2020.10.31 Saturday
週末になりました。今週はウィークディの夜に工房に通っていたおかげで、彫り込み加飾が進みました。いつものように今日の作業としては土練りを行い、大きなタタラを複数枚準備しました。それらを使って明日は成形を行います。制作の後、夜になって家内と映画を観に川崎市まで出かけました。チェコ・スロヴァキア・ウクライナ合作による「異端の鳥」が新聞記事で紹介され、是非観たいと思っていたのでした。この作品は、どの映画館でも上映しているものではなく、上映館が限られていたので、川崎駅前にあるTOHOシネマズに行きました。先日観に行った「鬼滅の刃 無限列車編」とは違い、「異端の鳥」は観客も少なく、しかも一日1回の上映なので、夕食後の遅い時間帯に関わらず、車で出かけました。評価が分かれる映画という新聞記事に納得できる内容で、詳しい感想は後日に改めたいと思います。今日は10月最後の日なので、今月の創作活動の振り返りをしてみたいと思います。4回の週末を全て陶彫制作に充てていたため、現在16点の陶彫部品が立ち上がっています。そのうち大小5点の焼成が終わっています。ということで窯入れは今月から開始しました。栃木県益子から陶土が800キロ届き、陶土の補充も出来ました。陶彫制作においては順序良く進んでいて、今月は充実していたと言ってよいと思います。一日1点ずつ制作しているRECORDは、18日(日)にカメラマンが来て撮影を行いました。それに間に合わせるために下書きの山積みを解消しました。RECORDは先月あたりから夢中で制作に励んでいたので、何とか日々の流れに追いつき、通常の制作サイクルに戻しました。RECORDも充実していたと言えるでしょう。鑑賞は自分にとって身近な彫刻関係の展覧会に足を運びました。「脇谷徹ー素描ということ」展(武蔵野美術大学美術館)では刺激をもらいました。彫刻を始めた頃に記憶が戻り、彫塑に悩んでいた時代から自分はどのくらい成長があったのか、私は今も自分自身のキャリアを感じることができず、自分を戒める展覧会だったと感じました。コロナ渦の中で自粛していた映画は、今月になって久しぶりに行きました。「鬼滅の刃 無限列車編」(TOHOシネマズ鴨居)で話題沸騰中のアニメ劇場版を観てきました。今日観に行った「異端の鳥」(TOHOシネマズ川崎)は、その真逆にある映画で、一般受けはしないけれども、私のとって印象に残る映画となりました。やはり映画は面白いと再認識しました。読書は日系アメリカ人彫刻家のエッセイと論理学に関する書籍を読んでいて、来月も引き続き読んでいきます。芸術の秋はまだまだ続きます。来月は今月以上に充実させたいと願っています。
2020.10.30 Friday
創作活動を行う上で、公務員との二足の草鞋生活で厳しい面は、何といっても時間確保です。週末だけではイメージ通りの作品が生まれず、作業の時間をどこで確保するのか、常に考えてきました。30年もこんな生活をしていれば慣れそうなものですが、温度や湿度に左右される気候であったり、その時の気分であったり、昼間の仕事の疲労の度合いであったりして、ウィークディの夜に工房に通うのを躊躇してしまうのです。おまけに夜はRECORDの制作やNOTE(ブログ)の作成があるので、仕事から帰ってから、工房に行こうかやめようか、日々迷っています。私の二足の草鞋生活も来年3月末までで、その後は創作活動における作業の方向転換があります。それまでは出来る限り何とかウィークディの夜に工房に通っていこうと思っています。今週はよく工房に行っていました。今日も工房から帰ってきたところです。工房にいる時間はせいぜい1時間程度ですが、それでも作業は確実に進みます。蛍光灯に照らされた陶彫部品は、彫り込み加飾をするのにちょうど良い状態で、しっかり集中できます。工芸的な作業は夜の方が向いているのではないかと思うところです。現在、昼間の仕事は来年度人事を見据えた面接や書類等で悩ましい状況が続いていますが、陶彫制作に向き合っていると、たとえ1時間でも全てが忘れられ、創造の神が別世界に自分を運んでくれます。作業をすれば心地よい瞬間が訪れるのですが、工房に行くまでの心の葛藤が何とも微妙です。季節の変わり目で心身とも休息を必要としているのかなぁとか、いやこの季節だからこそ快適に制作ができるのではないかとか、自宅に帰りつく前についつい考えてしまうのです。帰宅後の工房通いは来年3月までなので、これも楽しみのひとつと考えればいいのだと自分に言い聞かせています。
2020.10.29 Thursday
「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)の小節のまとめを行います。本書の本論は初めに第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」があって、その中の第3章として「演繹的諸体系の理論と多様体論」があり、今日はその第33節から第36節までのまとめを行います。「演繹的諸体系の理論と多様体論」はこの第36節をもって終了になります。相変わらず難解な文脈を繰り返し読んで、これが主訴になりそうだと思える箇所に私はラインをつけています。それだけを書き出しても意味が通らないと思いますが、自分なりの重要箇所をチェックしたいので、そうさせていただきました。まず形式数学におけるゲームについて書かれた箇所に注目しました。「人がゲームの各シンボルを、実際の思惟の諸対象や各個物や各集合や各多様体を示す記号と見なし、そしてゲームの諸規則に、それらの多様体にとっての法則の諸形式という意味を与える場合に初めて、実際の多様体論になるのである。」続いて「すなわち普遍的な多様体論は独自の自由な仕方で公理の諸形式や、総じて一般に、前提されて妥当する諸命題の諸形式によって、そのつどの多様体の形式を定義し、そのうえさらに判断の形式論の中に体系的に登場する諸命題の基本的諸形式と、それらの形式に内包されている論理学的な諸範疇の、それらすべてを自由に処理し、しかもそのことが何を意味するかを最終的に自覚していなければならない。」とありました。最後に問題提起があった箇所を書き出します。「一般にどの学問も〈偶然に寄せ集められた諸真理の多様体でなく、むしろ互いに結合され、しかも必ず統一された同一分野に関係する諸真理の多様体〉である。一つの学問の無限に継続する諸命題の全体が〈論理的ー定言的な諸概念によって、有限数の純粋な公理形式に基づいてアプリオリに構築されるのはいつであろう?一つの理論形式を確定する一群の公理形式が確定していて、分野の形式が一つの《数学的》もしくは一つの《確定》多様体であるのはいつであろう?〉もしこの条件が満たされていれば、その形式は一つの《演繹的》すなわち《理論的に説明する》学問の体系形式である。」今回はここまでにします。
2020.10.28 Wednesday
「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅳ 日本について」のまとめを行います。日系アメリカ人の彫刻家であるノグチは日本との関係も深く、海外の視点で日本を論じていることが多々あります。「たとえばぼくらアメリカ人の活力と想像力、ぼくらの効率性とやる気に対する羨望。このすべてを日本人は身につけたがっていた。強くなり、よく食べ、この活力をもちたがっていた。ぼくはそれとなく言ってみた。モダンであるとはぼくらをコピーすることではなく、強さと発想とを自分自身のルーツに求め、自分自身であることを意味するのだと。」またノグチ自身についてもこんなことを語っています。「ぼくの発展の特徴はなにかと尋ねられるとすれば、それは子ども時代以来ほとんど忘れかけていた身近な自然の再発見だと思う。自然をこんな形で知ることはだれの子ども時代にもあるだろう。それでも大人として自然をふたたび知るため、自分の手を自然の泥のなかで疲れさせるためには、人は陶芸家あるいは彫刻家でなければならず、それも日本においてでなければならない。」ノグチの代表的な作品に《あかり》があります。その出会いを語った箇所がありました。「岐阜のランタンが生き残ったのはなぜか。少なくともひとつには、今日ほとんどのランタンに付与されている装飾的使用がある。しかしそのほかにも伝統と気質という理由があり、それゆえに岐阜提灯(ランタン)は尊重されているのである。このことはその品質と関係がある。すなわち薄い紙、竹ひごのほっそりした螺旋が他にならぶものなき光と優美さとに貢献する。岐阜提灯は儚いものーたとえば桜の花、たとえば生ーに対する日本人独特の嗜好に訴えかける。」これを現代彫刻として捉え、作品化したのはノグチが初めてであったわけですが、ヴェネチア・ビエンナーレでは欧米からこれをプロダクト・デザインとして解釈されてしまい、ノグチにとって不本意な結果になってしまったこともありました。しかし、ノグチは日本の伝統について斬新な発想を持ち込んだことは事実です。
2020.10.27 Tuesday
「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅲ 劇場とダンスについて」のまとめを行います。ノグチの幅広い表現分野の中で、ノグチの空間解釈を具現化した極めて重要な方法が舞台美術でした。舞踏家マーサ・グレアムの舞台装置は、画期的で特筆に値するものでした。舞踏だけでなく演劇にもそうしたノグチの考え方が表れていました。「真空は存在しえないという単純な理由から真空が回答ではないのは明白である。劇のニュアンスすべてを明確にするほどに、論理としてはきわめて透明ななにかがそこになければならない。ある意味で、このなにかは裸の舞台よりもなおいっそう大きな空隙を創出することによって、無そのものよりもなおいっそう無でなければならない。それは空間を期待という一種の魔法で満たさなければならないのである。」舞台に対する空間解釈は無から始まるとノグチは主張していて、続くマーサ・グレアムとのコラボレーションに関するインタビューでも同じことが述べられていました。「思うに、ぼくらは感情がチャージされた空間をもつダンス・シアターを見つけなければならなかった。その空間とはもちろん彫刻だ。空間の彫刻だ。マーサはその彫刻的空間のなかを動きまわる。マーサの関心が絵画よりも空間にあったと言うのは正しい。絵画とは実体の模倣だ。彫刻は実体そのものだ。ぼくは彫刻を空間に広がり、それを満たすものと考えている。」ノグチにとって舞台美術は空間彫刻として存在していたと考えていたようで、所謂舞台背景として絵画的に描かれた舞台装置ではなかったのでした。私も学生時代、それはまだノグチの考え方を知る前だったのですが、舞台装置として彫刻が観客に提示できたらいいなぁと考えていた時期がありました。当時はアンダーグランド劇が盛り上がりを見せていた頃で、前衛劇に魅せられていた私は、演じられる心理的なドラマに象徴的な形態を加えたら、さらに深淵な表現世界が出現するのではないかと夢想していました。「Ⅲ 劇場とダンスについて」はまさにその具体が示されていて、私は感じ入ってしまいました。