Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 20’RECORD7月~9月アップ
    今回、ホームページにアップした3ヶ月分のRECORDは、先日撮影した年間RECORDではなく、その前に撮影した昨年のRECORDになります。2020年9月分までが昨年撮影したもので、2020年10月分から2021年の9月分までは先日カメラマンに撮影をしていただきました。それも順次アップしていきたいと思います。2020年は年間テーマを色彩にしていて、7月を「朱」、8月を「苔」、9月を「紫」にしていました。ホームページにアップする際に、私はコトバを添えています。色彩から発想するイメージを視覚画像ではなく、コトバで表現しているのです。色彩はフォルムとは無関係に私たちの脳がアートとして反応することを、現在読んでいる脳科学の書籍によって教えられました。色彩に対する考え方が脳科学的にも裏付けられたわけで、まさにアートとしては色彩独自な世界観として認識できているわけです。私はそうした色彩のバリエーションを、日本製による色見本を使うことにしました。それは西洋とは異なる詩情を含んだ語彙で表現されていて、私にはしっくりくるのです。私は自ら紡ぐコトバが拙いと感じていますが、それでもなお日本的にアレンジされた色彩は、私に詩情を与えてくれます。「朱」は神社にある鳥居に塗られた色彩として頭に浮かびました。朱は霊験灼かな色彩かも知れません。「苔」は枯山水の庭園に見られる古石にイメージされるように幾星霜も経た無言の時間が物語るように思います。「紫」は高貴な色彩と感じていて、醤油のことを紫と言うのはどういうことなんだろうと思っています。私にとってコトバを考えるのは困難を伴いますが、それでもコトバにしてみたい欲求があるのです。今回アップしたRECORDをご覧になっていただけるなら、ホームページの扉からRECORDの頁に入れるようにしてあります。ご高覧いただければ幸いです。
    東京両国の「縄文2021」展
    今日は工房に行かず、久しぶりに東京の博物館を訪れました。出かけたのは東京両国にある江戸東京博物館で、「縄文2021」展をどうしても見たかったのでした。家内が用事があるため今日は私一人で行きましたが、予めコンビニで入場券を購入していました。展覧会の副題に「東京に生きた縄文人」とあって、都内で発掘された縄文土器が展示の中心になっていました。私は縄文と名がつく展覧会にはつい惹かれてしまい、今まで何度も出かけました。新潟県や群馬県にも足を運んでいます。新潟県六日町の博物館には岡本太郎著の「縄文土器論」を携えていました。何故そんなに私は縄文土器に惹かれるのか、自ら制作している陶彫は焼き締めで、しかも彫り込み加飾と私が称しているのは、紛れもなく縄文の文様に通じるものがあるからです。自作のイメージは海外の遺跡にあったとしても、脈々と受け継がれる日本人の造形遺伝子が縄文にあると私は信じたいのです。しかも縄文の遺物は世界に類を見ない豊かな世界観を有していて、日本人の自尊心を満足させてくれるからとも思っています。今回の展示内容は土器と土偶に限らず、縄文人の日常生活に迫る多角的な視点があって面白いと感じました。建築家として私が憧れる藤森照信氏が同博物館の館長を務めているので、図録にその執筆があり、その一部を引用させていただきます。「日本列島の新石器時代(縄文時代)にあっては、新石器、土器、定住の3つは世界(ユーラシア大陸)と一致するのに、農業が未発達だった。農業が未発達なのに、人びとは定住して集落を成し、世界一の美しさを誇る土器や土偶を作っていた。~略~多様な気候と多様な地形、これが豊富な海の幸と山の幸をもたらし、縄文人たちの日々の暮らしと表現行為を支えていた。~略~博物館を訪れる日本の人びとは、自分たちの村の祖先の暮らしを見るように見ているのではないか。いろんな時代に人びとの大移動と盛衰が絶えなかった世界では、現在その地に住む人びとが、新石器時代のあれこれを遠い昔の先祖の話として眺めることは少ないに違いない。」日本は島国で、他民族が交わる歴史的背景がなかったことにも関係していて、私も縄文人が自分と繋がりがあると信じているのです。とりわけ私の「発掘シリーズ」の遺伝子は縄文時代にあると言ってしまいたいと思うくらいです。勿論弥生時代になれば大陸から渡来した人びとによって稲作(農業)が齎され、純粋な日本人にも大陸の血が混入されていったとは思いますが、縄文時代の土器・土偶の美しさに私は魅了され続けているのです。
    「色と脳」のまとめ
    「なぜ脳はアートがわかるのか」(エリック・R・カンデル著 高橋洋訳 青土社)の「第10章 色と脳」をまとめます。「フォルムによって色が決定されないとなると、特定の具象的文脈のもとでは『妥当ではない』ように思われた色が、『実のところ妥当である』と見なされるようになる。というのも色は、特定の物体を表現するためでなく、アーティストの内的なビジョンを伝えるために用いられるようになったからである。さらにフォルムと色の分離は、霊長類の持つ視覚システムの構造や生理的特徴に関する知見、すなわち『フォルム、色、動き、奥行きは大脳皮質で個別に分析される』という知見とも合致する。」冒頭の文章が示す通り、本章では色覚等が脳に作用するところを扱っています。「私たちの脳は、おのおのの色を独自の情動的特徴を持つものとして処理するが、色に対する私たちの反応は、それを見る文脈やそのときの気分に応じて変わってくる。文脈に関係なく情動的な意義を帯びやすい話し言葉とは異なり、色は、トップダウン処理の影響をはるかに受けやすい。そのため同じ色が、人によって、あるいは同じ人でも文脈が異なれば違った意味を帯びうるのである。」次は色と情動に関しての論考になります。「芸術作品に対する情動反応に色彩が及ぼす深甚な効果の生物学的基盤は、視覚システムと他の脳領域の結合にある。」これに関する偏桃体の説明があり、私は次の文章に目が留まりました。「色は物体の重要な構成要素ではあるが、孤立した属性ではなく、明るさ、フォルム、動きなどの他の属性とも不可分に結びついている。その結果色覚は、二つの機能を果たしている。明るさとともに色は、特定の物体が、輪郭づける境界のどちら側に帰属するのかを画策することを支援し、陰影や一群の物体の構成要素をめぐるあいまいさを解消する。かくしてたとえば、色は花束のなかから一本の花を見つけられるようにする。」なるほど、脳の働きが日常生活の中で取捨選択に役立っている状況が分かりました。つまり、「私たちは晴れか曇りか、あるいは明け方か真昼か夕方かなどといった日照条件の違いにもかかわらず、たとえば木の葉を見るときにはいつもそれを緑色の葉として認識している。」ことになるのです。それは「色覚恒常」と呼ばれるものだそうです。次は光に焦点をあてた論考が登場してきます。今回はここまでにします。
    「具象から色の抽象へ」のまとめ
    「なぜ脳はアートがわかるのか」(エリック・R・カンデル著 高橋洋訳 青土社)の「第9章 具象から色の抽象へ」をまとめます。本章では2人の画家が登場します。マーク・ロスコとモーリス・ルイスです。2人の作品に共通しているのは色彩による還元が成されているところです。「高度に単純化され、色彩の深さに焦点を置いた還元主義的な視覚言語と、ロスコがそれを用いて生み出した驚くべき多様さと美は、以後の生涯を通じて彼の作品を特徴づけることになる。ロスコは、その種の還元主義的アプローチを不可欠と考えていた。彼は次のように言う。『ますます私たちの社会は、環境のあらゆる側面を限られた関連づけで包囲するようになってきたが、それを破壊するために、事物の馴染みの側面を粉砕しなければならない』。彼の主張によれば、アーティストは色、抽象、還元を極限まで突き詰めることによってのみ、色やフォルムに対する慣例的な関連づけから鑑賞者を解放して、鑑賞者の脳に新たな思考、関連づけ、関係、そしてそれらに対する情動反応を生み出すイメージを創造することができるのである。」一方、ルイスの表現はこんなふうに書かれていました。「ルイスはアクリル絵具を希釈して、完成品ではない未延伸の大きなカンバスに直接注いだ。そうすることで絵具は自然に垂れ、カンバスの素材に直接染み込んだ。その結果、奥行きの錯覚は生じなくなり、色彩がカンバス表面の必須の構成要素になった。ブラシやスティックを用いずに絵具を垂れるままにまかせるこの技法は、アクション・ペインティングと大きく袂を分かつ。」まとめとして次の文章を引用いたします。「ともに抽象表現主義の分派であるアクション・ペインティングとカラーフィールド・ペインティングは、いずれもフォルムと色の分離を巧みに利用し、線と色を強調するために意図的にフォルムを放棄した。ポロックとデ・クーニングは柔和な外形とあいまいな輪郭を描くことで、脳の持つ限られた注意力をより強くパターンに向けられるようにした。ロスコ、ルイスらカラーフィールド画家は、色そのものを強調することで、さらにはっきりと注意力に焦点を合わせた。~略~具象的要素を欠く抽象画は、具象画とは非常に異なるあり方で脳を活性化させることがあげられる。つまりカラーフィールド・ペインティングは、色に関する関連づけを鑑賞者の脳に引き起こすことで、知覚や情動に影響を及ぼすのだ。」今回はここまでにします。
    週末 中規模作品の制作開始
    現在、来年の個展に向けて新作を作り続けていますが、東京銀座のギャラリーせいほうの空間を考えて、大規模な作品1点、中規模な作品1点、小品数点を考えています。ここ数年は同じような規模で作品を用意していますが、来年も似た状況になる予定です。ただし、今までと異なるコンセプトを考えていて、それが新しい試みになると言えそうです。私は今までの個展で発表した作品は、陶彫を使った集合彫刻の「発掘シリーズ」と木彫を使った集合彫刻の「構築シリーズ」があります。いずれシリーズ化していても独立した表現方法でやっていて、同じものは2つとありません。今日から作り始めた中規模の作品は、以前から作っている大規模の作品と同じ表現方法でやってみようと考えていて、大規模作品と中規模作品に兄弟関係が生まれるようにしていきます。大規模作品は、前からNOTE(ブログ)に書いているように石庭が発想の源にあり、床を這う形態を採ります。今日から始まった中規模作品は、同じ表現で縦に伸びる形態になる予定です。横と縦にした2つの作品が個展会場に並列するわけですが、2つで一つの空間を見せようとは思っていません。2つの作品はそれぞれ異なった題名がついた別々の作品ですが、表現方法を同じにしたというだけです。制作を始めた私としては、そのうち混乱しそうで不安もありますが、会場の統一感は図れるのではないかと思っています。まず中規模作品の最初の陶彫成形をやってみました。今日は工房の中の気温が一転して冬のような温度になり、作業はやりやすくなりました。久しぶりに上着を来て作業をしました。毎回来ている美大受験生も上着を羽織っていました。彼女は通常の高校の授業よりも専門の勉強の方が楽しくなっているようで、専門に関わりのない授業はボンヤリとやり過ごしているのではないかと察しています。その分、予備校で出された課題を工房で夢中でやっていて、表情も生き生きしています。夕方、彼女を家まで車で送って工房を後にしました。