2020.08.22 Saturday
週末になりました。今週から職場での仕事が始まっていて、漸く1週間が経った気分で、今週は長く感じました。職場では職種に関係する論文を書かなければならず、締め切りの金曜日にやっと間に合わせたことが、今週を振り返ると苦しかったなぁと思っています。このNOTE(ブログ)のように思いついたまま気楽に書けるといいのですが、仕事となるとそういうわけにはいきません。序論から本論に繋がるところはどうだったのだろう、まとめとしての考察は月並みなものになってしまったなぁと、自分の役職としての浅はかな思考に嫌悪感さえ覚えます。やっと週末になり、創作活動に頭を切り替えて、新作の陶彫に取り組みました。新作は5点目の陶彫制作に入ることになり、今日はその土練りを行ないました。土練りと明日の成形のためのタタラ作りは、慣れているとはいえ、単純な肉体労働で骨が折れます。炎暑はちょっと落ち着いた感じがありますが、それでも午前中だけで汗が滴り、自宅から持参した水分はカラになりました。午後1時まで頑張って工房にいましたが、今日の最低ラインのノルマを達したところで工房を後にしました。まだまだ夏の暑さは半端ないなぁと感じています。午後は自宅で少々休んでからRECORDの追い込み制作に精を出しました。このところ休日は午前中に陶彫制作を工房でやって、午後からは自宅でRECORD制作をやっています。アクリルガッシュは色別に分けないで大きな箱にバラバラにして入れていますが、足りない色彩が出てきたり、面相筆の機能が落ちたりしていて、毎日やっているといろいろなところに支障が出てきます。RECORDに使う厚紙ボードもうっかりしていると足りなくなります。塵も積もればの諺通り、毎日の実践習慣は大したものだなぁと思わざるを得ません。明日は工房で陶彫成形に励みます。
2020.08.21 Friday
先日見に行った東京ステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展では、バウハウスの教壇に立っていたロシア人画家ヴァシリー・カンディンスキーに関する資料が展示されていました。昨日は同じ立場にいたパウル・クレーについて書きましたが、カンディンスキーも自身の作品の他に、彼に師事した学生作品も展示されていました。カンディンスキーは「芸術における精神的なもの」を著した抽象絵画の旗手として、20世紀の前衛美術を牽引したことでも知られています。図録からカンディンスキーの授業に関する箇所を引用いたします。「カンディンスキーは、形態では点ー線ー面の分析から、色彩ではその基本要素である寒ー暖(青ー黄)、明ー暗(白ー黒)の対比から講義を進めた。また彼独自の観点から形態と色彩を結びつける見解を示して、大きな反響を巻き起こした。『分析的デッサン』は、正確に対象を見ることと構成的に絵をまとめることを目的として行われた。教室の一角に無造作に積み上げた机や椅子、ハンガーや箒、あるいは自転車などの混沌とした物のかたまりの中から、いくつかの単純な基本的形態と、カンディンスキーがいうところの『緊張』(シュパヌングSpannung)という造形関係を見いだし、全体の構造を理解し表現する。それは全体の簡単なデッサンから始まって、いくつかの段階を経て、緊張関係の抽出へと至る。それはまるで抽象画のプロセスである。学生の習作を見ると、この授業がバウハウス初期のヴァイマール時代から始まって、彼の授業の中核として行なわれ続けていたこと、そして表現に工夫がなされてきたことがわかる。」理論家であったカンディンスキーは、自らが論考した抽象への過程を、造形の基礎教育を補完する役割として学生に対して実践していたことが明らかになっています。学生が試みた分析的デッサンは、大まかなアウトラインを描いた後、定規やコンパスを使いながらアウトラインを取捨選択し、制作過程が一目で分かるような習作になっていました。当時、バウハウスに留学していた日本人学生も、この授業を日本に紹介していて、日本の造形教育の中にも取り込まれていたようです。
2020.08.20 Thursday
先日見に行った東京ステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展では、バウハウスの教壇に立っていたドイツ人画家パウル・クレーの作品の他に、クレーに師事した学生たちの作品もあり、大いに興味を持ちました。図録によるとクレーが授業を担当したのは1921年に着任し、1931年に退職するまでの10年間だったようです。図録からパウル・クレーの授業についての箇所を引用いたします。「パウル・クレーは、イッテン(後にはアルバース)の予備課程を終えた学生を対象に、造形論の講義をおこない、形態と色彩について教えた。彼は、生来の几帳面な性格から、膨大な量の講義ノートを残しており、それによって授業の詳細を知ることができる。週1回の授業があり、講義の週とそれについての演習の週が交互にあった。みずから『形式的手段とのおつきあい』と呼ぶ彼の授業は、造形を『運動』と『成長』という観点から説明する独特なもので、線から面、空間そして構造から運動(螺旋や矢印)へと講義は進んだ。クレーにかかると線は意志をもって走り、あるときは逡巡し、形は生物学的に、そして数学的に解析される。数式が多用されるが、これまでに学生が習ってきた数学とはまったく異なる世界が広がる。色彩についても振り子と螺旋という2つの運動から説明した。必要があれば両手にチョークをもち、2本の線や文字を同時に書きながら説明することもあったという。毎回の講義の終わりに出される演習の課題もまたユニークだった。」図版を見ると、学生作品はいずれも製図の書き始めのようで、禁欲的な線と面が丁寧に画面に書き込まれています。旧態依然とした芸術アカデミーのデッサンから始める造形活動とは、まるで異なるアプローチで造形教育を捉えていたことが分かります。教育者としてのクレーはどうだったのか、私には推し量ることは出来ませんが、存在感のあったクレーのもとで学ぶことは、それなりの覚悟はあったのではないかと信じたくもなります。クレー自身の絵画は技巧的にも理論的にも模倣が出来ないと私は思っています。
2020.08.19 Wednesday
夏季休暇を利用して東京都小金井市にある「江戸東京たてもの園」に行き、野外展示されていた建造物の中に復元された建築家前川國男邸があったので見てきました。前川邸は木造のモダンな佇まいで、板壁の素材感に私の感性が擽られました。第二次世界大戦があった当時にも関わらず、よくぞこんな資材が手に入ったなぁと思わせるほどの完成度で、日本を代表する建築家宅に相応しい風格を感じさせてくれました。「江戸東京たてもの園」のギャラリーショップで「前川國男邸復元工事報告書」を見つけたので購入してきました。報告書の中の概説から引用いたします。「昭和17年頃は戦時体制下で、建築資材の入手が困難であったり、または使用を制限されている時期であった。~略~1973年(昭和46)に前川國男邸は解体され、軽井沢にあった父の代に建てた別荘に運ばれ、部材として保存された。~略~1994年(平成6)七月頃、前川國男邸が部材として軽井沢の別荘に保存されていることを知った東京都江戸東京博物館野外収蔵委員会委員である藤森照信氏より江戸東京たてもの園の収蔵建造物としてどうかという連絡があった。」(早川典子著)これが前川國男邸が復元保存された経緯です。前川國男は東大で建築を学んだ後、フランスでル・コルビュジエに師事しています。その影響が読み取れる座談会が報告書に記載されていました。「戦前の段階ですと、バウハウスのデザインを継いだ人たちが日本でも主流だったんです。~略~要するにバウハウスのデザインの非常に禁欲的で、当時の言葉で言いますと、箱とガラスのような非常に禁欲的なデザインをやっていたわけです。むしろその中では~略~コルビュジエの影響を受けた人たちというのはむしろ少数派であったわけです。むしろその少数派が戦後に、日本の場合、世界的に見ると非常に特異な例ですけれども、主流になっていった。おそらくその大きな力になったのが前川さんだと思います。」(藤森照信談)座談会では前川國男邸から話の端を発し、戦後日本の建築界の流れまで盛り込まれていて、大変興味のある内容になっていました。
2020.08.18 Tuesday
先日、東京駅にあるステーション・ギャラリーで開催中の「きたれ、バウハウス」展に行ってきました。バウハウスとはドイツ語で「建築の館」という意味です。1919年に建築家ヴァルター・グロピウスによって設立された造形学校で、旧来の芸術のアカデミーとは一線を画する教育方針を採っていました。その革新的な学校もナチスの弾圧を受けて1933年に閉鎖に追い込まれました。活動したのは僅か14年間でしたが、アートとデザインの領域に大きな足跡を残しています。今となっては現代美術を牽引した魅力的な教授陣、残された講義メモや学生の作品に、現在も続くデザイン教育の源泉を見る思いがしたのは私だけではないはずです。図録には多くの論考が寄せられて、バウハウスに関する多方面にわたる研究が掲載されていました。その中でまず「バウハウス宣言」の一部を引用いたします。「建築・彫刻そして絵画のすべてが一つの形態のうちに存在するようになる未来の新しい建設(Bau)を、われらもろともに意欲し、考えだし、創出しようではないか。」(V・グロピウス)とあるようにバウハウスは全造形的領域を建設(建築)に統合する理念を打ち出していました。初期のバウハウスで教壇に立ったヨハネス・イッテンは、私の学生時代に彼の著作である「色彩論」が大学の講義で必要になり、当時購入した書籍が今も自宅の書棚に眠っています。「グロピウスがバウハウスに招聘したマイスターのうち、美術教育の経験者はイッテンのみだった。ウィーンで既に成果をあげていた彼は生徒を伴ってヴァイマールに移ってきたのだ。最初期のバウハウスでのイッテンは、教師が揃うまで予備課程および多くの工房を担当し、大きな影響力を持っていた。イッテンは予備課程の目的として次の3点を挙げた。1.先入観や既成概念から解き放って学生の想像力を解放させること。2.さまざまな材料を扱い、次の工房教育における専攻の選択を容易にすること。3.形態や色彩に関する基礎的な知識を身につけること。~略~1921年に着任したパウル・クレー、翌1922年に着任したヴァシリー・カンディンスキーが予備課程を補う形で形態・色彩の授業を行い、オスカー・シュレンマーのヌードデッサンの授業も必須とされた。」(杣田佳穂著)バウハウスの新しさはまさにこうした予備課程(基礎課程)にあったのではないかと思います。ここでは図録の論考の一部しか紹介できませんが、作品と理念を同時に見ていくことがバウハウスを正確に捉えることができると私は思っています。