2020.05.11 Monday
今年のRECORDのテーマを数ある色彩から一色選んで採用しています。5月は季節感のある「緑」にしました。相原工房から眺める木々の美しさにいつも心が安らぎ、陶彫制作の休憩には青葉若葉を楽しんでいます。これは亡父の残してくれた植木畑のおかげで、植木そのものは無造作になっているので亡父が造園業を営んでいた当時に比べれば商品になりませんが、木々の緑が齎してくれる憩いに、私は時折精神的に助けられているのではないかと感じています。緑にはさまざまな色彩の幅があり、それらが混在している山々の美しさを芳醇な空気の中で感じ取れる幸福は、何事にも代えがたいと思っています。そんな緑色を今月のRECORDのテーマにしています。しかしながら先月から続いていた自宅のリフォーム工事が漸く終了したにも関わらず、RECORD制作場所であるダイニングに雑貨を散らかしているため、なかなか下書きのRECORDに彩色できず、時間ばかりが過ぎてしまっています。今までもRECORDの下書きが先行し、ダイニングテーブルに山積みされていることもありましたが、今回ばかりは大変な状況になっていて、果たしてRECORDの進行が追いつくのかどうか不安に駆られています。一日1点の制作は、辛うじて下書きだけは守っているのですが、色彩をテーマにしている今年は未だ彩色をしていないRECORDが1ヶ月以上もあって、当初の色彩に対するイメージが薄れつつあるのも事実です。リフォーム工事で家内と一緒に今まで蓄積してしまった衣類や雑貨を断捨離していましたが、その影響はRECORD制作に及び、過去の残務整理と未来への創作が気分的には相入れないものだということが分かってきました。それでも何とかRECORDを先に進めていこうと思っています。10年以上も継続しているRECORDなので、ここが頑張りどころなのかもしれません。
2020.05.10 Sunday
今日は朝から工房に篭ってL字型陶彫部品の制作に励みました。L字型陶彫部品というのは、昨日から始めた屏風と床置きの陶彫を繋ぐ陶彫部品のことです。屏風は床から垂直に立ち上げているため床に接する陶彫部品は、屏風面(垂直)と床面(水平)を合わせ持つL字型の陶彫部品になるわけで、今回の「発掘~聚景~」では、6枚の屏風のうち3枚が床に繋がっているので、L字型陶彫部品を3点作ることになりました。昨日準備したタタラを使って、3点の成形をやってみました。過去にもL字型陶彫部品を作っていて、今回が初めてではないのですが、作品によって形態が異なり、過去の作品の応用は出来ないと思いました。その都度、形態を考えていくしかないなぁと思い、とりあえず3点の繋ぎのための陶彫部品を試みました。あれこれやっているうちにほとんど一日がかりになってしまい、これら3点の彫り込み加飾は次回にします。これは創作性の薄い部品ですが、屏風と床を繋ぐ重要なものになります。集合彫刻を作っていると、目立つ部品と目立たない部品があって、それが上手く機能をすると全体構成として成功するのだろうと私は思っています。あたかも人間の社会のようで、ウィークディは職場を管理する立場にいる自分は、これはちょっと面白いなぁと感じます。目立つ人ばかりでは組織は成り立たず、目立たないけれど重要な役どころで力を発揮する人もいて、また人と人とを上手に繋ぐ人もいます。組織の歯車がきちんと回っている時は、それぞれの持ち味を持った人が要所を締めていて、私は安心安全の上に立っていられるのです。今日作ったL字型陶彫部品は全体構成上は目立つものではありません。屏風に接合された陶彫部品を目立たせ、また床置きの陶彫部品を目立たせるための地味な繋ぎに過ぎませんが、これがなければ屏風と床の一体感は生まれないのです。 L字型陶彫部品の他に繋ぎに使う陶彫部品はまだまだ必要です。地味で重要な部品制作はまだ続きます。
2020.05.09 Saturday
週末になりました。ゴールデンウィーク5日間でやり残した陶彫制作を今日から始めました。それは「発掘~聚景~」の屏風と床置きの陶彫を繋ぐ陶彫部品の制作で、まずは屏風から床へ接する第一の陶彫部品から始めることにしました。屏風に設置する陶彫部品は全てボルトナットで屏風に付けていきますが、屏風から床へ接する陶彫部品は基本的には床置きになります。ボルトナットで付けた作品からの繋ぎ方をどうするか、組み立てを考えながら成形をしていくのです。今日の午前中は屏風に全ての陶彫部品を設置してみて、そこから床までの長さを測り、垂直に立ち上がる陶彫部品の大きさを割り出しました。6枚の屏風のうち床に繋がる屏風は3枚あります。繋ぎの陶彫部品は3点必要です。そのために座布団大のタタラを数枚準備しました。一晩放置した後、実際の成形は明日から行います。ゴールデンウィーク5日間が終わっても、まだ陶彫制作を優先させている理由は、陶彫には乾燥に時間がかかるからで、完全に乾燥しないと窯入れができないのです。その点、テーブルの油絵の具の滴り作業やテーブルの柱にする木彫は、時間を気にしないため後回しにしてしまうのです。まず、陶彫制作で思うところは窯入れ、つまり最終工程である焼成の難しさにあると言っても過言ではありません。陶土の厚みをほぼ均一にしておくのも焼成があればこそで、陶芸の技巧的な世界からこの世界に踏み込んだわけではない私は、基本的なことで足を掬われることも結構あります。それが面白いと言えばそれまでですが、立体を空洞にする工夫が常に求められているのです。今日から始まった屏風から床へ接する陶彫部品も、人体彫塑のように無垢な粘土で作るのであれば、それほど難しい作業ではありません。垂直から水平へL字型になる陶彫部品をどう作るのか、それを空洞にするためにどんな工夫をするべきか、明日の成形はそんなことも考えながら慎重にやっていきたいと思っています。
2020.05.08 Friday
「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第2章 ニューヨークとニュージャージー時代」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。まず「第2章 ニューヨークとニュージャージー時代」では、彼女が学校を終えて日本人である野口米次郎と結婚の誓約書を交わすまでの経過を追っています。レオニーは大学時代からの親友であったキャサリン・バネルとの共同生活を始めます。教壇に立つこともあれば編集や翻訳の仕事をやっていた彼女たちは決して楽ではない生活だったようですが、キャサリンの手紙によって衣食住の詳細が分かります。その頃レオニーは詩の翻訳の新聞広告を見つけ、依頼人ヨネ・ノグチ(野口米次郎)の手伝いをすることになり、仕事上のパートナーになっていきました。野口はレオニーの翻訳を相当気に入っていたようで、縋るような気持ちでいたことが野口の手紙によって分かります。ただ、野口は別の女性に恋愛感情を持っていて、レオニーとの仲は複雑なものになっていました。「この当時のヨネの写真を見ると、なかなか彫りの深い、立派な身なりをしたハンサムな青年で、頬がこけていて、少々女性っぽい口元をしており、渡米前のどこかぼんやりとした表情はなくなって、代わりに意志の強さが顔に表れている。レオニーのほうは女学生のような雰囲気をまだ残しているのだが、6月で30歳の誕生日を迎えようとしていた。どう考えても彼女は野口の理想の女性のタイプではなかったが、まさにこの彼女の資質が彼にとっては便利なものだった。野口が8月末にニューヨークを発ったときはすでに何かが起こっていた後だったのだろう、両者は明らかに悩んでいた。」本文の中にこんな一文がありました。「ヨネ・ノグチの宣誓書(1903年11月18日)私はレオニー・ギルモアが法律上の妻であることを、ここに宣誓する。」続く本文にこんなこともありました。「ところで、そもそもこの結婚の宣誓書は法的に有効なのであろうか。端的に答えるならば、否だ。かなり昔ならば、有効だったかもしれない。ニューヨーク州は、他の州に先駆けて1849年に『慣習法による結婚』を認めた。~略~恐らくレオニーの両親も、慣習法による結婚生活を送っていたのではないだろうか。結婚の契約を証明する何らかの証拠の他に、慣習法による結婚かどうかを判断する基準は、同棲しているかどうか、周囲に結婚していると思われているかどうかという点である。」また別の女性に関する記述もありました。「エセルが再び野口の前に現れたことが、野口とレオニーの破局につながったかどうかは別として、野口のなかでこの二人の女性に対する思いは全く別のものだということは、疑いようもない。レオニーの存在は、これまで野口にこのようなロマンティックだが無意味な詩を書かせるようなインスピレーションを起させたことはなかったが、エセルにはそれができた。」結局エセルとは結ばれることがなかった野口でしたが、最後に私はこんな箇所に注目しました。「レオニーは非常に誇り高く、自立したボヘミアンであったので、5月に妊娠がはっきりしてすでに妊娠二期に入ってからも、頑固に野口に知らせようとはしなかった。一方野口のほうはというと、『人は夫や妻をまるで靴下や下着を取り替えるように取り替える』とまでは思っていなかったが、とにかく忙しくてこの問題に正面から向き合う時間がなかった。」
2020.05.07 Thursday
「レオニー・ギルモア」(エドワード・マークス著 羽田美也子 田村七重 中地幸訳 彩流社)の「第1章 生い立ち」についてのまとめを行います。世界的彫刻家イサム・ノグチの母であるレオニー・ギルモアはどんな生涯を送ったのか、本書の頁を捲りながら彼女の人となりを考えていきたいと思います。まず「第1章 生い立ち」では生誕から大学を終えるまでの経過を追っています。「レオニー・ギルモアの出生証明書によると、彼女は1873年6月17日、ニューヨーク市マンハッタン地区で誕生している。誕生の地は、7丁目185番地の聖ブリジット広場である。母親の名前はアルビアナ、父親はアンドリュー・ギルモアであり、出生地は不明である。」続いて貧困家庭だった一家が娘にどのような教育を与えたのか、こんな箇所がありました。「1879年末には、協会(倫理文化協会。ドイツ系ユダヤ人フェリックス・アドラーによって設立。)は更に、授業料無料の労働者学校をつくることを発表した。勿論ギルモア家は、6歳半になるレオニーをこの小学校に通わせることに同意の署名をしている。この決断がレオニーのその後の運命を決定したといっても過言ではない。この時代、貧しいアイルランドからの移民で、父親はほとんど失業し、母親だけが働いているような家庭では、運がよくても退屈な公立学校に通うことができるのがせいぜいで、たいていは学校にも通えず、幼少時より針子となったり、工場に働きに出たり、女中奉公したりといったところだっただろう。だがこの労働者学校は、レオニーにそれまでは全く考えられなかったような人生の目標や目的を与えてくれた。~略~学校という場所は、『生徒に既成の知識を詰め込むところではなく、生徒が自ら努力して、本人の能力に見合う程度まで知識や真理に到達することができるよう手助けするところである。学校とは、言わば能力を解放させる体育館なのだ。』これこそが、レオニー・ギルモアの型にはまらない考え方を育てた労働者学校の教育観であり、そしてまた彼女がイサムに施した教育である。」さらに次の進学先についてこんな文章がありました。「レオニー・ギルモアは、何かと論議を呼ぶ公教育の制度から無縁で終わるように運命づけられていたようだ。彼女の前に新しい道が開かれたのは、新学年ももうすでに始まっていた時だった。ボルティモアに新しく設立されたブリンマー高校に空きがあったのである。この学校はエリートのための私立学校だが、奨学金を提供していた。」続くブリンマー大学に進学し、レオニー・ギルモアは当初、化学を専攻しましたが、政治学と歴史学に変更し、パリのソルボンヌ大学にも留学する機会を得たのでした。ブリンマー大学には留学生として津田梅子ら3人の日本人が学んでいたようです。レオニー・ギルモアは7学期を修了し、学位を取らずに大学を去っています。「大学側の記録には、『健康上の理由』で中退したことになっている。『健康上の理由』というのは便利な言葉で、レオニーの受けていた奨学金が前年で終了しているという財政上の理由から、卒業に必要な多くの試験に合格できなかったことまで含む便宜上の理由かと思われた。」今回はここまでにします。