Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 休日出勤&新作土台作り
    今日は日曜日ですが、ウィークディの仕事の延長線上の仕事が入っていました。私の立場ではこれはよくあることで、今年度はコロナ禍の影響で休日出勤する機会は減っていました。今日は職場ではなく、横浜の関内にあるビルの一角に出向きました。午前中はこの仕事をやり遂げて、午後になって創作活動を始めましたが、陶彫制作をやるには中途半端な時間になって、先週から新作の土台になる厚板材に、陶彫部品を配置するデザインを進めることにしています。そろそろ厚板材に陶彫部品が収まる穴をあけていく作業に移ります。穴には完全に刳り貫いてしまう穴と、穴を貫通せずにレリーフ状にするものがあります。完全に刳り貫いた穴に入る陶彫部品は床から直接立ち上がる造形になり、レリーフ状になった穴に入る陶彫部品は、比較的高さが低い陶彫部品になります。切断した厚板材はどれも鋭角な二等辺三角形になっていて、それをぐるりと配置して円形にしていきます。二等辺三角形は厚板材のまま床に置くのではなく、それぞれの二等辺三角形に板材を加工して箱型の厚みを作ることに決めました。ちょうど下駄を履かせるような塩梅になります。床から10センチくらい高くすることにして、それに伴う板材が必要になり、近隣の木材店に出かけました。今日は板材の購入で終わってしまいましたが、次の週末から二等辺三角形の箱型の土台作りを実際に始めます。まず最初のモデルを作っていきます。次の週末から職場は冬季休業に入り、また休庁期間にも突入するので、箱型の土台作りに集中できるかなぁと考えています。実は陶彫部品も足りているわけではないので、箱型の土台作りと併行して陶彫制作もやっていかなければなりません。いよいよ多忙になる新作作りですが、今年はコロナ渦の影響で街に出るよりは工房に篭っている方が安全かもしれず、また4月に母が亡くなったことで正月もなく、新作の制作に手間暇かかっても問題になりません。寧ろちょうど良い機会を与えられたと解釈しています。寒さにだけは気をつけて頑張りたいと思います。
    週末 冬ざれた工房の風景
    週末になりました。今週末は丸2日間の時間が取れず、明日の午前中は横浜の中心街に出かけていき、某団体が主催する表彰式への出席が予定されているため、今まで続けてきた陶彫の制作サイクルを見直すことにしました。それでも今日のところは陶彫の彫り込み加飾を行ないました。前にもNOTE(ブログ)に書きましたが、彫り込み加飾は結構時間がかかります。コツコツとした地味な作業ですが、陶彫部品の雰囲気を決定するものなので、雑に扱うことは出来ません。今日は腰を落ち着けて、これをやってしまおうと思い、じっくり取り組みました。あまり身体を動かさない工芸的な作業なので、工房内の寒さが身に沁みました。工房の壁には断熱材がないため、工房内の空気は外気と変わらず、コロナ渦の影響で朝のうちは多少なり窓を開けているため、厚手の作業着を纏っていました。今日は美大受験生が来ていました。彼女の座っている作業台の傍に大型ストーブを置いています。私が彫り込み加飾をやっている作業台と離れているため、私が時々ストーブのところへ行って手を温めていました。毎年のことながら冬ざれた工房の風景がやってきたなぁと感じます。そろそろ温かい湯茶の準備をしようと思っています。工房は春夏秋冬を肌で感じることが出来て、また周囲の木々が季節によって変化していくので楽しい反面、夏と冬は作業が気温に左右される厳しさがあります。昨年の灯油貯蓄分がなくなり、近くのガソリンスタンドまで灯油を買いに出かけました。栃木県益子や茨城県笠間にいる陶芸家の友人たちや長野県にいる彫刻家の師匠に比べたら、横浜はまだ気候が身体に優しいのではないかと察していて、これで根をあげてはいけないと自分を戒めています。横浜ではまず陶土が凍ることはないからです。夕方、美大受験生を車で自宅近くまで送ってきました。
    「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第45節~第46節について
    形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第45節から第46節までのまとめを行います。この第46節で第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」が終わりになります。第45節では命題論理学は用いる意味での判断という単元名があり、それを言い表している文章を拾ってみました。「どの学問的な認識にとっても必要な批判的な見方、すなわち学問的な判断ならどれもが甘受せざるをえない批判的な見方を無事経由することによって、学者は絶えざる変動の中で対象性そのものをー判断作用の中でまさに彼にとって存在するもの、もしくは認識者としての彼が目標にする現実としてーそして他方では推定された対象性そのもの、すなわち推定された結論、推定された規定、推定された多数や総数そのものなどとして対立させてきた。~略~命題論理学が用いる意味での判断は推定された事態そのもの、しかもそれぞれが完結した事態である。判断以外の範疇的に推定された諸事項はすべて《判断》に含まれる諸部分として機能している。」第46節の批判の成果としての真理と誤謬について冒頭の論考に次のようにありました。「批判の最終成果はー理想的に言えばー《真理》もしくは《誤謬》である。ここで言う真理とは正当で、批判的に確認された判断のことであり、したがってこの判断に対応する範疇的な対象性《それ自身》との合致によって検証されている。」第46節のまとめになるかどうか分かりませんが、最後の文章に私は注目したので引用しておきます。「理想的な意味での認識とは〈それぞれの対象性自身が、あらゆる範疇的諸形態について、現に獲得された真実の存在を表わす名称〉であり、その真実の存在は範疇的な諸形態の中でまさにそれ自身の真実の存在を示し、真実そのものとして根源的にそれ自身を構成するのであり、しかも自らそうした範囲内で、まさに《その範囲内で》認識的にも真実存在するものである。」次は第5章に進みます。
    「諸対象についての見方と諸判断についての見方」第43節~第44節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、第4章「諸対象についての見方と諸判断についての見方」があり、今日はその第43節から第44節までのまとめを行います。第43節では形式的な学問論としての分析論は形式的存在論であるという論考がありました。まとめとなる文章を引用いたします。「形式的な学問論としての分析論は諸学自身と同様、存在を目標にしており、しかもこの分析論のアプリオリな一般性によって存在論的である。この分析論は形式的存在論である。そのアプリオリな諸真理が述べているのは、諸対象一般にとって形式的な一般性で妥当する事柄、すなわち諸対象は一般にどの諸形式で存在しているのか、あるいは存在しうるのか、ということである-もちろん判断に即応または依拠して。」次の第44節では形式的存在論としての分析論から形式的命題論としての分析論への転換について論考されていますが、2つの段落に分かれている中で、私は学者の見方について興味関心をもちました。「ここでは憶測された事柄と実際の事柄との区別によって(広い意味での)単なる諸判断の領野と諸対象の領野との区別も用意されている。」とあり、その中で学者の認識努力を伝えていました。「学者はすでにずっと以前から〈明証性にはただたんに明確性の程度差があるだけでなく、人を欺く明証もありうること〉を教えられている。それゆえ彼にとっては憶測された明証と正当な明証との区別もある。学者の判断は最も完全な正当な明証によって確認された判断でなければならず、そのような判断のみが、学問の現有成果全体の中へ理論として受け容れられるべきである。このことが学者独自の判断の仕方を生じさせるのであり、それは言わばジグザグの判断作用である。」今日はここまでにします。
    「素人っぽさ」について
    「建築とは何か 藤森照信の言葉」(藤森照信他著者多数 エクスナレッジ)の「白井晟一の素人性と縄文的なるもの」のまとめを行います。本書はこの単元から著者がインタビューに答える形式になり、会話の気楽さがあって楽しい内容になっていました。「(白井晟一の作った)《歓帰荘》が縄文的だという証拠はいくつかあって、よっぽどやりたかったにちがいないんだけれど、一種の竪穴式住居なんです。一階でやるとたんなる湿気の多い部屋になってしまうので、わざわざ二階に上げて、二階の入口の踏込をさらに少し高くして、そこから沈んで入る。天井をものすごく低くおさえていますし、この暖炉の異様な大きさとかね。茅葺ですし。~略~素人性というのは結局何かと言うとね、建築なら造形とかディテールとかプランとか、それをたどっていっても誰か建築家の流れに入らない、プロの人たちはそれを素人だと思う。白井さんもそうです。~略~素人そのものの魅力というのは結局どういうことかと言うと、最初からプロという人は絶対にいない。みんな子供からはじまる。それが、建築学科に入ってから、プランニングと全体の造形、事務所ではディテールというような、教育で『正統な建築』を教えられる。子供のとき図画工作をやって粘土で遊んだりいろいろ作ったでしょ。ああいうのはみんな素人なんです。だから実は『素人っぽさ』ってのは最初は誰の中にもあって、それを克服すべくトレーニングされるんだけれど、大人になってからあらためてその『素人っぽさ』を見たときに、建築家であれ、誰でも懐かしさを感じる。」私は世間で認められている建築家の中にも素人っぽさを持ち込んだ人がいたことが、ちょっと驚きでしたが、アートの世界ではそれは普通のことで、美術の専門教育に弊害があると言っている人もいるくらいで、素人っぽさが受けているアーティストは大勢います。文中に以前映画で観た「シュヴァルの理想宮」のことが出てきて、建築の素人っぽさとはそういうことかと納得してしまいました。「素人か玄人かと言えば、本当にいろいろ考えさせられたのは『フンデルトワッサー問題』です。ウィーンに行くと、名だたる建築の名作には目もくれず、フンデルトワッサーの建築を見てる人のほうが多い。彼は自分で建物全体を作ったことはなくて、全部既存の建築にベタベタやって、たいしたことをしているわけじゃないにもかかわらず、みんなが引かれるという…。俺もフンデルトワッサーで行こうかなと思ったぐらいですもん(笑)。」