Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • 週末 新作は直方体が基本
    今日は朝から工房に篭りました。新作の3点目の陶彫部品の成形を行ないました。現在は床から立つ直方体を作っています。比較的大きめな直方体を立ち上げましたが、今後は大小さまざまな直方体を考えています。大きめな直方体は2段目も作ろうと思っています。積み木のように陶彫部品を積んでいく予定です。高層ビルが並び立つ状況がイメージにあります。その土台となるものは厚板材を加工して作るつもりです。厚板材は昨日、建材店で購入してきましたが、そのうち追加購入もあります。新作の出発点としては、まだまだ先が見えず、今のところは陶彫部品をひとつずつ作りながら、これでいいのかどうか確認しているところです。頭の中に設計図はあっても、彫刻は素材感を伴うので実体として目に見えるリアルがないと判断が出来ません。アナログの極めつけの世界とでも言いましょうか。私が存在とは何かを問う哲学に惹かれるのはこんなところにあるのかもしれません。今まで曲面を有する陶彫部品を作り続けてきましたが、直方体も面白いなぁと思うようになりました。曲面形態は動物的であったり、植物的な動きが出て、全体として有機的な生命体を印象づけました。今回は直方体が基本となるので、今までのような動きは表現できません。陶の醍醐味は曲面にあると今までの私は考えていたので、これはちょっとした挑戦になるのです。直方体なら金属でも制作可能です。それを敢えて陶で表すのにはそれなりの理由があります。それは定規で引くハードエッジな線や面ではなく、あくまでも人の手によって作り上げる、真っ直ぐな線や平たい面から得られる微妙な歪みや緊張感なのです。人の手が及ばない焼成がある陶彫を使って、何も幾何形体を作ることはないのではないかと思われるところですが、私は彫刻を魂の産物と捉えている古風な作り手なので、人の手で何とかモノにしたいと思っているのです。今日は梅雨明けの夏空が広がり、工房は蒸し風呂のような暑さになりました。毎週来ている美大受験生もいました。夕方、暑さに耐えた彼女を車で家まで送っていきました。
    週末 8月になって…
    週末になりました。今日から8月です。梅雨明けが遅れ、先月末までぐずついた天気が続いていました。8月は5日間の夏季休暇が取得できます。7日あたりから翌週にかけて夏季休暇を取ろうと思っています。毎年アジア各地や国内に旅行に行っていましたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で今年は旅行に行きません。その代わり美術館等へ日帰りで出かけたいと思っています。今月は新作になる陶彫を只管作ること、その陶彫部品を設置する土台も試しに作ってみることを彫刻制作では目標に掲げたいと思っています。さらに今月に限って彫刻制作より重きを置いているのはRECORD制作です。今月は下書きの山積み解消を目標にします。今までになく制作が遅れているため、これを放置できない状態になってしまいました。今年は色彩をテーマにしているので、アクリルガッシュの不足が心配ですが、画材店に行った折に多めに仕入れてこようと思っています。RECORDは一日の勤務が終了し、夕食の後で制作するのが習慣になっていますが、今月は昼間に制作時間を取ります。夏季休暇も利用します。もうひとつ、久しぶりに書店に行って書籍を購入したいと思っています。今取り組んでいる書籍があるので、新しい書籍は買ってすぐ読めるわけではありませんが、自宅リフォームの際に大きな書棚を設えてくれたので、そこに空いた棚があり、こんな書籍があったらいいなぁと希望しているのです。今日は新作のための厚板材を購入してきました。横浜そごう美術館で今日から始まっている「スーパークローン文化財展」にも足を運びました。この詳しい感想は後日改めます。夕方工房に行って、明日の陶彫成形のためにタタラを数枚準備してきました。8月になって、初っ端からいろいろ出かけてしまい、愈々気分を入れ替えることにしました。今月も頑張っていこうと思っています。
    社会情勢とともに7月を振り返る
    7月の最後の日になり、今月を振り返ってみたいと思います。タイトルに社会情勢としたのは、新型コロナウイルス感染拡大が続いており、首都圏では感染者が増え続けている状況で、東京を除外した「Go Toキャンペーン」のトラベル事業が始まり、不安と隣り合わせの1ヶ月だったことで、こうしたタイトルを思いついたのでした。今月は私の個展開催もありました。来廊者数は例年の3分の1程度で、それでもよく東京銀座に足を運んでくださったと感謝しています。私にとって個展開催は創作活動上のターニングポイントであることは間違いありません。造形思索は継続しているものの、ここで作品制作の本腰が新作に移っていきます。今月は美術館等へは行かず、残念ながら鑑賞は出来ていません。そろそろ美術館へ行きたいという思いは募っています。来月こそは充分感染症の自己防衛をして美術館へ行こうと思っています。一日1点ずつ作っているRECORDは相変わらず厳しい状態で、下書きの山積みが増えてきています。来月は夏季休暇はあっても旅行に出る予定がないので、RECORD制作に集中しようかなぁと考えています。RECORDは小さい平面作品ながら陶彫による集合彫刻に匹敵する作品群で、10年以上も一日も休まず作り続けている表現媒体です。夕食後にRECORDに立ち向かうと睡魔に襲われ、下書きが終わると瞼が落ちてしまうのです。このNOTE(ブログ)とRECORDという夜の仕事はなかなか苦しいものになっていて、加齢のせいとは思いたくないのですが、以前に比べると確実に気力が萎えているのが分かります。それでもRECORDを止めようとは思っていません。読書では彫刻家イサム・ノグチの生涯を描いた書籍と、論理学に関する難解な書籍を交互に読んでいます。これは来月も継続です。とくにフッサールによる論理学の書籍は、その世界に入り込まないと理解力が覚束ないのです。自宅で気持ちが緩んでいる時には到底読めるものではありません。これは職場に出てきた時に読むようにしようと思っています。来月も頑張ろうと思います。
    個展の感想より抜粋
    今年の個展に来られた方に感想を綴ったお手紙をいただきました。彼は横浜に住まわれている文筆家の方で、高齢にも関わらず毎年私の個展に来ていただいています。私が在廊していない時に来られたようで、お話が出来なかったのが残念ですが、作家野間宏に関する書籍を出版されていて、美術に対する審美眼もお持ちではないかと思っています。お手紙のの一部を抜粋させていただきます。「『発掘~聚景~』がテーマとありましたが、造語とは言え、その意が十分通じます。元になる集合体こそ、貴方が求める生の実態、有り様、更に言えば生きる、生産する自負とでも言えましょうか。…物体は壁から…そこに収斂…の説明が的確な案内になっています。」後半の文章は図録掲載のNOTE(ブログ)から拾っていただいたようで、身に余る言葉が連なっており、何か恥かしいような気もします。「発掘~聚景~」の中で、生の実態を見取っていただけたことに感謝申し上げます。「発掘~聚景~」は廃墟を模していますが、相反する生命の蘇生が隠れたテーマです。廃墟の世界を描いたヨーロッパの画家では、ドイツロマン主義絵画の巨匠フリードリッヒや牢獄シリーズで有名なイタリアの銅版画家ピラネージがいます。彼らの圧倒される世界観は、滅びゆく建造物の中に生命の萌芽も感じさせてくれます。惨憺たる風景を私たちはそのまま受け取ることをしません。この世界の終末の果て、その先に何かがあるような微細な光を感じさせてくれるのです。私はショーペンハウアーの唱えた厭世主義には違和感を抱きつつ、廃墟を見ると幾星霜にも及ぶ悲劇を受け入れていく自分がいます。私は戦災を実態として知らず、国を追われたこともなく、自分の周りで廃墟化が進んだことがないので、簡単に悲劇を受け入れると言っているのかもしれません。そこに一条の光が差すと言ってもそれはイメージに過ぎないと言われれば返す言葉もありませんが、創作活動はどの程度リアルを伴う必要があるのかどうか、議論が出来そうなところです。
    「命題論的分析論としての形式論理学」第12~13節について
    「形式論理学と超越論的論理学」(エトムント・フッサール著 立松弘孝訳 みすず書房)は本論に入る前に「序論」があり、さらにそれに続く「予備的な諸考察」もありました。漸く今日から本論に入ります。本論は第一篇「客観的な形式論理学の諸構造と範囲」、第二篇「形式論理学と超越論的論理学」から成り立っています。本書のタイトルは第二篇から取っているので、ここが結論になるのだろうと思います。第一篇はAとBに分かれ、Aは第一章から第三章、Bは第四章と第五章から成り立っています。ここでは第一章「命題論的分析論としての形式論理学」の第12~13節についてまとめますが、節については通し番号になっていて「予備的な諸考察」から続いています。第12節で語られる純粋な判断形式とは何か、冒頭の文章を引用いたします。「われわれの一般的な解説によって予め理解されたことは、〈体系的に論述された論理学の歴史上最初の部分として成立したのはアリストテレスの分析論であり、これが理論的な形成物〔=主に諸命題〕についての論理学の最初の試みであった〉ということである。」さらに「事象的な事柄を示す言葉(述語)の代わりに、代数学の文字記号を採用したのである。」第13章は判断の純粋形式論になり、そこでの変形または操作の概念が登場してきます。「記述を体系的に一貫して純粋に遂行すれば、独特の一つの教科が明確に区分されたであろう。この教科は『論理学研究』で初めて定義され、意味の純粋形式論(もしくは純粋論理学的文法)と呼ばれたのである。」基本的諸形式とそれらの変形について書かれた箇所を引用します。「可能な諸判断一般をそれらの形式について分類しようとすれば、《基本的な諸形式》が、と言うよりはむしろ、それら基本形式の完結したシステムが明らかになり、そしてさらに、これらの基本形式から、独自の本質法則性によって、つねに新たな、しかもしだいに多くの異なる諸形式が、そして最後に、考えうるすべての判断形式全般のシステムが、それら諸形式の無限に多くの異なる諸形態と次々に区別される諸形態との中で順次構築されうる、ということである。」次に操作の概念に論考が及びます。「それは〈複数の形式から或る一つの形式を作る操作の各形態化には、それぞれの法則があり、そしてその法則は本来の各操作の場合には、新たに作られたものもまた同じ操作で処理されうる〉ということである。したがって操作の各法則は反復の法則を内包しているのである。」まとめというより、おそらく著者が主張したい箇所の引用だけになってしまいましたが、一文一文をじっくり確認していくと、まとめとして短文にすることは私には不可能で、節ごとに気になった箇所の引用で御容赦願いたいと思っています。職場で時間を決めて読み込んでいくのが精一杯な論文です。