2019.05.23 Thursday
「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)の第六章は「日本と遊ぶ わざ・さび・あはせ」について取り上げています。冒頭に永井荷風の遊び癖が登場します。「荷風には、名状しがたい『遊び心』というものがあります。私はそこが好きです。一見すると、破綻にむかっているようでそれほどでもなく、むしろキワやハシだけを遊んでいる。そんな感じがします。」という一文で、荷風の遊びは真似のできる代物ではないことが分かります。遊びにもいろいろなものがあり、狩野享吉やら九鬼周造の考え方や生き方を参照しながら、彼らの生き方そのものが「いき」な遊びに精通していることが述べられていました。そこで遊びの定義なるものを語っている箇所に興味を持ちました。「どう見ても日本の遊びには二つのものがあるということです。ひとつは歌垣や田楽や風流や法楽のような、あるいはバサラや歌舞伎のようなスペクタクルで”騒がしくなる遊び”です。もうひとつは詩歌管弦の遊びや茶の湯や生け花のような小さくて”静かな遊び”です。」そこから「スサビ」という語句が派生して、遊びの体系を作っていきます。「古代語のスサビは『荒び』とも『遊び』とも綴る言葉で、このどちらかの意味をたどるかで、スサビの感覚もちがってきます。~略~スサビの系譜からはいくつかの重要な遊びのスタイルが生まれます。なかでも目立ったスサビが『スキ』というものです。スキはいまではもっぱら『数寄』とか『数奇』とか綴りますが、もともとは『好き』のことで、何かが好きになること、とりわけ男女のあいだの『好きぐあい』をさしています。~略~スサビの系譜からもうひとつ出てきたもの、それは和事のスサビともいうべきもので、ワビ・サビの『サビ』に代表されます。」こうした展開を進めていくとサビの感覚は軌道を転回して、次なる語句「ワビ」が登場するのです。「ワビは文字通り『侘び』です。すなわち『侘びる』ことである。まさに貧相や粗相をお詫びすることなのです。」ワビは茶の湯で頻繁に使われるようになります。たとえば「村田珠光が試みたことは、それまでは中国渡来の唐物などの道具を持っていなければろくな茶数寄ができないと思われていたところへ、たとえ名品や一品の一物一品も持たなくても、なんとか手持ちの道具を心を尽くして用意すれば、そこに新たな茶の心が生じるはず」というものでした。最後に「アワセ」についてこんな一文を引用しました。「古代ギリシャや古代ローマも格闘技はさかんだったし、レスリングなどは個人の勝負なのですが、どちらかといえば、観衆や応援者が熱狂するためのものだったのです。したがってスタジアムもいきおい巨大になっていく。これに対して、日本のアワセはあくまでポータブルサイズを重んじています。将棋や囲碁などの盤上遊戯から茶道や香道などの室内遊戯まで、まことに小さめの遊びが発達し、しかも精緻をきわめてきているのです。」今日はここまでにします。
2019.05.22 Wednesday
今日は職場に出勤せず、私たちの職種の「全日本」と銘打った総会が東京の代々木であり、そちらに参加してきました。朝から東京に出勤することになって、通勤ラッシュを久しぶりに経験しました。それでも北海道から沖縄県までの管理職が一堂に集まる総会では、横浜の管理職は電車やバスで移動してきているので、贅沢を言ってはいけないと思いました。東京が地元に近いのは有難いなぁとつくづく思いました。総会が終わって夕方帰宅したところ、工房に大勢の職人さんたちがいました。私は夜の工房に行って、陶彫部品に仕上げや化粧掛けを施して、そのまま窯入れをしようと思っていたのですが、鉄工業者から工房のロフト拡張工事が今日終わったことを告げられました。昇降機も設置されていて、地上階からロフトまでスイッチひとつで上下するリフトに満足を覚えました。昇降機設置でちょっとしたトラブルがありました。リフトが上下する際、蛍光灯に当たってしまうので、蛍光灯の位置をずらすことになったのです。実はこれがなかなか大変でした。私は陶彫部品に仕上げをしながら、工事の一部始終を見ていて、その大変さに職人さんたちの苦労を感じ取っていました。今日は夏のような気温だったので、ロフトはサウナのような蒸し暑さでした。夏場はロフトでの作業は無理があると思いました。逆に地上階はロフト用に天井を張ったので、若干涼しいような体感がありました。ロフト工事が完成したことで、今まで陶彫部品を詰めた木箱が山積みされて、手狭になっていた倉庫スペースに余裕が生まれると思っています。気温の関係でロフトの整理は冬にしようと思います。ともあれロフトが出来上がったのは嬉しいことで、私にとっては今年のビッグニュースです。新作の窯入れはあと3回必要で、今晩と来週月曜日、水曜日に焼成を予定しています。図録撮影にはギリギリで間に合う予定ですが、最後の工程は窯内に鎮座する炎神任せなので、心配の種は尽きません。
2019.05.21 Tuesday
「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)の第五章は「日本に祭る おもかげの国・うつろいの国」について取上げています。古田織部と山片蟠桃の生い立ちやその業績から始まる随想の中で、自分はとりわけ古田織部の縄文的変形と言うべきか、歪みをもって美とする破格で大胆な造形に興味が湧きました。花道家中川幸夫の作り出す世界にも触れ、生け花を喩えにして「死と再生」にテーマが移りました。そこで漸く祭りが登場してきます。「世界中のどこの民族も部族もお祭りが好きで、祭りがなければその民族や部族の文化はなかったともいえるほどなのですが、その祭りに、さてどのような意図や組織が動いているかということになると、これは風土・地域・民族・部族・時代・食生活などによってかなり異なってきます。いったい文化を見るには、基層文化と表層文化によって見方のちがいをもったほうがいいと思います。基層文化というのは伝承性がかなり高いもので、その地域や民族にとって気がつかないほど底辺の習俗になっているものです。一方の表層文化は時代性が強いもので、たとえば正倉院の宝物に象徴される天平文化はシルクロードを通った文物が時代の表層を突破して強烈に焼きついたものですが、それは海外の文化が時の支配層などによって積極的に表層文化としてとりいれられ、定着したと考えられる。~略~私はこの基層と表層の文化のちがいを生物学の用語を借りて、『ジェノタイプの文化』と『フェノタイプの文化』というふうに見ています。ジェノタイプは遺伝型、フェノタイプは表現型のことです。」著者は分かり易く文化をタイプ別に分類して述べた後、日本の祭りに論考が及びます。「日本の祭りの根底を眺めていくと、そこにはいろいろな特色がありますが、その大きな共通性のひとつに『擬死再生』という考え方が出てくるのです。擬死再生というのは民俗学用語で、いったん当事者の『からだ』を死んでみせたことにして、それをあらためて再生させるという儀式の仕方のことをいいます。つまり仮の死をつくる。そうして再生させる。むろん実際に死なせるというわけではなく、そういうふうな祭りかたをするわけです。」これはエジプト神話のイシス性と著者は呼んでいて世界中に流布しているため、こうした考え方は至る処に存在すると言えます。最後に日本の民俗学へ話が及び、「ハレ」「ケ」「ケガレ」「キヨメ」という語句に拘る部分が出てきます。「ハレは『晴』で非日常性のことを、ケは『褻』で日常性をさします。~略~ケには枯れたり汚れたりしてしまうことがおこります。これをケガレといって、漢字では「穢」の字をあてる。そこでこのケガレを払拭し、元に戻すことにする。これがキヨメ(浄)とかハライ(祓)です。」さらにヒという語句が出てきます。「ヒは『霊』と綴って、ヒと読みます。このヒがウツワ(空)の中にひそんでいて、それがあるときウツツ(現)となって出てくる。それを『産霊』ともいいます。~略~ヒは結ばれることによって、そこに何かがぴったり定着する。~略~日本は何だって結ぶ。結びすぎるくらいに結びます。だいたい相撲の最後が『結びの一番』ですし、小結があれば、大きな横綱を締める結びもある。さらに結納もムスビですし、結婚もムスビです。息子や娘という呼び方も、もともとはムス・コ(結びによって生まれた彦)であり、ムス・メ(結びによって生まれた姫)でした。こうしたムスビは、日本に来た海外人を驚かせた『髷を結う』というところにも象徴されました。」些か引用が長くなりました。
2019.05.20 Monday
「日本流」(松岡正剛著 筑摩書房)の第四章は「日本へ移す 見立てとアナロジー」について述べられています。日本は「見立て」の文化と言われますが、そもそも「見立て」とは何でしょうか。著者がさまざまな例題を挙げて説明していますが、「見立ては、『喩』あるいは『比喩』の作用のひとつです。」という一文がありました。欧米の美学や修辞学で言えば、メタファー(隠喩)、メトニミー(換愈)、シネクドキ(提喩)であるとも説明されていました。著者が示す例示の中で、私の興味関心は庭園と茶の湯、浮世絵に注目しました。「あらためて庭園における見立ての話になりますが、日本の庭園では、なにより枯山水が石組だけなのに、それが水や川や海の見立てになっていることに驚きます。石庭ではこうした見立てを総称して、しばしば九山八海とよぶ。~略~そのほか庭づくりでは水と石が見立ての対象になる。水ならば荒磯や州浜や布引が、石ならば三尊石・鶴亀石・補陀落石・須弥山石・座禅石・十六羅漢石などが欠かせません。これらは山や河原で本物の石を見立て、そこから運んだものでした。このような水や石の見立ては、これがさらに転じて、『州浜』『千鳥』『落雁』『吹き寄せ』『松襲』『雪餅』『月の雫』といった和菓子の見立てにつながります。」へぇ、と思わず頷いてしまうものばかりですが、茶の湯でも同じような見立てが罷り通っています。「茶の湯に使う茶碗の『銘』のほとんども、見立てで名付けられていたものでした。~略~茶の湯では釜も茶杓も水指もみんな銘がついている。やはり『立てる』の意識のせいかと思われます。」陶彫をやっている私は釉薬を使いませんが、釉薬の窯内での流れ方を見て、偶然出来た模様にどこかの風景に重ね合わせて、銘つまりタイトルをつけたくなる作者の心境はよく分かります。唯一無二のものがそこにあるからです。最後に浮世絵で一世を風靡した葛飾北斎に触れた箇所がありましたので、引用いたします。「北斎は本書に登場する日本人のなかでも、図抜けて多様性に富んだ人で、自分の画号だけでも三十以上はもっていた。だいたい『富嶽三十六景』にして、格別の見立ての能力がなければ、あんなにひとつの富士山を描き分けられるものじゃありません。加えて北斎の漫画の数々こそはまさに見立て絵の独壇場です。そこには『それが何に見えるか』というようななまやさしい視点だけではなくて、『何がどのように見えてほしいのか』という注文の予想までもが、ことごとく先取りされている。~略~北斎は六歳にして『物の形状を写すの癖ありて』と自分で癒しがたいほどのアナロジー癖を書いているほどの画狂人でした。」
2019.05.19 Sunday
最近体調が優れない毎日が続いています。工房がロフト拡張工事によって、作業スペースが限られてしまっているのが、原因のひとつかもしれません。今日も鉄工業者は工房に姿を見せませんでした。鉄材や板材を切断する騒音の中で、創作活動は出来ないのではないかと、途中経過を見に行った家内が言っていました。鉄工業者は個人経営で、今まで週末も休まず作業をしていましたが、ここにきて私に配慮してくれているのかなぁと思っています。ロフト拡張工事は完成間近で、何時ごろ終わるのだろうか、実は気を揉んでいるところです。新作の陶彫も完成間近です。ただし、陶彫は最後に焼成があるため、もうひとつ山を越えなければなりません。体調が優れない中、今日は多少無理をして2個の陶彫部品の成形と彫り込み加飾を終わらせました。今日は美大生が自らの課題をやりに工房に来ていました。私は彼女に背中を押されるように頑張ったのは確かですが、彼女も相当頑張ったようで、夕方になって彼女を車で送るときは2人ともヘトヘトになっていました。今日作った2個の陶彫部品で全て新作が出揃ったことになります。その次は乾燥を待って、仕上げや化粧掛けを施して窯入れになります。さて、6月初旬までに出来上がるかどうか、毎年のことですが、これは賭けみたいなものです。完成への緊張を伴う綱渡りは今回も経験することになりました。今まで余裕を持って作品が完成したことがないので、この状況には慣れてはますが、思いを巡らすと冷や汗が出てきます。今回は焼成で失敗できないのが気にかかるところです。陶彫制作は、私の彫刻家人生のほとんどを占めていますが、技法に溺れずに今までやってこれたのは、熱心に作った作品を最後に窯に入れて焼成する工程があるためで、今も窯内で割れる要因が分からない場合があります。そもそも器などを作る陶芸では考えられないような無理な形態を作っているので、割れや皹はあって当然と肯定すべきでしょうが、口惜しくて仕方がない時もあります。最近は達観していますが、若い頃は布団を被って寝てしまうことが度々ありました。今回も大きな陶彫部品を2個潰しています。工房の裏にはハンマーで叩き割った陶彫の破片が山積みされています。ところが、ここ2週間の締め切りの迫った状況での失敗は許されません。天に祈るのみです。来週が撮影前最後の週末になります。