2019.09.17 Tuesday
「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」の続きをまとめます。この章ではモディリアーニらしい絵画表現に辿り着く重要なポイントがあり、さらに彫刻家ブランクーシとの関係が述べられているので、敢えてNOTE(ブログ)に取り上げました。私は彫刻家としてブランクーシの形態の本質に迫る簡潔性を信奉しています。若い頃、私はルーマニアを旅して、農村に残る建築柱の木彫に注目したのも少なからずルーマニア出身のブランクーシのことが頭にあったのでした。モディリアーニの世界にも共通する要素を認めるのですが、ブランクーシは生活や精神の在り方が彼と異なっていて、そこにモディリアーニは魅力を感じていたようです。まず、モディリアーニが自己表現を探り当てた箇所を引用します。「伝説によると、モディリアーニは麻薬で皆が躁状態になっているパーティーで紙と鉛筆をひっつかむと熱に浮かされたように描き始め、『ついに正しい道を見つけたぞ』と叫んだ。描き終えると、彼は白鳥のように長い首をした女性の頭部のスケッチを見せびらかしたという。」次はモディリアーニが未練のあった彫刻制作のエピソードを拾ってみます。「パリの地下鉄は拡張工事をしており、~略~モディは開け放たれた倉庫にオーク材の枕木が保管されているのを発見した。~略~夜遅く地下鉄の駅の柵を乗り越えると数本の枕木を盗んだ。」というわけで、モディリアーニの彫刻に枕木と同じ寸法の木彫作品があるそうです。さらにブランクーシのことを記した文章を引用します。「気持ちのうえでは彼は彫刻家になる決意をいまだ捨てておらず、ポール・アレクサンドルに頼んでルーマニアの彫刻家コンスタンチン・ブランクーシを紹介してもらった。ブランクーシは完全性と洗練された簡潔性をその芸術と生き方において達成した芸術家であり、それはモディリアーニにとって大きな魅力であった。彼はさまざまな形態、ヌードや飛んでいる鳥や接吻している男女などをその本質まで還元した。彼の作品の評判を聞いたロダンは助手として彼を雇おうとしたが、ブランクーシは『大樹の下には何ものも育たない』といって断ったという。青い仕事着に木靴をはき、がっしりした髭面の彼は、自己完結した世界をアトリエに作っていた。家具も自分で作っており、客はくぼんだ丸太に座らされ、食事は自作の石のかまどで自分で作った。またサロン・ドートンヌにその作品が展示されたことがあっても、美術界の派閥や陰謀には頑として近づかなかった。哲学的で神秘的な気質と正直で暖かい人柄を持つブランクーシは、ちゃらちゃらして気取ったモンマントルの人間に比べて、思慮深く頼りがいのある人物であり、モディリアーニを強く引きつけた。モディリアーニは何ら正式な彫刻の教育を受けていないために、ブランクーシが彼に力を貸し、勇気づけたのは確かである。」モディリアーニに限らず、私もそんなブランクーシにずっと魅せられています。
2019.09.16 Monday
今月、三連休が2回あります。今回の三連休は2回のうち前半に当たります。前半の成果は第2ステーションの陶彫部品を4個制作したことです。まだ彫り込み加飾が出来ていませんが、何とか4個の成形を立ち上げることが出来ました。第2ステーションは残り6個で、今月中の完成は無理があるかなぁと思っています。今日も昨日に続き、朝7時に工房に出向きました。早朝の制作は意外にも集中して行うことが出来ることを発見しました。私は朝が強いのかもしれません。ウィークディの公務員の仕事も午前中に仕事の大半を終える仕事ではないかと思っているところがあって、長い間に自分の体質が変わり、朝に強くなっていたのかもしれません。学生時代は朝が苦手で、眠い目を擦りながら学校に行っていました。社会人になって自分は変わったのだろうと思っています。その分、夜更かしは出来なくなりました。日照とともに起きて仕事をして、日没とともに床につくという始原的生活が自分には合っていると思うようになりました。私は度々NOTE(ブログ)に書いてきましたが、規則的な生活を好みます。ウィークディの仕事は勤務時間が決まっているので、私には向いているのではないかと思うのですが、週末の創作活動も自分で時間を決めてやっています。今読書中のエコール・ド・パリの画家モディリアーニのような生活をすることは、私には到底出来ません。気分が乗れば何時間でも制作をして、気分が乗らなければ何もしないという生活は、あるいは芸術家気質を物語っているのかもしれませんが、私は公務員の気質を持った芸術家だと自分で吹聴しています。これは彫刻家であっても芸術家ではないのかもしれませんが、気分をコントロールして創作活動に打ち込んでいるのです。今日は夕方になって若いスタッフと話し込んでしまいましたが、たまにはそういうこともあるかなぁと思って容認しました。また、次の後半の三連休で頑張りたいと思っています。
2019.09.15 Sunday
今日は朝7時から工房に行きました。朝の涼しいうちに少しでも陶彫制作を進めたいと思ったからですが、40キロの土練りを行い、明日の成形準備になるタタラを数枚用意しました。陶土を掌で叩いて座布団大のタタラを複数枚作っていると、涼しい朝にも関わらず汗が噴出してきました。昨日作業していた彫り込み加飾の続きを行なっているうちに、若いスタッフがやってきました。スタッフは現在高校生で、美大受験を視野に入れて基礎デッサンをやっているのです。一日7時間も工房でデッサンが出来るのは、彼女は美術の専門家になる資質はあるのだろうと思っています。私は昼ごろ工房を空けて、近隣のスポーツ施設に水泳をやりに行ってきました。年齢を気にしているわけではなく、定期的にスポーツをしなければならないなぁと常々感じていて、創作活動を末永く続けるために体力を保持したいと考えているのです。退職したら私はスポーツ三昧になる可能性もあるのですが、あくまでも創作活動のためにスポーツをやっているんだと自分に言い聞かせています。今日は夕方4時まで陶彫制作をやっていました。現在は第2ステーションの陶彫部品が2個出来たところです。第2ステーションは残り8個が必要です。今月これが終わるかどうか分かりませんが、明日は2個の成形を計画しています。秋風が立てばウィークディの夜に工房通いも出来ます。制作工程では、今は地道な作業で、螺旋階段を一段ずつ登っているようなものです。詩人黒田三郎の詩に、手にランプをぶら下げながら坦々と螺旋階段を登っていく詩があります。登った先に水平線が見えるはずだと綴ってありましたが、私の気持ちは今まさに螺旋階段を登っている心境です。デッサンをやりに工房に来ている彼女は、まだ螺旋階段の入り口にも到着していません。これから大変だよと昼食を頬張りながら彼女と話をしました。自分が好きな道ならば多少の苦労も厭わないとでもいうように瞳がキラキラしていました。
2019.09.14 Saturday
三連休の初日です。今日は介護施設に入居している母の通院に家内と付き合いました。施設から病院まで車椅子を押していくのが私の役目で、検査は家内が付き添ってくれました。とくに母には異常がなかったので安心しましたが、90代の母は何があってもおかしくないと思っているのです。母は食欲はあるし、会話も問題なく出来るので、当分大丈夫かなぁと感じますが、部屋にいても車椅子に乗っている最中でも眠っていることが多く、この歳になれば人間はそうなるのかもしれないと思った次第です。私自身はこの歳まで生きていられるのか、生きていられれば創作意欲はどうなっているのか、葛飾北斎のようにさらに高みを目指すようでありたいと、私は願ってやみません。母の付き添いの後、工房に出かけ、成形が終わった陶彫部品に彫り込み加飾を施していましたが、この制作姿勢をいつまでも保ちたいと思いつつ、陶土に向かい合っていました。凌ぎ易い気温になったおかげで、集中力が増し、あっという間に夕方5時を回っていました。本来なら土曜日はウィークディの疲れが残り、なかなか作業が進まないところですが、母を見るにつけ、残された人生を感じ取り、夏の暑さも一段落したことも相俟って、陶彫制作に気持ちが入ってしまい、久しぶりに前後の見境なく集中した状態になりました。今夏は一心不乱に創作に打ち込んだ記憶がないため、6月個展用撮影前の状態に心が戻った気がしました。創作活動はこうでなくっちゃいけないと思いながら自宅に帰ってきました。三連休初日はいいスタートを切れたのではないかと思います。明日から若いスタッフもやってくるので、一日1回は集中状態が作れれば幸いと思っています。
2019.09.13 Friday
「モディリアーニ 夢を守りつづけたボヘミアン」(ジューン・ローズ著 宮下規久朗・橋本啓子訳 西村書店)の第3章「パリでの苛立ち」のまとめを行います。冒頭の文章に「アメデオはパリに着いたとき、21歳とはいえ、まだ経済的にも精神的にも母に頼っている少年であった。」とありました。ここから親の保護下で裕福に過ごした時代と別離し、次第に荒廃した生活になっていくモディリアーニの状況を、パリの芸術運動と絡ませて述べている箇所を引用いたします。「彼がパリに着いた1906年初頭は、芸術は空前の興奮状態にあった。世界中からやってきた若い画家たち、ピカソ、マチス、ブラックといった俊英がこの街に集まり、印象派や後期印象派のめざましい成果に引かれ、あるいは反発した。~略~ピカソとその追随者に先導された前衛芸術は、モディリアーニが絶賛していたアール・ヌーヴォーや後期印象派を嘲笑した。」次にモディリアーニの生活について述べている箇所を拾っていきます。「モディリアーニは高級ホテルに長く滞在する余裕はなかった。ピカソの助言がなくとも、どのみち彼はつい最近までロートレックが通いつめていたモンマントルの歓楽街にたどり着き、その周辺のサーカス小屋をのぞいたであろう。~略~浮浪者、乞食、数人の芸術家はマキ地区に掘っ建て小屋やバラックを建てており、つい最近まで街を闊歩する上品な男であったモディリアーニは、ここで波打つトタン板を葺いた無人の木造小屋を見つけ、掃除し、修繕して、パリにおける彼の最初の住居として整備した。~略~一般の人の理解する日常生活や日課というものは、モディリアーニにとってはほとんど不可解であった。彼にはまったく仕事をしない日というものがあり、そんな日にはカフェからカフェへと流れ歩くか、友人たちを訪ねるのであった。~略~彼はしばらくの間『バトー・ラヴォワール(洗濯船)』に住んだ。これはラヴィニャン広場にある木造アパートで、風が吹くとセーヌ川の洗濯婦の船のようにきしむところからこの名で呼ばれた。ゴーギャンの時代以来、芸術家たちは小部屋が集まったアトリエを借りるようになった。建物は老朽化しており、暖房も水も電気もないので、彼らはランプや蝋燭の光で仕事をしなければならなかった。訪問客の大半は広い部屋に住んでいるピカソに会いにきた。」モディリアーニの生活ぶりが伺える箇所ですが、こんな底辺の生活の中から彼の表現の方向性が示されてきます。そこは別稿でまとめたいと思います。