2022.04.25 Monday
「ウィーン工房」(角田朋子著 彩流社)の「第五章 『ウィーン工房』のブランド確立へ」の前半部分をまとめます。ここではまずウィーン分離派の決裂について触れています。「そもそも分離派は、ウィーン造形芸術家協会内の『若手』と呼ばれた一派が組織の保守的な体質に反発したことから生まれた。『若手』は絵画、彫刻、建築という他分野の芸術家たちの集まりであり、明確な統一様式はもたず、芸術の近代化を目指した点で結びついていた。そのため、時を経るにつれて、メンバーの創作上の表現や、とりわけ経済活動への関与に対する姿勢の相違がグループの統率を困難にした。」分離派からクリムトを中心とするメンバーの脱退がありました。「芸術を通じてオーストリアの再生を図った政府との結びつきを失い、ウィーン工房やクンストゲヴェルベシューレが主要な活動の場となっていた状況で、かつてウィーンの芸術刷新運動の担い手であったクリムト・グループの性格は変化した。彼らは、急進的な芸術の変革者から、総合芸術の精神に基づく美的生活のデザイナーとしての性格を強めた。」クンストシャウと呼ばれた美術展が1908年に開催され、絵画、彫刻、建築、工芸、ポスター、舞台美術、教会芸術、庭園芸術、児童美術を網羅した展覧会には135名の芸術家が出展したようです。その状況を記したクリムトの箇所を引用します。「出展作品に合わせ、正方形がライトモティーフとなった簡素な壁面には、現在、傑作として知られるクリムトの絵画16点が間隔をあけて陳列された。陶酔する男女が金色の耽美的な装飾に包まれた代表作《接吻》(1908)は、この時に初公開された。さらに、官能的な女性たちが金箔と鮮やかな色彩で描かれた《ダナエ》(1907-08)、《ウミヘビⅡ》(1904)、ならびに、寓意的な《三世代》(1905)、写実的な人物と平面模様と化した衣装と背景が一体化した肖像画《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像》(1907)、奥行きを放棄した極端な装飾的風景画《ひまわりの咲く庭師の庭》(1908)、《バラ》(1904)等が展示された。ウィーンの様式芸術の頂点を極めたクリムトの壮麗な絵画は、クンストシャウのクライマックスであった。」このようなクンストシャウを振り返った考察が書かれていました。「クンストシャウが、分離派誕生から10年のウィーン近代芸術の成熟を示したのは事実である。しかし、『成熟』は完成というよりも、むしろ新たな段階への移行を意味した。クンストシャウは総合芸術と様式芸術の祭典として成功を収め、ウィーンの様式芸術に確固たる地位と名声を与えたが、そこには商業的要素が混在していた。また、クンストシャウは1907年以降のウィーン工房の方針の一つの到達点であった。ウィーン工房は、彼らが世紀転換期の様式芸術の流れを汲んでいることを人々に明示すると同時に、ウィーン工房が質実な日用品ではなく、美的な工芸品をつくる会社であることを知らしめた。クンストシャウは、『ウィーン工房』という名をただの会社名ではなく、高級工芸品のブランド(商標)にしたという意味で、ウィーン工房のブランド化を決定的にした。」今回はここまでにします。
2022.04.24 Sunday
今日は週末ですが、ウィークディと変わらず工房で過ごしました。ウィークディと違うところは美大生や美大受験生が工房にやってきて、それぞれの課題に取り組んでいたところです。彼女たちの真摯な姿勢に私は背中を押され、私自身も頑張って新作の制作に邁進しました。新作の「発掘~崩層~」の土台加工も残すところ三層目の造形となり、今日は刳り貫き作業にほぼ一日を費やしました。「発掘~崩層~」は陶彫部品を点在して配置する構成ですが、その土台となる厚板は三層構造になっていて、それぞれの層に三角形文様の刳り抜きをしていくのです。一層目と二層目は既に刳り貫きが終わっています。一層目はさらに面上に砂マチエールを施してあるので、三層目が完成すれば、砂マチエールを全ての層に施す準備を整えています。ただし、三層目は鑑賞者の眼に触れる面積が大きいので、三層目の構成デザインが作品を左右するといっても過言ではありません。私の作品は大地から発掘された架空都市を造形しているので、陶彫部品だけでなく、大地を表現する土台にも留意する必要があります。言うなれば陶彫部品をよく見せる補助的な役割ではなく、土台そのものも作品として内容を雄弁に語るものでなければならないのです。今回は区画された範囲を不明瞭にしました。領土の考え方を止めて、周囲を崩れたような曖昧なものとして捉えることにしました。しかも三層とも崩れたものにしています。昨年は円形を土台にしましたが、そこが今回の作品が前作と大きく異なるところです。ここまでくると気持ちが昂ぶり、先を急ぎたくなりますが、一日6時間以上の作業は身体に負担がかかるようで、突如辛くなります。加齢のせいとは思いたくないのですが、集中力が切れるのは自然の成り行きかもしれません。また明日、仕切り直そうと思いなおして工房を後にしました。毎朝目覚めると、新作のことが頭を駆け巡り、また朝から工房に籠る生活が始まるのです。そんな毎日を送っている昨今です。
2022.04.23 Saturday
週末になりました。今日は今週行なった新作の制作状況を書いていきます。今週は火曜日と金曜日、土曜日に砂マチエールの貼り付け作業を行いました。火曜日と金曜日は家内に手伝ってもらいました。そのおかげで「発掘~灰壁~」の直方体の両面になる大きめな長方形画面全体に砂マチエールを施し、現在は乾燥を待っている状態になっています。また「発掘~崩層~」の一層目になる土台に砂マチエールを施しました。今日の土曜日はよく工房に顔を出している美大生に施工を手伝ってもらいました。そのおかげで一層目は全体に砂マチエールを施すことが出来ました。「発掘~崩層~」は残り二層目と三層目に施工を控えていますが、三層目はまだ土台の加工が出来ていないので、砂マチエール施工は暫く休んで、土台の刳り貫き作業をやっていかなければなりません。明日からはまだ厚板材を加工する作業に戻ります。今週の月曜日と木曜日は土台加工をやっていたので、制作工程を行きつ戻りつして、毎日を過ごしていたのでした。水曜日は東京国立博物館に「空也上人と六波羅蜜寺」展に出かけてきました。内容としては、なかなか優れた展覧会で、久しぶりに鎌倉時代の仏像を見て、心が落ち着きました。毎日制作ばかりで、自分を追い詰めていくのは心身とも疲れてしまうので、展覧会に行って気分転換を図るのは必要なことだなぁと思いました。創作活動は気楽なものではありません。他者から楽そうな趣味に見えても自分自身にとっては、生涯を賭けるようなつもりでやっているのです。これは些か大袈裟な言い方ですが、命懸けの道楽とも言え、7月に予定されている個展に備えて自分としては精一杯やっています。個展も今年で17回目を迎えます。何回やっていても創作活動には慣れがありません。毎年新しい世界観を作っているからだと思います。この時期は準備期間としてピンと張り詰めた緊張感が漂います。慣れといえば、その緊張感を楽しめることくらいかなぁと思っています。
2022.04.22 Friday
今日の朝日新聞の「天声人語」に掲載された記事に目が留まりました。「薄く開いた口から6体の極小の仏様がニョロニョロと飛び出す。」これは何のことか、一昨日、私が見に行った東京国立博物館で展示されている空也上人像のことです。記事は貴重な仏像をどうやって運んだのか、おそらく相当苦心したであろう仏像の運搬について書かれていました。少々長くなりますが、引用いたします。「所蔵する京都・六波羅蜜寺からどう運んだのか。『ポキッとなったら大変。まずは外して運ぶ方法を探りました』。~略~しかし調べてみると、金属線が上人の舌に接着され、外しようがない。腹を決め、そのまま運ぶべく寺や博物館と打ち合わせを重ねた。工芸品輸送のために開発された『薄葉紙』が活躍した。指先で裂ける純白の紙で、筒やヒモ、ヘルメットまで自在に手作りできる。極小仏もこれでくるみ、像全体を特製の木箱で囲う。振動で折れないよう木材で支え、万全を期した。運ぶのも一苦労。温度と湿度を一定に保ったトラックで高速をひた走ること約370キロ。展示室で無事な姿を確かめられるまで気が休まらなかったそうだ。『万に一つの失敗も許されない。梱包を解く一瞬の緊張たるや…』。空也を鮮やかによみがえらせた仏師の腕前には舌を巻く。それから八百余年、梱包と輸送の職人たちの心意気にも感じ入った。」美術品の運搬には細心の注意が必要で、それは搬入だけではなく、搬出にも同じように神経を使うのです。日本屈指の貴重な仏像とは比べようもありませんが、私の彫刻作品も自作の木箱に入れて、東京銀座のギャラリーせいほうまで毎年運んでいます。実は作品の木箱をトラックに積み込む時や降ろす時に、私も心の奥ではヒヤヒヤしているのです。個展が開催できる喜びとともに、搬入や搬出の神経の消耗もあって、正直に言えば私はそこから逃げたくなることもあります。美術の展覧会がどんなものであれ、その準備に従事するスタッフの心意気がなければ、展覧会は成立しません。私の場合も専属の業者や若手スタッフに感謝しています。今日の新聞記事を読んで、私には思うところがあったのでNOTE(ブログ)に書かせていただきました。
2022.04.21 Thursday
昨日は上野にある東京国立博物館で開催されている「空也上人と六波羅蜜寺」展に行ってきました。京都の六波羅蜜寺には幾度か訪れたことがあるので、私にとっては久しぶりにお馴染みの仏像との対面になりました。鎌倉時代の写実性に富む慶派の仏像に、若い頃から惹かれ続けてきた私には空也上人像は特別な仏像で、その口から漏れた言葉の一つ一つが阿弥陀如来の姿に変化している造形は、漫画のフキダシのようであり、斬新な特徴を有しています。また寺とは違い、360度どこからでも鑑賞できる博物館の展示は、とりわけ仏像の背面を見ることができて感慨一入でした。空也上人とはどんな人物だったのでしょうか。彼は平安時代中期に生きた僧侶で、庶民層の歎きに耳を傾けていた点で「市聖」と呼ばれていたようです。図録から生涯を記した箇所を引用いたします。「若い頃から、在俗の仏教信仰者として諸国をめぐって名山霊窟で修行をした。荒野に死体が捨てられていれば、一か所に積み上げて油を注いで焼き、南無阿弥陀仏をとなえて弔った。二十余歳になると、尾張(現在の愛知県)の国分寺で剃髪し、自ら空也を名乗った。播磨国(現在の兵庫県)峰相寺に籠っては数年をかけて一切経を閲覧し、阿波・土佐(現在の徳島県と高知県)の国境の湯島という観音菩薩の霊験で有名な島に詣でては、苦行の末に観音菩薩に見えたという。仏教の教えの届きにくい陸奥・出羽(現在の東北地方)にも教化に赴いた。天慶七年(938)、平安京に戻り、托鉢をして得るものがあれば貧しい人や病人に施したため、人びとは上人を『市聖』と呼んだ。また常日頃より休むことなく『南無阿弥陀仏』をとなえたので、人びとは上人を『阿弥陀聖』とも呼んだ。」また、運慶の四男であった康勝が作った空也上人像が、今なお優れた内容をもつ木彫になっていることに私は喜びを隠せません。「一千年以上前に民衆の幸せに生涯をささげた空也上人が、現代でもなおこれほどまでに人びとの記憶に刻まれているのは、仏師の卓越した描写力と、休みなく『南無阿弥陀仏』をとなえつづけたという上人の行状を巧みに造形化した創造性との絶妙なバランスをもつ本像の存在無しには考えられないだろう。~略~平安京における空也上人の最も大きな事業は、人びとの生活をおびやかす災異消除を願った大般若経の書写と十一面観音菩薩立像等の造像だった。この時に造られた十一面観音立像と四天王立像は、争乱の多かった平安京にあって、歴史の波をくぐりぬけながら奇跡的にも守り伝えられ、今もなお人びとの安寧と幸福を見守っている。」(引用は全て皿井舞著)