Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

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  • リバイバル映画を楽しむ
    観たい映画が上映されていても、時間が合わず上映を逃してしまうことが結構あります。私はウィークディの昼間は公務員をやっているので、レイトショーでなければ、映画館に足を運べないのです。年休を取得すればいいものを、仕事の都合上、計画した通りに休めないこともあります。そういう意味ではリバイバル上映は有難いなぁと思っていて、多少無理をしても観に行こうと決めていました。映画館や美術館、読書は多忙な仕事の間隙をぬわなければ、時間を割くことが出来ないので、自分に投資する時間として貴重なものなのです。仕事ばかりしていると、ふと我に返った時に自分をまるで見つめていないことに気づき、何のために生きているのか、どんな楽しみが人生にあるのか、分からなくなることもあります。自分自身を豊かに保つためには、感動する心を忘れてはならないと思い、そのためにも感性に働きかける映画や演劇、音楽や美術を鑑賞する機会を増やそうと思っています。今晩は仕事帰りに常連のミニシアターに出かけました。映画館に行く途中で演奏帰りの家内と待ち合わせて、一緒にレイトショーに出かけました。リバイバル上映をされていたのはハンガリー映画「心と体と」で、年齢も境遇も違う男女が奇しくも同じ夢を見ていたことで、不思議なラブストーリーが始まる内容でした。私はリアルな世界に潜在する非現実な世界が面白く感じられましたが、家内は描写のタッチが今ひとつピンとこなかったようで、夫婦で反応が分かれました。これも鑑賞にはありがちで、鑑賞そのものの面白さはそんなところにあると思っています。創作活動では共感も受容も人によって異なることが多々あります。感性に働きかける芸術媒体である以上、評価が分かれることは仕方がないことです。たった一週間のリバイバル上映ですが、ハンガリー映画「心と体と」の詳しい感想は後日改めます。
    シリーズ化した図録のレイアウト
    今晩、懇意にしているカメラマン2人が、図録作成に向けた全体のレイアウトをもって自宅にやってきました。私の個展用の図録は14冊目になりますが、今まで全て同じサイズ、同じページ数、似たようなレイアウトで作っています。私はシリーズ化(連作)が大好きで、その蓄積を楽しんでいる傾向があります。そうなると毎年作っている図録のデザインに変化が乏しいことがあって、それは充分承知しています。図録には集合彫刻の全体を示す記録という意味合いもあるため、これでいいと判断しています。「発掘シリーズ」は11冊、「発掘から構築へ」1冊、「構築シリーズ」2冊という今までの冊子を見ると、少ないレイアウトの変化であっても、私は写真の効果には注文をつけていて、光を取り込めとか、空気を感じさせるようにとか、面倒なことをカメラマンに言っているなぁと思っています。逆にカメラマンからの提案もあり、これは異なる媒体による彫刻家とカメラマンの連携したアート作品ではないかと思うところです。今回は出来るだけリアルな画像を要求し、それにカメラマンが応えてくれています。図録は作品の一つだと私は認識しています。個展に来られた方々の手元に置いていただける唯一の自作なのです。デジタルな作品と立体的な彫刻とは明らかに捉えが違うので、同じ土俵では語れませんが、作品が内包するコンセプトは伝わるのではないかと思うところです。
    「壮大な芸術」について
    職場の私の部屋に置いてある書籍を長い期間にわたって、折に触れて読んでいます。通勤に携帯している書籍とは違い、やや難解なものです。「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を拠り所にして、芸術の本質に迫る内容です。今回の「壮大な芸術」の章では、絵画表現に限らず、あらゆる芸術媒体が、例え外見に相違はあっても主観的な実在性をもつという考え方であれば、似通った均質なものになるのではないかと主張しています。「〈壮大な芸術〉という考えは、たぶんヴァーグナーのオペラがカンディンスキーに示唆したものである。感性の全領域を盛りこんだ総合芸術作品という雄大な構想は、芸術が人間にもたらす表現形式を増やし深く究めることにもっぱら心を砕いていた芸術家を魅了せずにはおかなかった。ところで、まさしく個人の生にとって芸術がもつ意味をめぐるこうした欲求があったからこそ、ヴァーグナーに対する若き日の賛美へカンディンスキーはたち戻り、彼に手きびしい批判を向けることになったのだった。~略~抽象がめざしている総合は、実際、内的な総合でしかあり得ないだろうし、オペラやクラシック・バレーがそれを生み出すことはない。~略~具体的なだけの芸術はいかなる創造的な能力ももたないだろうし、芸術ではあるまい。~略~カンディンスキーが夢みたのは、絵画、彫刻、音楽、詩、ダンスを包摂し、建築も関与した『抽象の舞台総合芸術』となっているような劇である。~略~カンディンスキーの抽象が直接にとり扱っているのは、情動的な基調色であり、これを規定し、あきらかにし、磨きあげ、積み重ね、組み合わせ、基調色の経緯、つまり彼の抽象がもっぱら目を向けている基調色の秘められた変貌を見きわめ誘い出さなければならない。」些か長い引用になりましたが、あらゆる芸術媒体が抽象の中で総合化されているものを、カンディンスキーは当時から考えていたようです。
    振替を利用して案内状持参
    先日の関西出張の折に超過勤務時間が発生し、その振替を今日の午後に取ることにしました。昨日、工房に案内状が1500枚届いたので、早速今日の午後の時間を使って、東京銀座のギャラリーせいほうに案内状1000枚を届けました。改めてウィークディの昼間に銀座に出かけていくと、職場がある横浜の校外と、東京の一大商業地である銀座のもつ環境の違いが浮き彫りにされて、不思議な心境になりました。公務員と彫刻家という二足の草鞋生活は、こんなところにも心理的な影響を齎せているんだなぁと思います。華々しい都会の装い、そこで働く多くの人たち、観光客も含めて往来する人々を見ていると、また夏の個展がやってくるんだと実感しました。ギャラリーせいほうの田中さんが笑顔で迎えてくれました。「もう14回目なんだね。あっという間だった。」と仰っていました。私はせっかく振替を使って東京に出てきたのだから、どこかの美術館に立ち寄っていこうと思い、月曜日でも開館している美術館を探しました。パナソニック汐留ミュージアムでやっていた「ギュスターヴ・モロー展」は昨日で終了していて残念な思いに駆られました。象徴主義の画家モローは大好きな画家の一人でした。それならば東京都庭園美術館の「キスリング展」はどうだろうとネットを検索すると、開催中であることが判明し、目黒に向かいました。エコール・ド・パリの画家キスリングも好きな画家で、ユダヤ系ポーランド人だったキスリングは独特な哀愁を帯びた肖像画で、一躍エコール・ド・パリを代表する画家になったのでした。エコール・ド・パリとは、1920年代にフランスのパリに集った外国人芸術家たちの集団を指しています。NOTE(ブログ)に幾度となく取上げた藤田嗣治もそこに所属していました。改めてキスリングの油彩画を見て、古典的な雰囲気の中に、滑らかな画肌と単純化したフォルム、時折虚無感が漂う世界に忽ち私は魅了されてしまいました。キスリングがとりわけ親しかったのはイタリア出身の画家モディリアーニだったようで、描かれた人物の輪郭を見ると、2人の画家が影響しあって形態の単純化を求めていた姿勢が垣間見れて、私は楽しさとともに彫刻的な捉えをそこに感じていました。「キスリング展」の詳しい感想は後日に改めます。今日は久しぶりにギャラリーせいほうに行って田中さんに会ったり、東京都庭園美術館に行って「キスリング展」を見てきたので充実した時間を過ごすことが出来ました。
    週末 個展案内状が届いた日
    今日は朝から工房に篭って、梱包用木箱作りに励んでいました。今日は若いスタッフが工房に来ていました。私は若い頃には詩に関心があって、その昔話を若いスタッフに聞かせていました。50年前に購入して書棚で埃を被っていた古い詩集を工房に持ってきて、若いスタッフに貸したりしていました。創作活動ではない作業をやっていると、つい気持ちが緩んでしまい、若いスタッフと話し込んでしまうこともありました。昼ごろになって久しぶりに近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行きました。スポーツ施設から工房に帰ってきたら、懇意にしている女性カメラマンが個展の案内状を1500枚持ってきてくれました。今回の案内状の画像は「発掘~双景~」の正面を画面いっぱいに入れた構図で、素材感に溢れています。私はがっちりした構図が好きなので、かなり気に入りました。案内状1000枚は早速ギャラリーせいほうに届けなければならず、明日ギャラリーに連絡をしようと思っています。いよいよ個展が迫ってきたなぁと感じ始めています。個展も14回目になりますが、こればかりは慣れで開催できるわけではなく、毎回当然ながら新作を出品しているので、ギャラリーせいほうでどんな空間を獲得出来るのか、内心はドキドキしているのです。個展は一年1度の個人的イベントで、成功も失敗も全て私のせいになります。ここが組織を持つ職場との大きな違いです。梱包用木箱作りも含めて、新作の微調整も必要です。搬入まで頑張って間に合わせたいと思っています。