2020.11.20 Friday
「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅵ インタヴュー」のまとめを行います。この章をもって本書は完結になります。日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチは、その生涯においてさまざまな創作的体験をどのように聞き手に語ったのか、興味深いところも散見されました。ここでは2人のインタヴュアーが登場します。一人はキャサリン・クーで、もう一人はポール・カミングスです。クー氏との対話で気になった箇所は粘土に纏わるノグチの意見があり、私自身が陶土を扱っているため、どうしても気になってしまうのです。「粘土のような媒体ではなんでもできるからだ。で、それは危険だとぼくは思う。あまりにも流動的、あまりにもたやすい。たとえばロダンにはすさまじいほどの表現の自由があったー実際にロダンは表現主義者だったーだが、もっとも彫刻的な彫刻なのだろうか?それは絵画のほうに似ている。ロダンのような自由とは、ぼくにとっては一種の反彫刻だ。石のような素材で仕事をするとき、ぼくはそれが石に見えることを望む。粘土なら、どんなものにも見せられるーそれが危険なのだ。」カミングス氏との対話では「抽象芸術を抽象芸術として制作することへの疑問ーぼくにもコンスタンティン・ブランクーシのせいでヨーロッパでそういう時期があったが、そう長くは続かなかったーそれはアメリカというぼくのバックグラウンドー〔抽象に対して〕多少懐疑的ーとなにか関係があるんじゃないかと思う。それについてピューリタン的な考え方をする傾向とも関係があるだろう。抽象をちょっと道楽だと感じるんだ。~略~ぼくにとってそれを乗りこえる唯一の方法は、アートという理由以外にアートをする理由を見つけること。ひとつの目的をもっていなければならなかった。」とありました。公園や庭の設計に携わったノグチは、人々が集う広場の考え方を彫刻表現として認めていたことがこの台詞から読み取れます。「イサム・ノグチ エッセイ」では、ノグチが空間表現を洞察に満ちた哲学的思索として捉えていることが、私には印象的でした。空間は哲学であると私も感じていて、私がこうした文章を書いているのも自分の思索のために他なりません。本書はあらゆるところに示唆に富む内容があり、創作活動を自分が展開する上で参考になる書籍だったと思っています。
2020.11.19 Thursday
「イサム・ノグチ エッセイ」(イサム・ノグチ著 北代美和子訳 みすず書房)の「Ⅴ 師とのコラボレーターについて」のまとめを行います。この章では日系アメリカ人彫刻家イサム・ノグチが青年時代に師事したり、または影響を与えられた5人が登場します。コンスタンティン・ブランクーシ、バックミンスター・フラー、マーサ・グレアム、北大路魯山人、ルイス・カーンの5人ですが、頁を一番割いているのは彫刻家ブランクーシです。私もブランクーシの生活ぶりや考え方に興味があり、若かったノグチの師に対する印象が鮮明で、楽しく読むことができました。「すべてが白。その服はいつも白く、その髭はすでに白く、大理石のブロックがおかれたアトリエを白い埃がおおっていた。石膏製の巨大な円卓二台が台座の役を果たし、白いレンジがあって、ブランクーシはそれで有名なステーキを焼いた。それから二匹の白い犬がいて、ブランクーシは水盤に入れたミルクを餌にしていた。アトリエは広く、天井は高くて大きな天窓と窓があった。小さな隣室。ブランクーシはそこで眠る。壁際には《無限柱》のウッド・バージョンがいくつか並び、そばに大きな木製の葡萄搾り器と古い家の梁が数本あった。石膏製の建築学的要素、《キスの円柱》の柱頭とその部分があった。」これがノグチの記した当時のアトリエの情景で、現在はパリのポンピドー・センターに再現されています。次に仕事への姿勢が述べられた箇所がありました。「ブランクーシは全力をつくして、ぼくに退屈でやっかいな仕事の必要性をしつこく繰り返した。怒鳴ったものだ。『集中するんだ。窓の外を見るのはやめなさい!』あるいは『きみがなにをするにしても、それは楽しみや学習のためではない。きみはそれを、きみが将来にわたっておこなうなかで最高のものとしなければならない』」ブランクーシが自らの形態の純粋性を探り、やがて抽象化に至った過程がこんなところに表れているような気がしました。「ブランクーシにとって、イメージは抽象であると同時に抽象ではなかった。孤立して存在する幾何学を信じていなかった。ブランクーシがプレートを溶接して《無限柱》を製造するのに反対した理由は理解できる。それは、そのように扱われるのには十分に抽象であると同時に十分に抽象ではなかったのだ。」ブランクーシの彫刻はあまりにも理想的だったと考えられ、私には羨望しかありません。他の4人は紙面の都合で省略させていただきます。
2020.11.18 Wednesday
先日、東京汐留にあるパナソニック汐留美術館で開催中の「分離派建築会100年」展に行ってきました。「分離派」という題名が気になって、本展ではどんな建築のどんなデザインが見られるのか楽しみでした。分離派の主旨としては西欧に興った分離派と同じで、本展も既成概念に囚われない姿勢がありました。1920年に東京帝国大学(現東大)建築学科を卒業した6人が「分離派建築会」を名乗り、建築による自主展示を企画したことから始まり、そのグループ展は1928年の第7回展まで続いたようです。その後も彼らは大手設計事務所や大学の教壇に立って、実際の建造物を設計したり西洋建築史翻訳等に貢献しています。本展に出品されている模型や写真、図面などは当時のモダニズム建築が示されていて、私は興味を持ちました。図録によると3つに分類された建築について述べられていました。まず「田園的なもの」として次の文章を引用いたします。「鉄やコンクリートなどの新建材が普及し始めていた当時の潮流に逆行して、民家の自然素材が称揚される。藁、茅、柿、土壁、錆壁、敷瓦、太鼓張りの和紙などは、なお『愛せずにはおられない普遍的な材料』としてすくい上げられる。」二番目に「彫刻的なもの」として「震災後の帝都復興創案展覧会に出展された分離派建築会の作品群にはロダンの影響が色濃くあらわれていたが、ヨーロッパの彫刻界ではロダンのリアリズムから抽象化への移行が急速に進んでいた。そうしたロダン以降の新しい彫刻の潮流を、分離派建築会のメンバーたちは素早くとらえていた。」とありました。三番目に「構成的なもの」として「村山知義を中心にマヴォや三科へと広がった構成主義は、前衛的な美術家たちの型破りな創作活動を繰り広げることになったが、その一方で、マルクス主義的弁証法のイデオロギーにしたがって『構成』という概念を再解釈し、建築設計のなかに取り込んでいこうとする地道で真摯な動きもあった。」(引用は全て田路貴浩著)とありました。田園的なものとしては中世、彫刻的なものとしては有機的で生命的な造形、構成的なものとしては伝統建築とモダニズムの結合という振り幅の大きい表現活動があったようで、いずれにしても人間性や芸術性を建築に取り込もうとした姿勢に私は感銘を受けました。作品の中で私は瀧澤真弓による「山の家」の模型を飽くことなく眺めていました。
2020.11.17 Tuesday
久しぶりにホームページにRECORD3ヶ月分をアップいたしました。撮影は昨年終わっていて、カメラマンの準備は万端だったのですが、私のコトバが遅くなってしまい、漸くアップできた次第です。2019年は「~の風景」というタイトルをつけていました。4月は「対峙の風景」、5月は「叢雲の風景」、6月は「浸潤の風景」でした。当時のイメージを思い出してコトバを紡ぎ出しましたが、造形作品のイメージとコトバのイメージは全くの別物で、コトバが造形作品によって左右されることはありません。おまけに時間がたっぷりあるからと言ってコトバを絞りだせるものではなく、ひょんなところからコトバがやってきます。そこのところだけは造形作品と同じかなぁと思います。造形作品の新作イメージも現行作品の多忙を極めている時に、突如やってくることが多々あるのです。造形もコトバも普段から意識をもっているかどうか、何もしなければそれらはそのまま日常雑多な中に埋没して流れてしまうものです。その中から断片を掬い出し、表現まで昇華させていく段階を踏んでいきますが、私は造形に比べるとコトバの詰めが甘いなぁとつくづく思います。それでも恥ずかしくもなくコトバをホームページに掲載しています。今回アップしたRECORD3か月分を見ていただけるのなら、左上にある本サイトをクリックしてください。ホームページの扉が出てきますので、その中のRECORDをクリックしていただけるとRECORD3か月分に辿りつけるかと思います。ご高覧いただけると幸いです。
2020.11.16 Monday
昨晩、NHK番組「日曜美術館」で取上げられた故辻晋堂の陶彫について書いてみようと思います。表題にある「マグマを宿した彫刻家」とは、大学時代に辻晋堂に師事した彫刻家外尾悦郎氏が言っていた台詞でした。眼に見えないけれど内面に秘めた師匠のマグマのような強さを感じ取り、外尾氏がスペインに行ってサグラダファミリア贖罪教会の制作に携わった場面で、周囲から理解されない状況に陥った時に、師匠の創作にかける姿勢を思い出していたそうです。40年以上に及ぶ外尾氏の制作活動は、師匠からの心の支えがあればこそ達した境地なのかもしれません。そうした国際的な力量を勝ち得た彫刻家を輩出した辻晋堂とはどんな人物だったのか、私には興味が尽きません。私も学生時代に東京銀座のギャラリーせいほうで個展をやっていた辻晋堂のことは知っていました。その頃、出品していた小さな陶彫作品は彼の晩年の作品と呼べるもので、本人曰く「粘土細工」という言い方に妙な感じが残りました。それでも当時の代表作「捨得」と「寒山」を見ると、飄々とした軽妙洒脱な作りが何とも不思議な雰囲気を漂わせていました。元々巧みな彫刻家なのだろうなぁと私は思いつつ、10年くらい前に鎌倉の美術館で見た大ぶりな陶彫作品には驚きました。「東山にて」という平面性の強い陶彫作品は壁体彫刻とでも呼べばいいのか、まるで古代人の住居を連想させるもので、陶彫の魅力を全面に押し出していました。私が学生の頃は、粘土を焼成するとこんな感じになるのかとの単純な印象しか持てませんでしたが、鎌倉の美術館での展覧会は、私が既に陶彫を始めていたので、忽ち辻ワールドに取り込まれてしまい、土でなければならないイメージ世界に思いを馳せてしまいました。私は地中海沿岸の発掘された都市を出土品のような土で表現したかったため、そこで自分なりの陶彫を展開していく方向性を掴んだと言っても過言ではありません。