2022.04.15 Friday
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第三章 設立構想と初期理念」の後半部分をまとめます。ここではウィーン工房の組織形態や、様式の特徴である幾何学的ユーゲントシュティールについて述べられています。ウィーン工房は協同組合という組織形態を選びました。「講演や回想録で語られているように、ホフマンとモーザー自身、彼らが工房の実現をヴェルンドルファーに負っていたことを自覚していた。それでも彼らが協同組合をいう形態を選択したのは、アーツ・アンド・クラフツ運動とその社会主義的なイデオロギーに影響を受けていたためと推測される。芸術家と職人の協働の場である工房は、組合員が対等な立場で事業を運営する協同組合のあり方と一致する。そもそもクンストゲヴェルベシューレの工房教育との連携を意図し、経済活動が目的ではなかったホフマンらが、あえて株式会社を選択しようとしたとは考えにくい。~略~規約に記されている組合員への教育に関しては、ウィーン工房で独自の徒弟教育が行なわれていた形跡はない。また、ウィーン工房がクンストゲヴェルベシューレでの工房教育を補填したのは、技術的な指導ではなく経済活動に関わる実践であった。ホフマンとモーザーはクンストゲヴェルベシューレの生徒のデザインを商品化し、生徒の多くが卒業後にウィーン工房に入社した。」次に幾何学的ユーゲントシュティールについて書かれていました。「『モデルネ』の装飾批判は、装飾そのものを不要と見なす立場と、装飾の価値を認めたうえで、無意味な装飾は不要であると考える立場に分かれた。つまり、アドルフ・ロースのような建築、工芸における装飾の全否定と、一旦過去の装飾を否定し、装飾に新たな意味を与える二方向に分岐した。ホフマン、モーザーは後者の立場であった。~略~ホフマンとモーザーの簡潔なデザインは、1900年頃にドイツ語圏で流行したビーダーマイヤー様式に通じる。ビーダーマイヤー様式とは、ウィーン会議から三月革命の間の1815年から1848年頃に見られた、反動的な復古体制期のドイツとオーストリアの都市中間市民層の文化様式である。~略~ホフマン、モーザーによる幾何学様式は1907年頃までウィーン工房製品全般にわたって用いられた。国際的な工芸改革運動の理想とともに、オットー・ヴァーグナーによる装飾刷新、ビーダーマイヤー様式の再評価というウィーンのローカルな近代化過程を映し出し、理念的側面と同様の国際性と都市の文化的固有性が確認できる。そして、分離派の芸術刷新運動に通じる伝統や歴史との親和性、そして極端な装飾否定や歴史否定に向わなかったデザイナーの中庸性から、世紀転換期ウィーン特有の『近代』観念が浮上する。」今回はここまでにします。
2022.04.14 Thursday
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第三章 設立構想と初期理念」の前半部分をまとめます。年代で言えば1900年から1906年で、ウィーン工房設立までの出来事が記されています。「クンストゲヴェルベシューレ(美術工芸学校)での工房教育の導入の遅れは、同校の教授であったホフマンとモーザーによるウィーン工房の設立を導いた。この経緯はウィーン工房が純粋な教育機関ではなく、芸術家と工芸家が日用品の生産・販売を行なう企業でもあったことを意味する。」第八回ウィーン分離派展が開催され、その成果として「ホフマンは早い段階から、諸外国作品との比較を通じて、自国の工芸様式の独自性を明示することを計画していた。展覧会はこの計画に沿って構成され、~略~外国での工芸改革の成果が紹介されると同時に、ウィーン独自の新たな幾何学的ユーゲントシュティールが披露された。」とありました。同展では外国のデザイナーとの交流もありました。「アシュビー(チャールズ・R・アシュビー)とマッキントッシュ(チャールズ・R・マッキントッシュ)夫妻は、会期中にウィーンを訪れた。ウィーン工房との関わりにおいて、アシュビーとマッキントッシュとの接触はきわめて重要である。前者は組織形態の面で、後者は造形面で影響を与えた。」次にウィーン工房設立者のことについて書かれていました。「ウィーン工房設立者の一人であるフリッツ・ヴェルンドルファーは、1914年の脱退まで工房の経営資金をほぼ全面的に負担し、ホフマンとモーザーの気前の良いパトロンとみなされることが多い。」ただし、彼は単なるパトロンではなく、イギリスの工芸改革運動思想にも通じていたことが伺えます。「ヴェルンドルファーがマッキントッシュとホフマン、モーザーの仲を取り持ったこと、ならびに、彼らが内密に計画を打ち明けるほど信頼関係を築いていた様子が確認できる。さらに、当初計画していた工房の概要として、金属製品の工房とする予定であったこと、受注製作を予定していたことがわかる。」雑駁なまとめではありますが、このようなウィーン工房設立までの出来事があり、後半部分ではウィーン工房の組織形態に入っていくことになります。
2022.04.13 Wednesday
陶による立体部品を複数集合させて、風景を俯瞰する彫刻作品を作ろうと考えたのは20代の終わり頃で、ちょうど海外での生活を終えて帰国する時でした。ヨーロッパ文明の原点となったエーゲ海に広がる遺跡群を見て回るうちに、発掘された空間を作品として造形化できないかを思案していました。彫刻の素材として陶を選んだのは、陶土は土中で腐食しないため、出土品として多くのものが現存しているのを知ったためでした。私としては陶土を焼き締めていこうと考えていて、よく陶芸で使う釉薬は焼成実験から除いていました。複数の陶土を混合し、焼成温度を上げても、ある一定の大きさに耐えられる土質を探していました。あの頃は陶土が高温焼成で変形したり皹割れしたりして、失敗を繰り返していました。陶彫がまだ思うようにいかないうちは、とりあえず遺跡のイメージを平面作品にしていました。砂マチエールに硬化剤を混ぜて、そこに油絵の具を滲み込ませていく方法は、絵画というより壁を作っていくように陶肌を再現していくものでした。複数の陶彫部品と砂マチエールによる土台のコラボレーションはその時に思いつき、土台を大地に見立てて、そこを発掘現場として出土品が点在していく様子を表現しようと決めました。大地は不定形な景観をしていて、しかも層になっているので、新作ではそんなイメージを具現化出来ないものか考えていました。風景の象徴化は日本の庭園にも通じていて、私は亡父が営んでいた造園にも少なからず影響を受けているのかもしれません。ただし、日本庭園は樹木や自然石など、自然にあるものをそのまま使い、配置によって深い精神性を内在するものだろうと思っています。西洋彫刻の概念は全て造形によって成されていて、新作は庭園らしく見える彫刻であって、亡父が作っていた庭園とは考え方が違うと思っています。国際的彫刻家であったイサム・ノグチが、伝統を重んじる庭師と制作現場で度々ぶつかったことが、彼の伝記に書かれてありましたが、私にはよく理解できます。「発掘~崩層~」は、周囲が崩れかけた大地をもつ彫刻作品として鑑賞していただけたら幸いです。
2022.04.12 Tuesday
横浜市金沢区にある神奈川県立金沢文庫で開催されていた「春日神霊の旅」展に、私は家内を誘って3月16日に出かけました。NOTE(ブログ)にもその感想を書いていますが、展覧会の図録は予約販売になっていて、私はその場で注文をしました。その図録「春日神霊の旅」が今日郵送で自宅に届きました。図録を眺めていると、展覧会で見た作品の数々が思い出されてきます。同展は現代美術作家の杉本博司氏による企画で、自らも骨董品に補作したものを出品していて、そのセンスに驚きました。私は当初、杉本氏をコンセプトがしっかりした写真で世界観を表現する人と思っていましたが、骨董品を扱うビジネスも展開していて、表現者としての杉本氏と、骨董品に造詣の深い杉本氏の双方の顔を持った独特なアーティストであると認めるに至りました。図録には、彼が自らの美術遍歴を振り返る文章が掲載されていて、印象に残りました。一部を抜粋したいと思います。「思えば私は古美術品の収集に取り憑かれてかれこれ40年になる。私は古美術に教えられ、導かれて、私の作家としての感性を磨いてきた。私の書斎は仏間でもある。平安期の十一面観音を祀るというよりも一緒に暮らしている。そのご尊顔を毎日見続けていると仏の姿に神の姿が見え隠れする。私は平安時代に神仏が習合していった頃の人々の信心の姿を、私の心の内に見る思いがする。私の古美術収集の方針は、諦めきれないものを買う、ということに尽きる。~略~私は私の作品に精魂を込めながら、古美術という精魂と交歓したいのだ。私は藤原期の彩色された掛仏を見ながら、その裁金の細部にまで宿る精魂が、私の作品と交換されるという現実に、かたじけなさに涙こぼれる思いに囚われるのだ。その掛仏の尊顔には、何事かがおわしました気配のようなものが、色濃く残っているのが私には自明のことのように見える。~略~思えば私が集めてきた春日の宝物は、私がその宝物の持つ抗いようのない力に打ちのめされ、感化され呪縛され、私のもとへいっときお越し願っているのだと思う。」私はさまざまな古代の宝物を見て、こうした思いに駆られたことが今までなかったので、アートとの繋がりの中で不思議なものを感じていました。「春日神霊の旅」展は、数多の展覧会の中でも特異な世界を持っていて、私には説明のできない何かを齎せたように思います。
2022.04.11 Monday
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第二章 ウィーン工房誕生の布石」をまとめます。この章は3つの内容で成り立っています。まず1900年以前のクンストゲヴェルベシューレ(美術工芸学校)における工芸教育の変遷です。クンストゲヴェルベシューレは芸術産業の需要に適う人材養成のために、度々学校規則や規定、教育計画の見直しを行っていました。2つ目の内容は学校改革と同時に隣接する芸術産業博物館の近代化であって、四代目館長がアルトゥール・フォン・スカラになり、スカラはイギリス工芸を模範に一挙にオーストリア工芸の近代化を推し進めていくのでした。ここでウィーン分離派の画家フェリツィアン・フォン・ミュルバッハが校長となり、建築家オットー・ヴァーグナーによる学校改革による提言を受け入れていくことになったのでした。「1899年以降、ヴァーグナーが意図したようにウィーン分離派の芸術家たちが教授に任命された。この決定に、ヴァーグナーの理事会での提言がどの程度影響したかは実証できないが、アカデミー教授であり、ウィーン都市計画や芸術評議会にも関与しているヴァーグナーの意見は決して軽視されなかったはずである。したがって、まず1870年以降のゆるやかな学校改革の流れがあり、その後、1890年代末のスカラによる博物館の近代化、およびその庇護の根拠となった文化教育省の近代志向の文化政策があり、そこにヴァーグナーによるウィーン分離派任用への提言が刺激として加わったことで、1900年以降のクンストゲヴェルベシューレ改革の素地が形成されたといえる。」3つ目はウィーン分離派による改革の中身を取り上げています。「1900年頃からウィーンのクンストゲヴェルベシューレでは、創造性を重視した総合的な制作活動と基礎的な美術教育を両輪とする、網羅的な工芸教育が行われるようになった。こうした教育は、新たな時代様式の工芸、絵画、彫刻、建築による美的な統一空間を目指した、ウィーン分離派のモデルネの立場からの総合芸術の理念に通底する。また芸術のヒエラルキーの否定、芸術と美術工芸の等価値の主張は、ウィーン分離派の基本精神のひとつであった。ミュルバッハとウィーン分離派の教官による学校改革の成果は、ウィーン分離派の理念を体現する教育体制を整えたことといえるだろう。しかし、ミュルバッハらが重視した工房教育は、学校の場所と資金の不足により実現が遅れ、ウィーン工房に引き継がれることとなった。」今回はここまでにします。