Yutaka Aihara.com相原裕ウェブギャラリー

note

  • Tag cloud

  • Archives

  • 「螺旋の文化史」&読後感
    「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第五部「螺旋の文化史」についてのまとめを行います。この第五部が本書の最後の部分になり、全体のまとめにもなっているので、読後感も合わせて書いていきます。最後は宗教と愛の表現でヨーロッパの形を締め括っています。まず、聖性の形として教会の塔を扱っているところに留意しました。「ヨーロッパでも教会の鐘塔などはまっすぐな造形が多く、ただ、屋根を急勾配にしてさらに尖塔をつけている。そのまっすぐな塔を昇ってゆくのに螺旋階段がある。樹木や柱に蛇や蔦が絡まるのが本来の自然の形である。そして柱は下が太く、上へゆくと細くなる。日本では法隆寺の五重塔でも下の階がそれほど違わない。そして中に階段はない。ヨーロッパではまっすぐな塔をつくって、その中に螺旋を隠した。内部で螺旋が回っていく円筒である。そとからは内部の回転運動は見えない。」そこから迷宮や渦巻き模様に発展し、次のような文章が続きます。「鉄の手すりや、格子、門扉などに渦巻きが配されているのは、ヨーロッパではごく普通だが、日本ではそれほど普通ではない。ヨーロッパの模様なのである。渦巻きの唐草模様は十二世紀フランスのロマネスク教会でも鉄格子などにおおいに使われた。クストゥージュの教会やリスボン大聖堂の鉄格子に見られる。もしかしたらアラビアの唐草模様の影響かもしれない。」確かにヨーロッパではあらゆる場所で凝った渦巻き装飾を多く見かけます。彫刻を学んだ私にしてみれば、立体的に捉えた装飾に瀟洒な空間を感じるのです。勿論彫刻の概念はヨーロッパ発祥ですが…。最後に愛について書かれた部分を取上げます。「ヨーロッパの墓地にゆくと、亡き妻をしのぶのか、夫への愛情を断ち切れないのか、墓石に上に置かれた抱擁像で、かたく接吻をかわしているカップルが描かれているのを目にすることがある。口づけがもっとも確かな愛情の印なのだ。~略~男女の愛情や、人間同士のスキンシップを大事にする文化のせいかもしれない。」20代の頃、ヨーロッパで5年間暮らしていた私がついに馴染めなかった習慣が、こうした友人同士で交わすスキンシップでした。日本人なら誤解をしてしまいそうな身体の擦り合せ方が、人との距離感を失わせてしまうのでした。だからと言って若かった私は、通っていた美術学校でとても解放的になれず、寧ろ内なる世界に閉じ篭りそうになっていました。そんな異文化でのギクシャクした生活体験を、本書を読み進んでいくうちに思い出してしまいました。帰国してから漸く私はヨーロッパを受け入れたように感じています。その結果として私なりの彫刻作品が生まれました。私に創作の扉を開いてくれたのが、他ならぬヨーロッパの形だったと今でも思っています。
    「技術の中の形」について
    「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第四部「技術の中の形」についてのまとめを行います。まず、冒頭の文章を引用いたします。「技術の基本は車であり、ヨーロッパはすでに述べたとおり、基本的に車両文化である。しかしその車輪も単に定位置で回転するだけではなく、プロペラであれば空へ舞い上がり、工作機械であれば複雑な8の字を描きながらネジや歯車をつくっていく。」何かモノを作るなら回転させることに注目したヨーロッパ人の発明は、他の文明より先んじて発達した要因になりました。「(ネジとしての螺旋は)より少ない力で圧迫力を加えて、ものを接着しているのである。叩き込むかわりにねじ込んでいるが、これは逆に回せばはずれるので、叩き込んだ場合ははずすには壊す以外にないのに比べればずっとましである。」ヨーロッパではネジの他にバネの発明もありました。「バネの機能はショックの緩衡か、ドアの自動開閉、物体の発射などだろう。」こうした道具類を駆使して運搬のために車や船や飛行機を発明した人々は、やがて時刻や長さを測ることにも拘り、時間や空間の概念を見つけていきました。それは哲学であり、数学であり、古代から近代に到るまで人類史を牽引する文化や伝統を作ることになりました。「ローマ人にとって『時間』とは円い文字盤の上でくるくると回転する針の動きだった。以来、二千年のあいだ、ヨーロッパ人はそのような円環型の時間認識を持っていた。~略~はかることは、デジタルでは数値化することであり、アナログでは円盤状の針の角度であらわすことである。長さのようにはじめから数値化されて認識されるものはともかく、速さ、あるいは圧力、さらに強さであっても、そのままでは数値であらわされえないものもヨーロッパでは度量衡に準じて計測し、数値であらわしたのである。」この進歩こそが現代の私たちの生活を作っている基盤だと言えるでしょう。現代社会ではヨーロッパはEU諸国として、世界のひとつの地域になっていますが、人類史を紐解けば、文明発達において多大な貢献をしたことになります。私がやっている造形美術でも、つい最近まで先輩たちが挙ってヨーロッパに出かけ、その文化を摂取してきていたのでした。日本美術の概念はヨーロッパなしには語れないほどです。本書を読むと改めてヨーロッパの存在の大きさに気づかされます。
    横浜の「北斎展」
    横浜のそごう美術館で「北斎展」が開催されています。私は外会議で関内に行った昨日の夕方、「北斎展」を見てきました。関内ホールの帰り道になる横浜駅に美術館があるというのは大変都合が良く、ちょっと得をした気分になります。そごう美術館はデパート併設の美術館で、「北斎展」は児童生徒の夏休みを当て込んで企画されたものだろうと思いました。子ども目線で捉えた展示方法で、国際的に認められた浮世絵師葛飾北斎の代表作が並べられていました。絵の内容では、どこに注目したらいいのか、またどのように浮世絵は作られたものなのか、極めて分かりやすい子ども向けの解説は、疲れた大人の頭にも清涼な風を吹き込ませてくれました。私は有名な「富嶽三十六景」もさることながら、モノクロの「富嶽百景」に注目しました。画想や構図の面白さに暫し時間を忘れました。「鳥越の不二」に出てくる幾何学的な球体は何でしょうか。幕府の天文観測所浅草司天台という解説がありましたが、屋敷の屋上に巨大な渾天儀が設けられていたことが他の資料で判明しています。「富嶽百景」の解説書によると「『富嶽百景』は、この『霊峰不二』という画題一点を軸として、自然の風物とその周辺で生きとし生ける人々の営みを巧みに交え、ありとあらゆる富士山の諸相を北斎の全精力を傾注して描いています。単なる風景としての『不二』を表現するばかりでなく、北斎自身が捉えた独特のアングルでその魅力を描き切っています。芸術的に描かれた富士山の図像百科事典と言ってもよいでしょう。」(版元 芸艸堂しるす)と書かれていました。仕事の帰り道に何気なく立ち寄った「北斎展」でしたが、とても良質な作品に触れた感触が残り、いい気分になりました。
    モローを取り囲む2人の女性
    フランスの象徴派画家ギュスターヴ・モローは、19世紀末に72歳で没しましたが、70歳前後にパリにある自宅を個人美術館にする準備を始めていました。モローは65歳で国立美術学校の教授職に就いたようですが、私の先入観ではモローは室内に一人佇んで絵画制作に没頭した孤高の画家としてイメージしていました。生い立ちを追ううちに、モローはイタリアに旅行したり、また2人の女性が重要なポジションにいたことが分かりました。一人は母親で、モローは献身的な愛情を注がれていたようです。もう一人は内縁の妻とでも言っていいのでしょうか、モローに27年間寄り添った女性がいたようです。デッサンを教えたことでその女性と知り合い、彼女はやがてモローの最大の理解者になったようです。図録から2人の女性たちのことを綴った箇所を引用いたします。「モローは母へ親愛の表現をしきりに繰り返し、異国にいる自分にとって母との文通が言いようのない幸福の源であると、また、愛され過ぎて、芸術への情熱にとらわれた自分が十分応えられず苦しいと述べている。~略~返信で母は排他的なまでのわが子への愛情を再度強調した。また、息子について『彼の健康、幸せ、満足以外に何の興味もありません』とも書いた。このやりとりは、娘の死による女親の悲しみを慰める重責を負った一子と、母の激情的な愛の苦しみを浮き彫りにしている。」モローの妹はモロー1歳の時に亡くなっているので、まさに母の愛情はモローだけに注がれ、母から精神的にも経済的にも援助を受けていたようです。親子はモローが幼い頃から思春期に至るまで母子一体となっていて、モロー自身は母親の元を決して離れようとしなかったと図録にありました。12歳で入学した寄宿制中学校では同年代の子たちとの交流に苦しんだとも書いてありました。とは言えモローはさまざまな恋愛もして、ついに33歳で生涯を共にする女性アレクサンドリーヌ・デュルーと知り合ったのでした。モローは彼女の可愛いカリカチュア(漫画)を描いているので、彼女のことを相当愛しく想っていたことは間違いないでしょう。「母没後2年の1886年1月10日、自分が重病または瀕死に陥った場合の指示として、モローはアレクサンドリーヌ宛てに二つのメモをしたためた。27年間連れ添った伴侶である彼女の看病以外受けないこと、また、母の死後、苦悩の日々に彼女が限りない献身を尽くしたことを述べている。」(引用は全てマリー=セシル・フォレスト著)彼女に看取られるはずが、モロー64歳の時にアレクサンドリーヌは54歳で亡くなってしまいました。母親と伴侶、この2人に先立たれたにも関わらず、献身的に支えられてもいた画家の人生。私は幸福な人生だったのではないかと思っていますが、どうでしょうか。
    大阪天王寺の「ギュスターヴ・モロー展」
    先日の夏季休暇で訪れた大阪の天王寺。東京で見落としてしまった「ギュスターヴ・モロー展」が天王寺のあべのハルカス美術館で開催されていることを知り、早速行ってきました。フランスの象徴派画家ギュスターヴ・モローは神話や宗教をテーマに独特な個性を持って活躍した人で、それは旧態依然とした古典主義とは異なった世界観ではないかと私は解釈しています。モローの油彩表現では線描が際立つものが少なからずあります。一般的には線描は下塗りの上に細部を描き込んだもので、そこに彩色していくのが前提ですが、モローは線描をそのまま残し、しかも下塗りと線描との間にイメージの乖離があるのです。そこには建築装飾としてロマネスク美術の文様が主に描き込まれています。これは敢えて視覚的効果を狙ったものであろうと思います。モローの代表作にサロメの連作があり、その中でも本展に出品されていた「出現」に興味が湧きました。「《出現》の特異性は、何よりもサロメが裸体であること、そしてヨハネの首の幻視を見ていることにある。」と図録にありました。またサロメの裸体に不思議な文様が線描されていて、神秘性が増していました。「聖遺物の匣は聖遺物の隠喩として、そしてサロメのコスチュームはサロメの隠喩として機能するのである。~略~サロメを取り巻く建築空間もまた、衣装と同じくサロメの容器として、サロメの『神秘的』性格の比喩になっている可能性である。」この絵画に線描されたものは、とりわけ私に宗教性を感じさせましたが、図録によればそれは聖遺物の匣で、モローが聖遺物の匣を選んだ動機は何だったのか、これは風土の異なるところに生まれ育った私には皆目分からなかったのです。匣の中に収められた聖遺物は当然見ることは出来ないことは私にも分かりますが、豪華に装飾された外部によって暗示される秘めたるモノが、サロメが登場する絵画の舞台装置に必要と思ったからでしょうか。「モローが残した重層化した画面は、技法的には1880年頃の水彩画における線と色彩の乖離効果に基づいていると考えられるが、そこにコスチュームを通して人物の性格を表わそうとする意味論的方法と、様々なイメージ・ソースを線描で断片化し自由に組み合わせてヴェールのような装飾の線描を作り上げる制作方法とが組み合わさった結果でもあると考えられる。」(引用は全て喜多崎親著)うーん、自由でコラージュ的な扱いもあったのか、と思えばモローの世界はもう少し気軽に解釈できるのかなぁと思った次第です。私にはモローの人間性にも関心があって、パリのど真ん中で引き篭もっていた孤高の画家という先入観があります。そこに2人の女性が関わっていたという下世話な噂を、今回きちんと解明したいと思っています。別稿を起こします。