2021.10.01 Friday
10月になりました。例年なら10月になると秋が深まり、凌ぎ易い季節になります。空調設備がない工房では、年間のうちで数少ない絶好の創作日和になるのです。二足の草鞋生活を送っていた頃は、こんな日は工房に行きたいなぁと思いつつ、教職の仕事に埋没していました。今は毎日工房に通っているので、制作工程が益々進むのではないかと期待しています。10月は基本的には新作の陶彫制作に邁進するつもりですが、そろそろ陶彫部品を配置する全体構造も考えていこうと思っています。漠然としたイメージはあるのですが、もう少し具体化したものを考えていこうと思います。そのためには雛型を作るか、板材を購入してきて、ざっくりと配置をしてみるか、今月の重要な課題になるように思います。一日1点ずつ作っているRECORDは、今月のどこか一日を撮影日にしているので、それまでに今までの作品を全て揃えておかなければならず、過去の作品の下書きを仕上げることに集中していくつもりです。考えてみるとなかなか多忙な1ヶ月になりそうです。秋になると美術館や博物館で大きな企画展があります。美術作品の鑑賞には大変良い季節になるからです。展覧会情報を調べて、可能な限り足を運びたいと考えています。緊急事態宣言が解除されたおかげで、文化活動は元に戻りそうです。映画館等にも行けるかなぁと思っています。ただし、新型コロナウイルスがなくなったわけではないので、感染予防は引き続きやっていく必要があります。私は感染拡大が続いていた時は、目的とする美術館なり画材店に行って、目的が達成すればすぐ帰ってきました。書店を目的もなしにウロウロすることはしませんでした。でも書店やギャラリーをウロウロすることは自分の関心を広げるために結構必要なことだったのではないかと気づきました。コロナ以前のように全て元通りになるとは思えませんが、多少散策の機会も持てたらいいなぁと思っています。
2021.09.30 Thursday
9月の最終日になりました。4月から創作活動一本になり、ちょうど半年が過ぎました。9月も陶彫一辺倒で、30日のうち26日間工房に通いました。窯入れを4回行ったので、工房に行かない4日間は焼成のために照明等の電気が使えない日であったことが分かりました。陶彫制作に始まり、陶彫制作に終わる1ヶ月は、精神的に充実をしていて楽しいと思える時間が多かったと思っています。これは教職公務員として長年仕事をしてきた自分への褒美なんだと思っていて、自分のために使える時間がいっぱいあることに幸福を感じます。同時に彫刻に対する真摯な気持ちとしては、なかなか満足できない内容に愕然とすることもあります。自分は彫刻を始めた学生時代から、どのくらい進歩したのか、何が自分の中で変わったのか、それが実感できない時が時折あります。表現は変貌を遂げたけれど、内容はどうなのか、思索は深く掘り下げられているのか、未だ道半ばにある自分に焦る気持ちも出てきています。今は時間に追われる生活ではないからこそ、自分の立ち位置をじっくり確認しているのだと思っています。創作活動は制作と鑑賞の両輪があって、そこで自らの造形哲学を培っていくものです。鑑賞として今月は「ボイス+パレルモ」展(埼玉県立近代美術館)、「メヒコの衝撃」展(市原湖畔美術館)、それに加えて後輩の彫刻家が所属している「二科展」(国立新美術館)、旧友の陶芸による個展(noie)に行って来ました。美術展以外の鑑賞は新型コロナウイルス感染症の影響で出かけることが出来ませんでした。今月は陶土が足りなくなり、栃木県益子町にある明智鉱業から陶土800kgを送っていただきました。一日1点制作のRECORDは過去の下書きをかなり挽回してきていますが、まだ正常には戻りません。引き続き頑張っていこうと思います。読書はイタリアの宗教画家の伝記を読み終えて、今は脳科学者がアートについて著した書籍を読んでいます。日常生活では水泳を再開したことで、身体全体の体感が変わったように思います。身体が引き締まるほど泳いでいないので体形は変わりませんが、歩く等の行動が速やかになった気がします。スポーツはいいものだなぁと感じるこの頃です。
2021.09.29 Wednesday
私が学生だった頃は、現代彫刻に加えて日本の現代版画も存在感を示していて、私もドイツ表現派の影響で素朴な木版画を試みていました。銅版画家池田満寿夫や木版画家棟方志功が大きな国際コンクールで賞に輝いたことや、緻密な技法を駆使した表現が日本人の気質に向いていることが、現代版画の水準を底上げしているように、当時から私は思っていました。そんな中に銅版画家深沢幸雄がいて、その精神性の強い独特な画風を、折に触れて私は鑑賞していました。彼が千葉県市原市に長く住んでいたことは、市原湖畔美術館に行くまで知らなかったのですが、そこに深沢幸雄記念室がありました。ギャラリーショップで「市原市所蔵作品集」を買い求め、その世界観を堪能しました。初期作品に見られる内面に蠢くものを凝視した世界はどんな契機で作られたものなのか、作品集の解説から拾ってみたいと思います。「『人間を知るためにダンテを読め、それも地獄篇がいい』という川路(柳虹)の言葉のままに深沢はダンテとともに裏切りや邪淫、貪欲などの罪で地獄に落ちた者たちのおぞましい世界へ分け入り、そしてそれらを形象化し版に刻むことに精魂を傾けていく。」とありましたが、やがて尋常とは言えない苦闘も行き詰ってしまうのです。その後に続くメキシコ滞在により、作風が変貌し、よく知られた深沢ワールドの充実した表現が生まれたようです。「1963年5月、深沢幸雄はメキシコに渡り、メキシコシティの尼僧院の修道所での講習会の後に各地の古代遺跡やインディオの村々を巡った。この時受けた強烈な印象から『俺は今迄日本でやってきたあの燻し銀のようなものへの憧れをすてなくちゃいけない。俺はマヤやアステカの連中がやったような、あの”いのち”の刻印、灼き印のようなもの、あれを表現の根底に据えなければいけない』という思いにとらわる。帰国後すぐにこのメキシコ体験は深沢作品に投影され、それまでのモノクロームによる小宇宙から、メキシコ古代遺跡の記号や図形をモチーフに色鮮やかで力強い形態の作品へとその作風を大きく変貌させる。」(引用は全て牧野研一郎著)先日出かけた市原湖畔美術館で開催されていた「メヒコの衝撃」展で見た深沢ワールドには、生命の息吹を象徴する形態で構成された世界が展示してありました。外的な刺激によって創作が大きく変わることの一例を見たように思いました。
2021.09.28 Tuesday
「なぜ脳はアートがわかるのか」(エリック・R・カンデル著 高橋洋訳 青土社)を今日から読み始めました。副題に「現代美術史から学ぶ脳科学入門」とあって、本書はノーベル生理学・医学賞に輝いた脳科学者が著したもので、言わば科学的視点から芸術を論じているものです。科学に疎い私にとっては新鮮な視点です。自分がどっぷり浸かっているアートの世界を別の分野から眺めてみると、どんな発見があるのか、ややもすると脳科学の圧倒的な情報量に自分が辟易しないか心配ですが、冊子としては適度な厚さなので、何とか読んでいかれるのではないかと思っています。本書の冒頭に「欧米の知的世界が、世界の物理的な本質に関心を抱く科学の文化と、人間の経験の本質に関心を抱く、文学や芸術をはじめとする人文文化という二つの領域に分裂している」と主張する分子物理学者C・P・スノーの言葉があり、「本書の目的は、これら二つの文化が遭遇し、互いに影響を及ぼし合うことのできる接点に焦点を絞って、二文化間の溝を埋めるための方法を提示することにある。」とありました。つまり2つの文化の共通項を見出して橋渡しをしようとする試みであることが私にも分かりました。「本書の中心主題は、『科学者とアーティストが用いている還元主義的アプローチは、目的こそ互いに異なっていても(科学者は複雑な問題を解くために、また、アーティストは鑑賞者に新たな知覚的、情動的反応を喚起するために還元主義を用いる)、その方法は似通っている』というものだ。」また一歩踏み込んで本書のタイトルに表れた意味を有する文章にも注目しました。「科学は、より徹底した客観性、自然界の諸事象のより正確な記述へと導いてくれる。科学的分析は感覚経験の解釈の方法の一つとして芸術作品の知覚を探究することで、脳が芸術作品をいかに知覚しそれに反応するのかを原理的に説明し、また、この経験が周囲の世界に関する日常的な知覚をいかに超越するのかを示す洞察を与えてくれる。」とありました。つまり、なぜ脳はアートがわかるのかをここで導入していることになります。内容に関しては今後単元によるまとめをしていきますが、暫くは脳科学の分野からの思索に埋没していきそうです。秋の深まりに本書をじっくり読み込むのが楽しみになりました。
2021.09.27 Monday
ビジョン企画出版社より発行されている新報は、東京の美術館や博物館、画廊で開催された展覧会の評論を盛り込んだ情報誌です。執筆をしているのは美術評論家瀧悌三氏で、私の個展にも必ず来ていただいて感想を述べてくださいます。瀧氏の歯に衣着せぬ論評は、時に辛口で納得させられることが多く、私は絶大の信頼をおいています。「評壇」にあった7・8月の展覧会から私の個展に関する内容を抜粋いたします。「発掘・出土品を模した黒褐色の陶彫がメイン。円盤型で中心から放射状に扇面が連なり、その面に大中小の層状ビルが林立する。盤は半径4m余。実に異様な光景で壮観。次が中品の木彫。胴が凹み曲った長円形を4本の支柱で支え、長円形の中は線状の文様で、円、流線、放射線が絡み合い、光が当たると床に影が映り、それも鑑賞上の景色となっている。さらに陶彫の小品の箱が4点あって、それらの表面も眞四角や長方形の立体紋が施されている。見た目には、発掘品のような実在感があっても、想像架空、フィクションの世界だ。」文章に加えて「発掘~盤景~」の全面画像が掲載されていました。確かに私の作るものは若い頃に旅したエーゲ海沿岸に広がる遺跡がイメージの発端になっているので、出土された建造物を思い浮かべていただくのが、創作者と鑑賞者のイメージが一致するところです。分かり易いと言えばこれほど分かり易いものはないと思っていますが、リアルな発掘現場からどのくらい想像を羽ばたかせ、集合された陶彫部品によって、その場の空間が変容できたかが私の勝負どころと言えます。発掘された都市は完全なものはひとつもなく、風雨によってかなり欠損があって、今も崩壊が進んでいます。私は旅先で、都市の破壊された状態を初めて見たわけで、その足りない部分に何故か美しさを感じていました。左右対称に完璧に整備された建造物は、手間のかかった部分に感銘を受けますが、暫く見ているうちに退屈を覚えるのは私だけでしょうか。日本の茶の湯の器にも同じ美意識があって、完全ではないところが美しいと感じます。「評壇」に書かれていた身に余る光栄な論評の先に、私が見ている次なる景色は破壊と創造です。現在取り組んでいる新作は、どう崩壊された状態を作るのかが課題なのです。