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  • コロナ渦の文化イベント
    私の職種では年間を通じて、いくつかのイベントが計画されています。野外で行う体育的なイベントや室内で行う文化的なイベントがその代表的なものですが、野外に比べて室内で行うイベントは、新型コロナウイルス感染症の影響が色濃く出て、開催を中止したところもあります。医療機関や保健所の助言に従えば、この文化的イベントの開催を危ぶむ声もあるのですが、職場を運営する効果を考えた時に、多少工夫してでも開催をしていこうという判断を私が行いました。美術作品の展覧会などは比較的開催可能なところですが、合唱や舞踊という身体を使ったものは神経を使わざるを得ません。実際に7月に私自身が個展を開催しているし、美術館へも鑑賞に出かけているので、今日は検温チェックとマスク着用で防備して、終日の文化イベントに臨みました。新型コロナウイルス感染症対策は孤立化を招き、私たちの職種でも少なからず影響が出ています。日本の経済政策も、感染防止をしながら経済を回すことでバランスを取っているようです。私たちの職種でも人々のメンタルな面を、こうした文化イベントでそれぞれ救援や支援をしながら、感染症との綱渡りをしている感覚があります。今年は立場上、難しい判断に度々迫られてきた私ですが、職員と合議を繰り返し、何とか辛うじて職場を運営している状況になっています。それでもやってよかったと思える文化イベントは、芸術や文化のもつ力に生きる喜びを見いだせるので、今日は思った通りの充実した一日になりました。
    「Ⅱ 庭園とランドスケープについて」のまとめ
    「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅱ 庭園とランドスケープについて」のまとめを行います。ここではノグチの代表作品である4つの庭園が登場します。それぞれの庭園に関する文章からひとつずつ引用して、ノグチの庭園に対する考え方を示したいと思います。「ぼくが力をつくしたのは、日本人を通して歴史の黎明からぼくらにまで受け継がれてきたこの石の儀式をぼくらの近代という時代とその必要性につなぐ道を見つけることだった。」(パリ・ユネスコ庭園)。「上から見おろすと、この庭はそれをとりまく花崗岩の巨大な枠のなかに収められている。ドラマは静寂のうちに情け容赦なく演じられる。~略~太陽、立方体、ピラミッドはおたがいどうし、そして庭全体の地形と関係しあわなければならなかった。」(イェール大学図書館内庭)。「岩たちは大地の一部であるかわりに力を爆発させ、庭から浮きあがっているように見える(少なくともそれが意図だった)。庭そのものは造形されている。それは人間の手でつくられ、したがってーこれは彫刻だ。同心円状に敷かれた舗石のパターンは日本庭園の熊手に引かれた筋に似ていると言われるかもしれないが、それはむしろ様式化された海の波という中国の起源にまでさかのぼる。」(チェース・マンハッタン銀行)。「デザインの基本となるのは、この場所、大地とその上の空の神聖性に対するぼくの敬意の念である。ぼくはこの場所の賛歌を立ち昇らせたかった。大地そのものが媒体となるはずだ。敷地に石で建造された五枚の曲線を描く擁壁が、この大地をいくつかの大きな弧のなかにすっぽりと入れる。擁壁は、平らな歩行可能のエリアが以前はまったく存在しなかった場所に、そのようなエリアをつくるための装置である。」(イスラエル・ローズ彫刻庭園)。ノグチにとって単体の彫刻作品より、場の空間を創出させる庭園の造形の方がしっくりきているように思えます。それは伝統的な日本庭園ではないにしても新しい空間造形のカタチだろうと思います。
    「Ⅰ 彫刻について」のまとめ
    「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅰ 彫刻について」のまとめを行います。「Ⅰ 彫刻について」は10章に分かれていますが、論文形式でありながら短く内容がまとまっていました。彫刻に関するノグチの考え方がよく分かり、当時ノグチが考えていた空間把握などが現在にまで続いている様子が散見され、興味関心を持ちました。「ぼくらの空間体験は時の断片に限定されているのであるから、成長が存在の核心となるべきだ。ぼくらはふたたび生まれる。そして自然のなかに成長があるようにアートのなかにも成長がある。」また近代の彫刻の歩みに関して、「近代の彫刻には最初からふたつの傾向があったと。ひとつはメカニスクから派生し、それに基礎をおいてそれ自体へのフォルムへ向かうもの。もうひとつは自然の概念から出発してその内的な意味を探るもの。前者は、ロシアの構成主義者による作品にみられるように過去の人文主義的な伝統とはばっさり縁を切り、非具象と機械化の極限まで達する。後者のより有機的なタイプの最良の例は、カルダーのモビールやジャン・アルプの作品のいくつかである。」と語られていました。原初的な美については、「モダンアートに親しんでいる人びとは、すぐにプリミティヴに魅了される。しかしながらアーティストによる発見の過程は、おそらくは類似したような欲求と満足とにもとづくのだろうが、アーティスト自身の創作の展開に根ざし、それに付随するものなのである。」とありました。さらに建築と彫刻の関係性についての問いかけがあり、これはノグチの時代以降も続く課題なのかもしれません。「建物はほんとうにただの物理的なシェルターなのか、あるいは一種の象徴的オブジェであるべきなのか。建築家と彫刻家は同一であるべきなのか、それとも組み合わされるべきなのか。」ノグチが後半生を通じて、庭園や遊び場のデザインを自ら率先して施工してきて、その都度思いを巡らせた思考の軌跡を辿ってみることがその答えになるだろうと私は思っています。
    「形式的命題論と形式数学」第26~第27節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その中の第2章として「形式的命題論と形式数学」があり、今日はその第26節から第27節までのまとめを行います。まず、形式的命題論と形式数学との統一に関して述べられた箇所で気を留めた文章を引用いたします。「人々は論理的な形成物を、この場合には実在物とは言えないにもかからわず、実在の事物と同じように扱っている。それゆえ論理学的な形成物は主観性と客観性のはざまで、曖昧に浮遊するのである。」またこんな一文もありました。「数学と論理学との関連が初めて明らかになったのは、形式数学の形成物の類似物として、しかも同じ客観的ーイデア的な見方で、形式論理学の形成物が主題化されたときであった。数学においてはこの抽象的な見方が強固な伝統になって、以前からもっぱら数学的理論化の理論的な目標を規定していたのである。」これは論理学的な形成物を代数学的に理論化する可能性を探る考察であり、さらに次の一文へと続いていました。「すなわち〈主・客両面をもつ各教科の言わば固有の意味についてのラジカルな原理的詳察〉こそが、伝統の呪縛を打破して諸教科の問題設定の統一性を内的に理解しうるためには、以前にも今後にとっても同様に必要であってー数学者たちのように理論的な技術による統一で満足したり、大多数の哲学者たちのように、原理的な洞察によって理解するのではなく、推測によって〔主・客を〕分離することで満足することではない。」そこにB・ボルツァーノの洞察が登場しますが、著者は達成度の点で今一歩評価をしていません。最後にこんな一文がありました。「形式論理学には、イデア的な諸意義の分野に還元される推論式論だけでなく、基数論、序数論、量数論および当然さらに形式的な量論一般、組合せと順列の理論なども含まれることになる。」
    「形式的命題論と形式数学」第23~第25節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その中の第2章として「形式的命題論と形式数学」があり、今日はその第23節から第25節までのまとめを行います。僅か数頁の内容ですが、語彙や意味が難解なため読み解くのに時間がかかり、まとめといっても要旨をまとめることは私には到底出来ず、気になった箇所を書き出すことで、まとめの代わりにしたいと思います。「論理学が形式的な事柄という概念に拘束されている間は、つまり論理学が命題論の基本的な諸形式とそれらによって構築される諸形式の中で、すべての《名辞》を無規定な可変項として扱っている間は、論理学が可能な真理について獲得しうる認識は〈無矛盾性の分析論だけに直接適合する認識〉、したがって〈少数の命題を除いて、言わばこの単純な分析論が厳格に認識を豊かにする形式的な諸理論の平凡な転用に過ぎない認識〉だけである。」次にライプニッツの普遍学が登場してきますが、それを踏まえて形式存在論の新たな問題が掲げられていました。前後の文章がないため、脈絡が掴めないところもありますが、それを承知で引用いたします。「この分野内でアプリオリに形成され考案される派生形態もすべて、この範囲に含まれるが、これらの形態は次々に繰り返される構築作用によって次々に新たな形態が生じることになる。このような派生物になるのが(有限および無限の)集合と基数のほかさらに、組み合わせ、関係、級数、結合、全体と部分などである。こうしたことからまず考えられるのは、このような数学全体を存在論(アプリオリな対象論)、ただし或るもの一般の純粋な諸様相と関係する形式的な存在論と見なしうる、ということである。」最後に形式的命題論と形式的存在論のテーマの違いを述べた箇所を引用します。「われわれはせめて〈判断することは諸対象について判断し、それらについて諸特性あるいは相対的な諸規定を陳述することだ〉ということだけは想起すべきであり、そうすれば〈形式的存在論と形式的命題論とは主題設定が明らかに異なるにもかかわらず、やはり密接に関連せざるをえず、おそらく不可分な関係にあること〉に気づかざるをえない。」