右する位置を占めています。手間暇がかかるのは当然だなぁと思っている反面、この木材部分に砂マチエールを施し、油絵の具を滲み込ませる工程に早く入りたいと思っているところです。今日は工房によく通ってきている若い子が顔を出しました。今まで美大受験生と書いてきましたが、今週美大で入学式があり、彼女は晴れて美大生になりました。今日は入学後のガイダンスで説明された履修科目を選ぶために工房にやってきたのでした。私との相談というより、大学や自宅では自分自身に向き合う環境がないために、他に誘惑のない工房が物事を考えるのに最適と判断したのでしょう。私も制作を突き詰めるために工房を使っているので、目的とするところは同じです。私の時代と違っているのは、科目を登録するのにネットを使っているところで、彼女は大学から支給された冊子を見ながら、一日中スマートフォンを弄っていました。
2022.04.08 Friday
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第一章 オーストリア近代デザイン運動の胎動」の後半部分をまとめます。ここでも内容を2つに絞ります。一つは帝国立オーストリア芸術産業博物館の開館に関することです。「1860年代から1870年代にかけて、アイテルベルガー(ルドルフ・フォン・アイテルベルガー)を中心にハプスブルク君主国の最初のデザイン改革が実行された。近代的工芸生産・教育体制の確立は国家の産業振興に通じる点で重要であり、アイテルベルガーやファルケ(ヤーコプ・フォン・ファルケ)はサウス・ケンジントン博物館やゼンパーの博物館構想を研究し、その実現を綿密に計画した。同時に、芸術産業博物館の実現への皇帝自身の強い意欲と、ライナー大公の実際的な関与状況から、一連のデザイン改革が君主国内の工業化とウィーンの大規模都市改造を背景とした、国家の威信をかけたプロジェクトであったことがわかる。それは、アイテルベルガーが制度面ではイギリスを手本としつつ、様式面ではイタリア・ルネサンス様式に基づくオーストリア固有の様式を目指したことからもうかがえる。」次はグスタフ・クリムトを中心とするウィーン分離派による芸術刷新です。「ウィーン分離派の芸術刷新運動が、英国アーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け19世紀末に全ヨーロッパ的に興隆したユーゲントシュティールの一環であるとともに、特に国家の政治状況と密接に関わった文化運動であった事実である。ウィーン分離派には、近代化に向かう諸外国の動向から取り残された自国の芸術の、国際的水準への引き上げという明確な目標があった。そこで彼らがオーストリア独自の近代芸術を目指した点や、オーストリアの芸術家のみを正会員とした点は、メンバーの強い国家意識を示唆している。それは、当時先鋭化した偏狭な民族主義に対する多元的な『ひとつのオーストリア』という国家的理想であった。ウィーン分離派は、産業振興の目的とは無縁であった。1860年代と同様、彼らの活動には政治的力学が作用していたが、政府の期待は国民経済への寄与ではなく、19世紀末に先鋭化した民族問題への貢献へと変化していた。」私が当時よく分からなかったのは、ウィーン分離派の立ち位置でした。ウィーン造形芸術家協会を保守的傾向、ウィーン分離派を前衛と考えるならば、国家が分離派を擁護している社会的背景に今ひとつ納得できずにいました。これは単なる芸術的価値観の相違ではなく、時代も大きく作用していたことが判明して、漸く理解ができました。今回はここまでにします。
2022.04.07 Thursday
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第一章 オーストリア近代デザイン運動の胎動」の前半部分をまとめます。ここでは2つの内容に絞ります。まず英国アーツ・アンド・クラフツ運動について。「アーツ・アンド・クラフツ運動の歴史はギルドの近代史だと指摘されるように、『ギルド』の形成はアーツ・アンド・クラフツ運動の主要な特徴の一つである。本来、『ギルド』とは中世ヨーロッパの商人や手工業者の特権的同業者組合を指し、商権の確保、技術の独占、技術水準の維持等を目的とした相互扶助団体として、中世後期の都市経済に大きな影響を及ぼした。近代産業の勃興に伴い衰退したギルドが、ヴィクトリア朝(1837-1900)で新たな意味合いを帯びて復活した背景には、中世の諸芸術や社会制度を理想視する『中世主義』の思想があった。~略~アシュビー(チャールズ・R・アシュビー)はギルドという手工芸のための共同体を、機械生産の場に応用することを試みた。彼にとって、ギルドの意義は教育と創造の有機的な連帯であり、それを現代に即した形態にしたものが『工房』という単位であった。また、産業界と乖離した当時のアカデミーや美術学校でのデザイン教育の問題と関わり、工房が手を使って素材の性質を学ぶ場となり、優れたデザイナーの養成につながる点も期待された。」この英国での運動がやがてウィーンにやってきます。次はウィーンへのアーツ・アンド・クラフツ運動の伝播について論じられています。「ウィーンでは1897年頃からアーツ・アンド・クラフツ運動の思想と作品が、公的機関である帝国立オーストリア芸術産業博物館、ならびにウィーン分離派という先進的な芸術家グループに受容され、そこから市民や産業界に伝播した様子が見て取れる。特に博物館四代目館長スカラ(アルトゥール・フォン・スカラ)の功績は見過ごせず、ウィーンの工芸・産業界とつながる博物館が機関誌や展覧会を通じて、イギリス工芸の最新動向を宣伝した意義は大きかったと考えられる。しかし、スカラのイギリス贔屓は、一方でウィーンの美術工芸の利益団体であるウィーン美術工芸協会の反発を招き、他方で、イギリス工芸の模倣に終始した点をウィーン分離派の芸術家たちに批判された。スカラによるイギリス工芸の促進は、イギリスを手本にオーストリア固有の様式を創造するところまで至らなかった。アーツ・アンド・クラフツ運動思想がウィーンの芸術家たちの独自の実践に結びつくのは、ウィーン分離派が自らの活動理念にその思想を吸収してからのことであった。」今回はここまでにします。
2022.04.06 Wednesday
先日出かけた国立新美術館で開催している「メトロポリタン美術館展」。展示されていたのは美術史に名を残す画家ばかりで、西洋美術を俯瞰するには絶好の機会でした。巨匠を挙げていけばキリがないので、今回は思わず目を留めた作品について書いていこうと思います。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはフランスの画家で他の巨匠に比べると、知名度はやや低いと見積もっていましたが、表現力は充実していて、とくに来日していた「女占い師」は複数の登場人物の心理描写が興趣をそそりました。日本での展覧会主催者もこの絵はインパクトがあると思ったのか、大きなポスターに使われていました。図録より解説部分を拾います。「疑念を抱きつつも弱さに付け込まれた若者が、老女から運命を告げられる間に金品をかすみ取られている。これはカラヴァッジョが好んだ主題でもあった。ハンサムな若者は、様々な刺繍で装飾されたピンク色を主調とする衣服の上に、黄褐色の革製のジャーキンを纏っている。ベルトの先には金の飾り玉が付き、シャツの首元には金の紐が結ばれている。財布の紐は金とエナメル製で、先端にメダイヨンのついた金鎖には、この場面には存在しない美徳である『愛』と『信頼』を意味するラテン語が銘記されている。格好の標的である若者は、彼に運命を告げながらコインを取り上げる老婆、彼を横目で見ながらメダイヨンを吊り下げた金鎖を切る青白い顔の若い女性、そして彼のポケットから金品をかすめ取る女性と、3人の犠牲になっている。」若者を取り囲んでいる女性たちはロマと呼ばれるジプシー(移動型民族)かもしれず、この絵にはさまざまな比喩があるようにも思えます。私も若い頃、ヨーロッパで観光客を取り囲んで金品を盗難する集団をよく見かけました。私自身は被害に遭わずにすみましたが、当時の私はかなり貧相な服装をしていたようで、ルーマニアではロマに大丈夫かと声をかけられたこともありました。私の生活ぶりは、傍から見ると盗賊以下だったのかもしれません。そんな思い出に絵を見ながら浸れたのも良かったと思いましたが、あの時、声をかけてくれたロマと共に旅をしていたならば、私の人生は大きく変わっていたでしょう。紀行作家みやこうせいさんと、ギリシャで遊牧民と共に羊の群れを追う生活をしたこともありましたが、今となっては思い出のひとつに過ぎません。1点の絵画から派生する自身の記憶を辿りながら、私は夢うつつの会場を歩いていました。