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  • 15回目の個展最終日&搬出
    新型コロナウイルス感染拡大が毎日マスコミで報じられる中で、今回の個展開催が決定し、今日はその最終日になりました。感染者の数が高止まりしているにも関わらず、経済を回していかないと日本全体がダウンしてしまう事情を考えると、以前のような緊急事態宣言は出さないかなぁと思っていて、そんな社会情勢の中での個展は忘れられない記憶の一場面になるかもしれません。最終日には旧友の鎌倉彫の職人さんが来てくださったり、出版関係の方や作家の方々も見に来てくれて有難いと感じました。例年なら梅雨明けがあり、夏空が広がっていたはずなのに、今日も時より雨が降って、個展開催中はずっと曇り空だったように思います。重く垂れ込めた空、コロナ渦の影響で東京銀座の大通りも人が疎ら、そんな鬱陶しい状況も今年は特別だった感じがします。搬出作業は、搬入の時に手伝ってくれたスタッフが集合してくれました。もう15回目の個展となれば、搬出作業は慣れていて手際よく進みました。運送業者が預かっていてくれた梱包用木箱20箱、板材用ビニールシート数枚に、陶彫部品やら板材がどんどん包み込まれていって、1時間程度でギャラリーの空間はすっかり片付いてしまいました。個展は名誉なことで嬉しい反面、私にとってはじっと自分の作品と対峙しなければならない時間があって、辛いと感じることもあるのです。非日常空間は精神的に疲れることもあります。作品が全て梱包されてしまったことでホッとする瞬間があります。漸く1年1回のイベントが終わったと思えた時に、胸を撫で下ろすことが出来るのです。梱包された作品群はトラックに積まれて、横浜の工房に向かいました。手伝ってくれたスタッフたちも車2台に乗って、首都高速を一路工房に向かいました。工房の1階に積み下ろし、今日の作業は終了しました。ロフトに上げるのは冬に時期にしようと思っています。手伝ってくれた人たちに夕食を振舞って、今回の個展振り返りを行ないました。
    「スポーツの日」も個展会場へ…
    昨日の「海の日」に引き続き、今日は「スポーツの日」になっていて、日曜日まで含めると4連休になります。新型コロナウイルス感染が縮小していたら、「Go Toキャンペーン」のトラベル事業で観光が盛り上がっていたはずだったのですが、コロナ渦はなかなか思う通りにはなってくれず、観光地にとっても目論みが外れてしまった事業になりました。本来なら東京オリンピック・パラリンピックの開催セレモニーが行なわれる日だっただけに、これも残念で仕方がありません。昨年の個展で、オリパラ開催日程と個展が重なるので、交通規制が行なわれて作品の搬入搬出は大丈夫かと心配していましたが、取らぬ狸の皮算用だったようです。さて、私は今日の「スポーツの日」も個展会場へ行っていました。今日は誰も来ないと思っていましたが、見に来ていただけた方々がいて大変嬉しく思いました。まず懇意にしているカメラマン2人が会場内の雰囲気を撮影に来ました。これはホームページとお礼状に使う画像になります。横浜からも仕事仲間が来てくれました。毎年見に来てくれる人たちとは会話が弾みました。少し前まで工房に出入りしていた若いアーティストも来ました。彼女が仕事を転々とする中で、心の支えとして創作活動を再開しようとする意志に、私の個展が一石を投じられるならこれほど嬉しいことはありません。1年間頑張ってきた私の表現世界が鑑賞者の心に何かを齎せてくれるなら、これは本望というしかありません。今回の個展開催が危ぶまれる中で私が考えたのは、個展は決してゴールではなく、自分が表現しようとしている世界の発展途上における報告会であるということです。人が見ようが見まいが自分の造形思索を続けていくこと、個展は当然コミュニケーションの場ではあるけれど、それは自分の方向付けを確認するものであることを、今回は自覚しました。仕事の分野の異なる人も見に来ました。川崎で菓子店を営んでいる旧友ですが、自分が彼と海外で一緒に過ごしたことで、自分を振り返る良い機会だったと思っています。自分が歩いてきた道に無駄はないと改めて思いました。明日は個展の最終日です。
    「海の日」は個展会場へ…
    やっと休日になり、自分の個展会場に足を運ぶことができました。個展は既に始まっていますが、私には今日が初日と言う感覚がありました。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、個展にはほとんど人が来ないだろうと思っていましたが、芳名帳を見ると例年通りの人たちが訪れていることが分かりました。こんな時でもわざわざ個展に足を運んでくださる方々に感謝申し上げたいと思います。私の作品評を書いてくださる美術評論家や文筆家、旧友や先輩の名前を見つけ、お会いしたかったなぁとつくづく思いました。東京銀座は例年のような観光客がおらず、店舗は営業していても往来する人々はまばらです。毎日東京の感染者数が発表されて、今日は300人を超えていました。東京を除外する形で「Go Toキャンペーン」のトラベル事業が始まっていても、一方で外出自粛が呼びかけられていて、アクセルとブレーキを同時に踏んでいるようなものだとマスコミが言っていました。今日は家内も一緒でしたが、家内の友達や従兄弟たちがギャラリーを訪ねてくれました。ギャラリーの前にあった老舗のレストラン「天國」が移転して、ギャラリーの裏通りに新しい店を出したので、家内は友達とそこでランチを楽しんでいました。横浜から自宅の近所に住む人がギャラリーに現れました。また瀬谷区役所に勤める行政の人もやってきました。その人は肩書きではなく、個人で美術を楽しんでいて、毎年私の個展に足を運んでくれる人なのです。今日はそんなこともあって午前11時から午後6時半までの開催時間があっという間に過ぎていきました。やはり今年も個展をやってよかったと改めて実感しました。作品はギャラリーで値段を付けて売っているものですが、私には旧交を温めるもうひとつの目的があって、そのコミュニケーションために作品を頑張って作っているようなものかなぁと思っています。明日もギャラリーにおります。
    陶彫のはじまり
    私は20代終わりで海外生活を切り上げて、日本に帰ってきました。海外でイメージを醸成した立体的な世界観を、30代初めになって陶のブロックを組み合わせることで表現できると考えていて、実際にそれが具現化されたのは30代半ばになってからでした。その頃から古代遺跡が出土した状況を陶で作ってみようと心に決めていたのです。それは都市空間のある広大な風景を切り取ったものになり、まさに場を創出させる集合彫刻になりました。考えが陶という素材に至ったのはウィーンで見た日本の陶磁器の美しさに起因しています。日本で日常触れる陶芸は生活の至る所にあって、海外に行くまでその美しさに気づかなかった素材でした。陶芸を学ぶために茨木県笠間に移住した陶芸家の友人を訪ね、陶芸技法を教わり、その後は独学で学びました。陶彫という分野は京都の走泥社から始まった所以を書籍を通して知りましたが、古代から伝わる縄文土器や埴輪、土偶も陶彫であると言っても差し支えないと私は思っています。中国には秦始皇帝陵にある兵馬俑があり、世界に類を見ない素晴らしい陶彫が存在しています。イサム・ノグチも1950年に三越で開催した作品展に数多くの陶彫作品を展示しています。ノグチも埴輪に想を得たらしく、陶彫による自由闊達な作風が見て取れます。陶芸と同じところは陶彫も内部を空洞にしているところで、焼成が上手くいくようにしてあるのです。陶芸と違うところは無理な形態を作ってしまうところがあって、陶彫はよく罅割れが生じます。そうした眼で兵馬俑を見ると、古代中国人の技巧の凄さに圧倒されます。陶彫は内容にしても技術にしても、まだまだ私は足元にも及ばないと感じていて、イメージを練り上げながら、技術も磨かなければならないと思っています。彫刻は職人的な素材技法の取得を兼ねながら、それに溺れないような造形を生み出さなければならないのです。彫刻をやっていると人生が短いと感じるのは私だけでしょうか。
    イサム・ノグチ 日本での活躍
    「石を聴く」(ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房)は「イサム・ノグチの芸術と生涯」を扱った評伝で、今回は第30章「新萬來舎」と第31章「三越デパート『イサム・ノグチ作品展』」のまとめを行います。「東京にもどったノグチは、日本ではじめてとなるデザインの仕事、戦災で被害をこうむった慶應大学にまもなく建てられる研究棟の教職員ホールのデザインを委嘱された。~略~ノグチは新萬來舎が英雄を称揚する記念碑となるのを望まなかった。むしろ休息の場、戦争の傷が癒される場所、そして父の詩に表現された『美の理想』を観想する場所としたかった。」慶應大学の新築工事に伴って現在は新萬來舎の全貌がなくなってしまいましたが、トータルデザインをしたノグチの痕跡はそのまま新校舎に残されているようです。「工芸指導所では、禅の用語で『無』または『空』を意味する『無』と題された高さ7.5フィートの彫刻の等身大模型も制作した。これはその後、石で彫刻され、新萬來舎外の庭園に設置された。」この大きな作品を制作中のノグチの写真が残っています。ノグチは三越デパートでの作品展のために瀬戸の陶磁器研究所に行き、テラコッタを20点ほど制作しています。「三越のノグチ展は谷口(吉郎)が会場をデザインし、1950年8月18日に開幕した。陶器の彫刻、剣持(勇)の工芸指導所で制作した家具数点、ノグチと谷口の共同制作による新萬來舎の平面図と模型、陶器の壺もあった。ノグチはアートと手工芸のあいだに差はないという日本的な考え方に共鳴していたので、壺も彫刻作品とみなすことができる。」ノグチの陶による作品は埴輪から想を得ていたようでした。これは別稿で改めたいと思います。「丹下健三は記している。『戦後、芸術の不毛の時機に、芸術にかわき切った日本にとって、彼の来日は大きなうるおいと刺激を与えてくれた。彼はここで、いつものように…変貌をとげて、禅の世界に入っていった。そこで彼は日本人以上に日本の真髄をえがき出すことができた。しかしそれは日本のものというよりは、世界に属し、そして彼自身のものなのであった。』」