Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 図録色校正と案内状について
    今日は朝から工房に籠って、今週2回目の窯入れを行ないました。乾燥した陶彫成形にブロックサンダーを使って仕上げを施し、化粧掛けをして焼成するのですが、今日は立方体の形状をした陶彫部品6点を窯に入れました。これは来年発表を予定している最新作になります。同時に7月個展のための梱包作業もやっていて、もう少し余裕を持って作業をするつもりが、結構忙しく働いてしまいました。ゆったりと構えて作業をしていこうと思っていても、作業が始まると夢中になってしまうのです。これは自分の性分なので仕方がない面がありますが、疲労が取れないまま仕事をしているので、自分で自分の首を絞めているような気がしています。夜になって自宅にカメラマン2人がやってきました。先日、図録用の写真撮影が終わって、図録に掲載する写真も選んだので、図録色校正を持ってきたのでした。改めて確認をして印刷に回してもらうようにしました。図録は7月搬入の少し前に出来上がることになっています。図録は例年通りの定番の形式を採っていますが、作品が新作のために常に新しい状況が見て取れます。今年発表する作品は例年より密度があるように思えます。二足の草鞋生活から創作活動一本になった最初の作品なので、制作に懸ける時間が圧倒的に多かったのではないかと思っています。友人知人に発送する案内状も1500枚出来上がりました。そのうち1000枚は東京銀座のギャラリーせいほうに持って行きます。最近の案内状は野外で撮影したものを使うことが多く、今回も青空とぽっかり浮かんだ雲を背景に「発掘~崩層~」が写っています。撮影日は良く晴れた日で、空と雲の景色が美しかったので、カメラマンに青空を多く入れるようにお願いしたのでした。ギャラリーせいほうへは明日持参する予定です。
    高村光太郎「彫刻性について」の雑感
    「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の「2 高村光太郎と近代彫刻」について読み終えたところですが、文章の最後に注釈があり、J・G・ヘルダー著「彫塑論」について詳しい情報が掲載されていました。公刊されたのが1778年とあるので、日本では手に入らない書籍だろうと思いますが、そこに高村光太郎の「彫刻性について」から抜粋された文章があり、私はこれに注目してしまいました。そのまま引用いたします。「彫刻性は、もともと抽象的なものであつて、しかも其が自然現象の具象を媒体として表現されるところに彫刻の面白味もあり、又混乱錯誤のもともある。近代前衛派の創るところの『オブジェ』の如きは其の抽象を抽象として取り扱つたものであり、従つて此の彫刻性を具備しないオブジェは唯のがらくたであり、機知の景物となり了るのである。さういふものは永くみてゐるに堪へず、又保存して置く気にもならず、結局物置の中の廃品となるより外ない。彫刻性を有するオブジェは確然とした位置を保ち、明瞭に存在の美を示し、悠久の時間性を空間性に置換する不思議をわれわれに感ぜしめる」といった内容で、旧仮名遣いであっても、大変厳しい言い回しになっていました。高村光太郎の歯に衣着せぬ考え方に私は共感を覚えました。「オブジェ」という言葉が、光太郎の生きた時代に美術用語として使われていることにも私は驚きましたが、オブジェの持つ彫刻性の在り様にも彼の主張の明快さが表れていて、なかなか痛快でした。今や現代アートの概念の広がりに私はついていけないところがあり、美術や彫刻というコトバが意味をなくしているのではないかと危惧しているのですが、私自身は旧態依然とした彫刻という呼び名に拘りを持っています。私は今までオブジェという呼び名は使っていません。自作はあくまで彫刻なのです。J・G・ヘルダー著「彫塑論」の語ったであろうことを、私は300年近く信じて疑わない人なのです。もちろんロダンとは「意識を異にした領域に彫刻を変革しつつある者」に属していますが、私は彫刻性を捨てていないつもりです。
    「高村光太郎と近代彫刻」のまとめ③
    「美学事始」(神林恒道著 勁草書房)の「第二部 芸術論の展開」の「2 高村光太郎と近代彫刻」を3つの要点にまとめて記述しています。今日はその最終編です。「ロダンが大正六年に没すると、さっそく『白樺』は翌年1月にロダン追悼号を出す。~略~ロダンに対する無条件な熱狂と賛美が一段落すると見てもよいのではないか。その段階で、ヒルデブラントの彫刻観がロダンのそれと対極的な構造を持つものとして、光太郎の彫刻論に再浮上してくるのである。~略~今や光太郎は、かつて『観るべきもの』であったロダンの作品を公然と批判するようになる。ロダンは『美の一片は美の全体である』と語った。『ロダンの天与の指頭が触れるところ、一塊の粘土、一片の石、皆たちどころに生命を持った。彼は此所に彫刻の奥義を認めた。指一本、ばらばらな肢体といへども既に全彫刻である』。だが芸術について、『全量ハ其ノ総テノ部分ノ和ニ等シ』という幾何学の公理には通用しない。ロダンはしばしばコンポジションの能力に欠けていると評された。光太郎によれば、それは能力の過剰によるものだという。」ここでロダンの触覚的な彫刻よりも、ドイツ人彫刻家ヒルデブラントの視覚的統一体に論点が移り、改めて彫刻の何たるかを問い直しているのです。「彫刻家の課題は、実在する形としての『存在形式』を、視覚的仮象としての『作用形式』へと転化することであり、そこに現われる空間や形の作用現実性の処理に彫刻の芸術としての一切がかかっているのである。~略~『極めて遠距離から観察すれば、ロダンによる生命主義とヒルデブラントによる形式主義とを二源流とする二つの流れのもつれ合ひと見ることが出来るのである』と、光太郎は述べている。すなわち『ロダンの影響を必ずしも反発せず、唯おもむろに各人の天性を変革する事に努力しつつある者と、彫刻の純粋性を形式の問題に蒸留させて、全く意識を異にした領域に彫刻を変革しつつある者』とである。後者の『ヒルデブラント風の理知主義に脈を引いてゐる形式主義の一団』として挙げられているのが、ブランクーシ、アルキペンコ、リプリッツらの立体派や抽象派である。さらにフォーヴの運動から起こった原始趣味、これが形式主義と結合してその影響は、ザッキン、オルロフ、あるいはバルラッハにまで及んでいると述べている。」光太郎の先駆的な眼差しには驚嘆すべきものがあると著者は付け加えていますが、私も同感です。
    週末 最新作の窯入れ開始
    今日は7月個展で発表する新作の梱包作業を中断して、来年に向けた最新作の陶彫制作を行ないました。幾つかの陶彫成形が終わって乾燥している作品に、仕上げを施して化粧掛けを行ないました。陶彫作品において、最後の制作工程に焼成があるのは、宿命として人の手が及ばない領域が存在していると私は感じています。窯内に棲んでいる炎神に作品を預けることで、自分の意思ではどうにもならない在るがままの姿に作品は変貌して戻ってきます。それはやきものの面白さでもあり、歪みを受け入れざるをえない自分の心の在り様も映し出してしまいます。先日見に行った「清水九兵衛/六兵衛」展にも焼成に関する作家の思い入れが色濃くでていましたが、自分の思い通りに形態を作り上げたいなら金属が最適です。一番言うことをきかない素材がやきものなので、そこは割り切っていくしかないと私も考えています。窯入れは例年なら11月ごろの秋から初冬にかけて行なっていましたが、今年は二足の草鞋生活から創作活動一本になったおかげで、この時期から始めることになりました。最新作は陶彫のみ展示する予定で、今年の作品のような木材は使いません。その分、窯入れする機会が多くなるだろうと思っています。窯入れをすると翌日の工房は電気の関係で使えなくなることがあります。明日以降はのんびりした生活にしていこうと思っているところです。
    週末 木箱作りは順調
    週末になりました。今週もいつも通り毎日工房に通っていました。今週は地元の中学校の学校運営協議会に参加したり、展覧会を見に千葉県まで出かけていきました。工房では新作の梱包作業として陶彫部品を収める木箱を作り始めていて、今日で10箱が出来ました。陶彫部品を眺めていると少し足りない気がします。あとどのくらい必要なのかは実際に収納しながら補充していこうと思います。木箱作りは合板材や垂木が必要ですが、それも建材店に行って、ある程度調達をしてきています。多めに作ると保管に場所をとるので、様子を見ながら木箱を作ろうと思っています。木箱作りは今のところ順調です。同時に梱包作業だけでは意欲が低下するので、来年発表する作品にも関わることにしました。来年発表する予定の作品は、既に作り始めていて、暫く休んでいたところを再開した按配です。今日の作業を考えると、やはり例年より早く進んでいるように思います。二足の草鞋生活からの解き放たれて、創作活動一本になったことが良かったと思えた瞬間でした。加えて創作活動は延々と続くもので、その道が何にも邪魔されることなく、しっかり見据えていられるのが嬉しいと感じています。私は窯業とは関係のない家に生まれたにも関わらず、自らの趣味趣向に沿ってやきものを選びました。見様見真似で陶土を練り、窯を焚いてきました。まったくの自己流ですが、これは陶芸ではなく陶彫だと主張して、自分の世界観を培ってきました。大地と見立てている空間に点在する彫刻を、私は勝手に集合彫刻と呼んできましたが、亡父が生業としていた造園業を手伝っていた時に身につけた空間解釈だけが頼りでした。彫刻に内包するポエジーは、自分が高校時代から憧れた詩に裏打ちされているのかもしれません。とにかく木箱に詰め込む陶彫部品は、自分の分身であることは確かです。