2019.05.18 Saturday
週末になり、朝から工房に篭りました。ロフト拡張工事が進み、天井に昇降機が取り付けられていました。昇降機は天井を移動できるようにレーンがありました。1階からロフトに荷物を上げ、さらにロフト内を移動して、荷物を降ろすようになっているのです。ロフトの床はほとんど出来上がっていて、ロフトの重さを太い鉄柱で補強する仕事がまだ残されているようです。作業中はかなりの騒音を発するため、今日は私に遠慮したのか、鉄工業者は来ていませんでした。家内がウィークディの昼間に工房を見に行ったところ、鉄や厚板を切断する音が厳しくて、その場をすぐ立ち去ったそうです。ともかく今日は静かな中で陶彫の作業が出来ました。「発掘~曲景~」の陶彫部品は全て出来上がって、今は乾燥を待っています。「発掘~双景~」の調整の陶彫部品が2つ足りないことが分かって、今日早速土練りをしてタタラを準備しました。2つの陶彫部品はそれほど大きなものではないので、明日一気に2個作ります。今週は体調が思わしくなく、胃腸の具合が変でした。4月に職場を転勤して、漸く少し慣れてきたところで、気が緩んだのでしょうか。自分なりに無意識に気を張っていたようにも思うし、工房ではロフト拡張工事が始まっていて、創作活動も落ち着かない状態だったので、いろいろな面で不安定な気分が続いてしまったようです。職場では、職種は今までと変わらず、またキャリアもあるので何とかなっているし、また陶彫制作も長年やってきているので、制作に迷いは生じていません。それなのにこんなに自分は弱かったのかなぁとつい思ってしまいます。暫くすれば気持ちは落ち着くとは思いますが、来月初旬の図録撮影までの道のりが、自分にとっては厳しいなぁと感じています。これは毎年のことですが、今年ばかりは多少勝手が違うので、変化についていけないのかもしれません。それでも明日は陶彫成形を行ないます。陶彫は成形や彫り込み加飾を施した後、乾燥させる必要があり、また焼成もあるので、早めに作っておかないと撮影に間に合わなくなることもあるのです。明日も頑張ろうと思います。
2019.05.17 Friday
平塚市美術館で開催中の「彫刻とデッサン展」に出品している彫刻家のうち、私の興味関心が高い2人目は若林奮先生です。この人も大学の教壇に立っていましたが、当時から若林先生の説明が難解すぎて、学生の私は到底近づくことが出来ないと思っていました。若林先生の展覧会には全て足を運ぶものの、今も作品に内包される思索が分かっているとは言えません。この人は何がしたかったんだろうと思いを巡らすことが屡々あります。今回の展示作品も全て理解できたわけではないのですが、何故か不思議な魅力があって、惹きつけられてしまうのです。本展には作家の飼い犬をモチーフにした彫刻やデッサンが数多く出品されていました。「泳ぐ犬」や「雰囲気」など、私はいろいろな美術館で展示されてきた同じ作品を見てきました。独特な彫刻観がこの作家の特徴であることは間違いありません。「自分の家で飼っていた犬を観察しながら、その犬に見せる彫刻をつくることを計画し、最終的には彫刻が自分と犬の間にあり、それぞれに向いた半面が、自分と犬に所属していると考えるようになった。」というのが図録に掲載されていた作者の一文です。犬に見せる彫刻、これはまたどのようなモノなのでしょうか。またデッサンにおいても、先生は独特な感覚をもって制作されていたようです。「『表現法や形式は絵画のふりをしているようなものも、ほとんど物質の話の中に収まるもののように思える。あるいは彫刻の一つの形状ー薄い彫刻ーと言うんでしょうか。…そういうところに多分入れてよいんではないかと自分では思っています。』奥行きのある、物質性の強い彫刻の対極に、奥行きのない、物質性のほとんどない薄い彫刻としてドローイングを位置づけている。~略~若林は絵具やインクを紙にしみこませ、『紙の厚さを彩色する』ことを試みる。」(江尻潔著)デッサンも薄い彫刻とした発想に、普段から物質を相手にしている私も頷いてしまうのですが、世の中に平面は存在しないという存在の原則論に立てば、これも納得してしまう論理ではあります。
2019.05.16 Thursday
平塚市美術館で開催中の「彫刻とデッサン展」に出品している彫刻家の中で、私が大学在学中から憧れていた作家が2人もいることが分かり、平塚まで車を飛ばして作品を見に行きました。一人は保田春彦先生で、当時は大学で教壇に立っていましたが、私が直接教わることはありませんでした。今なら気軽に研究室を訪ねていくものを、保田先生は雲の上の存在で、顔を合わせることさえ躊躇しました。長く住まれたイタリアの街の構築的な要素をイメージして、硬質な抽象空間を作り上げている先生の彫刻作品は、人を拒絶するような緊張感があります。会場には「壁に沿うかたち」と「弧の交わる壁」という鉄による壁をテーマとした2作品と、そのエスキースとも言えるデッサンが展示されていました。図録には「彫刻が絵画と異なる点を挙げるとすれば、とくに石のような素材を考えた場合、その表現に必要な絶対的な時間量と、肉体を伴う労働力の、かけはなれた差異ではなかろうか。仮に、”一気呵成”などという無責任な言葉で、タブローを前にする画家の表現行為を形容出来たとしても、石を前にした労働を表す辞句とは到底なりえないという意味である。」(著作「造形の視座」から引用)とありました。先生の寡黙で重い言葉が聞こえてきそうな一文だなぁと思いながら読みました。先生のデッサンはほとんど設計図と形容した方がいいようなもので、鉄や石をカットする割合や寸法、角度がメモされています。形態を研ぎ澄ましていく過程が描かれているような箇所もあり、これも先生らしいなぁと思いました。私もNOTE(ブログ)で自作に触れて、一気呵成には出来ないと標榜してきましたが、別に保田春彦流の発想を真似たわけではなく、本当に彫刻制作は時間がかかるのです。展覧会前にさっと作り上げてしまう画家を羨ましく思うと同時に、労働の蓄積などと言って、己の制作姿勢を肯定しなければ、彫刻家は精神的にやっていけないのかもしれないと思った次第です。
2019.05.15 Wednesday
先日、平塚市美術館で開催中の「彫刻とデッサン展」を見てきました。「空間に線を引く」と題され、著名な日本人彫刻家が集められた本展は、私にとって重要な展覧会であり、必ず見に行こうと決めていたのでした。まだ自分は彫刻を専門にしようと考えていなかった高校時代に、美術科教諭から美術準備室でデッサンの手ほどきを受け、美術の専門家への第一歩を踏み出したのでしたが、目の前の対象を写し取るデッサンはなかなか難しく、それまで楽しかったはずの美術が、一気に困難克服のための修行になった気がしました。当時は木炭紙に木炭で石膏像を描いていましたが、高校の帰りがけに予備校に通いだすと、描写用具が木炭から鉛筆に変わりました。大学で彫刻を学び始めた頃に、H・ムアの防空壕に避難した人々を描いたデッサンや、A・ジャコメッティの針金のようになった人物デッサンを知って衝撃を受けました。画家の描くデッサンと彫刻家のそれとは何かか違うと私は感じていて、まさに「空間に線を引く」デッサンに関心が移っていきました。図録の中にロダンにおける彫刻の捉えが出てきます。「視覚で捉えることのできる表面ではなく、その内側の動勢にこそ彫刻の本質があるとしたロダンの言葉は、それまでの視覚優位であった彫刻論とは明らかに異なるものであった。」というもので、さらにドイツ人哲学者J・G・ヘルダーによるこんな言葉が続きます。「絵画と彫刻の違いを、『彫刻は真実であり、絵画は夢である。彫刻はまったく呈示する表現であり、絵画は物語る魔法である』」というヘルダーによる触覚論は、視覚を五感の上位におく当時の美術の考え方に異を唱えたものだったようです。そこで実際のデッサンを基に、こんな一文が綴ってありました。「無数の線の集積から確かに実在する存在が立ち上がり、それを取りまく不可視の空間が現前としている。~略~一本々々の線が作者の手となり対象を触知し、手探りで平面上に現前させる。そこには容易に気づき得ない対象と空間構造の緊密な関係が生まれている。」(引用は全て土方明司著)自分が注目する個々の彫刻家の作品には後日改めて触れたいと思います。
2019.05.14 Tuesday
92歳の長寿を全うした日本画家荘司福。その絵画世界の変遷を、今回の展覧会「荘司福・荘司喜和子展」(平塚市美術館)でじっくり見ることが出来ました。私は若い頃に描いた人物画や仏教に取材した絵画よりも、最晩年に描いた一連の風景画が大好きです。とりわけ1980年代終わりから90年代にかけて制作された風景画は、簡潔な構図でありながら、深い精神性を湛えていて、見る者に何かを感じさせる空白が残されています。それ故、暫し絵画の前で佇んでしまうのです。空白は有在の無であり、余裕の産物であると私は解釈しています。生涯を終えるまでに、こんな世界感が獲得出来たらいいなぁという羨望もあって、私が惹きつけられる要因だろうと思っています。その風景画群の中でひとつを選ぶとすれば、1985年制作の大作「刻」です。図録の解説には「一乗谷の朝倉氏居館跡に取材。朝倉氏は戦国時代に一乗谷を中心に越前を支配した戦国大名だが、16世紀後半に織田信長に滅ぼされた。」とありました。この作品に対する作者のコメントもありましたので、掲載しておきます。「幾百年もの年月をそのところに存在して、刻の流れの中の興亡も戦乱も又多くの人々の生きざまもいろいろなものの中に在った石の群、今は白日のもと深閑としてそこに在る。石以外は何もない白い空間の中に、多くのものが重なりあって充満している虚の空間、石を見てそんな空間を描いてみました。」(「三彩」457号より)虚の空間とは何もないのではなく、描かれた対象よりも雄弁に語る空間ではないかと私は思っています。描かれている苔むした石を見て、そこに過ぎた時間の蓄積を感じ取り、幾多の人々の往来を感じ取るのは、石が置かれた場所の空気を鑑賞者が感じ取れるからだと私は考えます。時間の沈殿の中に諸行無常を思い起こさせる世界が私は好きです。