2022.03.11 Friday
3年前のNOTE(ブログ)から引用いたします。「今日は3.11です。8年前に未曾有な被害を齎せた東日本大震災。横浜でも大きな揺れがあって、物資の運搬経路が一時ダウンし、自然災害の影響力を感じ取った日々を今でも忘れることが出来ません。もうあれから8年も経ったのかという実感を持ちますが、東日本大震災後もあちらこちらで震災が起こり、今でも熊本城のような歴史的遺産の復元作業が進んでいる最中です。私たちは日本で生活する以上、こうした自然災害と付き合っていくしかないと思っています。私は毎年この日になると職場の放送機器を使って弔意を述べ、1分間の黙祷を捧げてきました。」東日本大震災から今日で11年が経ちました。11年前は私は公立中学校の副校長をやっていて、生徒の避難に立ち会いました。落ち着かない生徒指導の一面をもった中学校に赴任していましたが、大震災発生当時、学校に残っていた生徒は素直に私たちの指示に従ってくれたので、安全に生徒を家庭に送り届けることが出来ました。大変な時に遭遇すると、やんちゃな生徒も静かになるものだなぁと思いました。その時から毎年、私は校舎内外に向けて放送で弔意を述べてきました。昨年と一昨年は3.11が卒業式に当たってしまい、私は式辞の中で黙祷を捧げ、命の大切さを生徒に伝えました。私は毎年3.11は防災のことを考える日、または命のことを考える日に決めています。自然災害とともに生きることを余儀なくされるのが日本の現状で、私たちは常日頃からその意識を持っています。ただ、現在起こっているロシアによるウクライナ侵攻は人災です。人災なら防ぐ方法もあるだろうに、と私は思いますが、その思いは私だけではないはずです。人災によって身近な人の命が奪われたなら、私は悔しくて諦めようがありません。そんなことを考えさせられる昨今の世界情勢です。
2022.03.10 Thursday
「九州の民俗仮面」(高見剛 写真・高見乾司 文 鉱脈社)の「翁面と『芸能仮面』の発生について」をまとめます。ここでは仮面の中で重要な存在である翁面が登場してきます。まず、芸能仮面についての考察を拾い上げます。「芸能史における大きな変革期は中世である、という見方は、大方の研究者の間では一般的なものとなっている。『中世』とは、源頼朝の平家打倒によって武家政権が確立した鎌倉時代から南北朝を挟んで室町時代に至るまでの約四百年間をさす。中世前期すなわち鎌倉期は古代芸能の継承期であり、南北朝の動乱期に至って中世本来の芸能が確立し全国に普及・分布する。中世後期すなわち室町時代には能の完成にみられるように大きな変革がある。室町期の完成した芸能形態は、戦国期を経て近世以降の芸能へつよい影響を与えながら展開してゆく。~略~仮面史には、縄文時代の土面の消失から飛鳥・奈良朝以降の木彫仮面の登場まで、大雑把にみて千数百年(厳密には数百年か?)の断絶期があるが、その現時点では説明のつかない断絶期のことを棚上げして考えてみると、仏像彫刻や伎楽・舞楽などの渡来系の宗教・芸能と、山岳信仰や山の神祭り・田の神祭りなど列島基層の信仰・祭りが混交し、独自の仮面芸能が発生した時代が平安から鎌倉に至る時代ということになろう。」ここで前に私が取り上げた追儺式について著者から訂正の箇所がありましたので、そのまま引用します。「以前私は、鹿児島県隼人町の鹿児島神宮の正月行事、追儺式の中に隼人舞が伝わっていると方々に書いた。ところが、以後の取材で、それは誤りであるということが判明したので報告方々、訂正する次第である。」民俗学や史学研究には平時付き纏うことだろうと私は理解しました。さて、漸く翁面が登場します。「中世芸能を代表する猿楽の本芸は翁舞であるという。翁舞は~略~平安中期から鎌倉ごろにかけて、社寺の神事や法会に付属して上演されていたことが推察される。その担い手とは、咒師、猿楽者などと呼ばれた芸能職で、猿楽者が翁面を宿神として祀ったという事例も認められる。」とありました。また翁面には黒い仮面と白い仮面があって、その論考にも私は興味を持ちました。「これらの、一連の黒い翁をめぐる考察から導き出されるイメージは、『里の神(白い翁)に対する山の神(黒い翁)』、『国家を樹立した民族の祖神(白い翁)に対する制圧された先住民族の霊(黒い翁)』、『権力者の象徴(白い翁)に対する被差別民の象徴(黒い翁)』などである。」今回はここまでにします。
2022.03.09 Wednesday
「九州の民俗仮面」(高見剛 写真・高見乾司 文 鉱脈社)の「九州の民俗仮面の分布」をまとめます。本論は地域によって5つの単元に分かれています。まず、「1.北部九州の仮面」です。「北部九州は、修験道の霊地として栄えた英彦山・求菩薩山を中心に、修験道の影響をつよくうけた神楽や芸能などが数多く分布する。」その中で鬼を払う追儺が登場する箇所に気がとまりました。「国東半島には、『修正鬼会』と呼ばれる『追儺』の祭りが伝わる。追儺とは、善鬼が悪鬼を追うという儀礼で、その起源は中国春秋戦国時代にまでさかのぼることができる。」次に「2.中部九州の仮面」です。ここには阿蘇山があります。「熊本県阿蘇地方は、世界最大のカルデラ火山で、阿蘇修験が栄えた。阿蘇神社は、神武の孫『建磐龍命』を主神とする神社で阿蘇信仰にまつわるさまざまな儀礼を残しながら周辺の神社祭祀や神楽などの芸能に影響を与えている。」次は「3.九州脊梁山地の仮面」で「九州脊梁山地とは、阿蘇山系から霧島山系へ向けて九州の中央部を縦に走る山岳地帯のことで、文字通り九州島の骨格を形成する山脈である。この山地には、高千穂の天孫降誕伝説、椎葉の狩猟・焼畑文化、米良の南北朝伝説などと関連する多彩な神楽や仮面芸能が分布する。まさに仮面文化の宝庫である。」とありました。次に「4.霧島山系の仮面」についてです。「この地方の神楽や田植え祭りでは、『田の神舞』が上演される。田の神は、黒い顔の翁面であったり、歪んだ顔の白い翁面であったり、『道化』であったりする。『渡来してきた支配者に対して服属儀礼を奉納する先住の民』という構図がみてとれる。」最後は「5.南九州の仮面」です。「霧島以北の仮面文化が『渡来仮面』以後あるいは中世の『芸能仮面』発生以後のものがおおいことに比べ、霧島以南の仮面文化は、南島文化との接点をもつもの、日本の土着仮面の面影をとどめる『信仰仮面』が数多く分布することなど、あきらかに様相が異なるからである。~略~南九州の仮面文化は、記紀神話や南島の仮面文化と混交し、影響し合いながら、独自の展開をみせている。とくに『信仰仮面』と呼ばれる仮面のなかには、先住民としての古代隼人の習俗と関連するのではないかと思わせるものもある。」今回はここまでにします。
2022.03.08 Tuesday
東京丸の内にある三菱一号館美術館で開催されている「上野リチ展」に先日行ってきました。上野リチは1893年にフェリーツェ・リックスとしてウィーンに生まれた人で、両親はユダヤ系です。日本人建築家上野伊三郎とウィーンで知り合い、結婚したため、上野リチを名乗るようになりました。彼女はデザイナーですが、芸術界が女性に門戸を開いていなかった時代に、どうして活躍できたのか、図録より文章を拾ってみます。「画家や彫刻家のような芸術家として自立することは、その公的養成機関である造形芸術アカデミーが1920年代まで女性に門戸を閉じていたこともあり、不可能に近かった。一方で、工芸家やデザイナーの養成機関である工芸学校やそれに類する機関は、家内工業的職場でも女性も手仕事に携わっていた現実を背景に、開校時から女性の入学を認めていた。」さらにウィーン工房の存在がリチの個性を際立たせる役目を担っていたのでした。「ウィーン工房において、リチは七宝の宝石箱やアクセサリーにハンドバッグ、エナメル絵付けしたガラス製品などのデザインを手がけているが、多くは平面的な装飾デザインであって、躯体の形そのものをデザインしたものは少ない。なかでも群を抜いて多いのがテキスタイルのデザインで、その数は製品化されたものだけで113種類にのぼる。デザインの多くは花や草を簡潔な線で巧みにパターン化したものだが、幾何学的な抽象文様も手がけており、なにより生き生きした配色の妙に目を奪われる。」リチは夫と共に京都に住み、染織試験場でも仕事をしています。「プリント服地や友禅といった染物だけではなく、織地のデザインも手がけ、その多くは身近な草花をモティーフとしていた。また洋装のための服地小物、とりわけ刺繡のデザインが多いことも特徴のひとつだろう。モティーフが画面全体に隙間なく描かれたり、シンメトリカルに配置されたりしたデザインは、試験場の期待に応えたものなのか、余白を巧みに使っていたウィーン時代のデザインよりも、ヨーロッパ的な印象を与える。」(今までの引用は全て池田祐子著)確かにリチの作品を見ていると、国の文化に左右されないリチ本人の個性が一貫されていて、豊かな色彩に支えられた繊細な線による特徴的なデザイン性を私も感じました。ウィーンの装飾は、19世紀よりジャポニズムの要素を取り入れた融合が見られたことも大きかったのかもしれません。「ウィーンにいた時よりも長い時間を京都で過ごしたにもかかわらず、リチのデザインは、ウィーン時代と比べて日本的な雰囲気に変化したり、日本のモチーフが増えたりといった、中途半端な『日本化』は起こさず、常に安定して垢抜けた、ヨーロッパのデザインであり続けた。」(阿佐美淑子著)私は20代の頃、ウィーンにいて戦前には女性が入れなかった造形芸術アカデミー(アカデミークンスト)に籍を置き、ジャポニズムに影響されたウィーンの近代デザインも目にしてきました。上野リチにとって、当時はウィーンも日本も同じ方向性と様式をもったデザインだったため、自然に個性を発揮できる環境にあったのではないかと思っています。ウィーンの至る処にジャポニズムがあるように私にも思えました。
2022.03.07 Monday
今日は私の主治医のいる歯科医院に出かけました。思えば昨年も3月に歯科治療に行っています。私は歯の磨き方が悪いのか、定期的に歯のメンテナンスが必要で、今日は歯の治療というより歯についた汚れを落とす作業をお願いしました。昨年は歯の治療のついでにクリーニングをやっていただいていたのですが、1年経つと歯の汚れが目立ってきます。私が行っている歯科医院は、横浜駅西口から徒歩数分のところにある鶴見歯科医院です。親の代からここを利用していて、横浜駅近隣の便利な環境と、的確な判断をされる勤務医が大勢いるため、私はここしか歯科医院を知りません。これほど長く通っていると今までいろいろなことがありました。私がまだ教職についている頃、卒業生がここの歯科衛生士になっていて、偶然にも再開した時の話です。彼女は私を見つけると、即刻私の担当歯科衛生士になりました。私は多くの生徒の中で彼女の存在を知っていましたが、真面目で目立たなかった生徒だったために、気にかけることはありませんでした。卒業して数年経っている彼女は美しくなっていて、白衣が似合っていました。「先生は歯の磨き方が駄目だなぁ」と不躾ながら親しみを込めて言ってから、私の口の中で治療器具を思う存分使っていました。私は恥ずかしくて、些か気が滅入りました。教壇に立っているとこんな偶然もあるんだとその時は思いましたが、教職を長くやっていると、教師なら誰でも少なからずこんな経験があるのかもしれません。もう彼女は鶴見歯科医院からいなくなっていますが、親切で丁寧な仕事ぶりから見て、今もどこかで活躍しているのかなぁと勝手に思っています。今日のNOTE(ブログ)は妙なテーマになってしまいました。