2019.07.05 Friday
「見えないものを見る カンディンスキー論」(ミシェル・アンリ著 青木研二訳 法政大学出版局)は、カンディンスキーの著書「芸術における精神的なもの」を根拠に、フランスの現象学者が書き表したものです。今回は「音楽と絵画」についてのまとめを試みます。冒頭の文章に「〈壮大な芸術〉という発想は、音楽および音楽と絵画との関係をめぐる考察から生じている。」とありました。特殊な個々の芸術のどこに統一性を見出していくのか、次の一文を引用いたします。「眺めること、聴くこと、触れること、感じることーそれらの体験の多様性が識別されているにもかかわらずーを、〈同じもの〉たらしめているのは何なのか。それは諸感覚の主観性である。」主観性に辿り着くまでにカンディンスキーの造形思考に何があったのか、こんな一文もありました。「抽象の概念の形成において決定的な役割を演じたのは音楽である。重大な『精神的転機』のときに、知の全領域において、とりわけ絵画の領域において、客観性の危機にカンディンスキーが揺さぶられて、新しい『内容』(芸術はこれを表現することを使命としている)について自問したとき、まさしく音楽が、彼の精神に模倣すべきモデルとして現れて来たのであり、入りこんでいる袋小路から絵画がぬけ出ることをー要するにその真の目的性を確認することをー可能にしてくれる道案内として現われて来たのである。」さらにここでショーペンハウワーの哲学が登場します。私は著作「意志と表象としての世界」を既読していたので、言わんとする内容は理解できました。「ショーペンハウワーは、この世界は、二次的な表象、見せかけの模写でしかなく、対象化し得ない隠された内的な実在である〈存在〉という真の実在の対象化でしかないと主張していた。-彼が〈意志〉と呼ぶものはこれであり、生を指し示す名称にほかならない。」主観性や内的なものに関する哲学的視点を示したところで、次の一文を本章のまとめにしたいと思います。「絵と音楽は、情念的な主観性とこの世界に関心をもたないその内的な移り変わりとに両者とも準拠することによって、〈同一のもの〉となっているのである。抽象絵画の発展のすべては音楽の発展をモデルとしており、フォルムと色が諸物への自己の帰属を、外面的な自己の現われをうち捨てて、どのようにして生の情念の中に再び組み入れられているかを、われわれにはっきり見せてくれたのだった。」
2019.07.04 Thursday
通勤中に読んでいる「ヨーロッパの形 螺旋の文化史」(篠田知和基著 八坂書房)の第二部「蛇の絡まる木」のまとめを行います。ヨーロッパで紋章に多く見られる蛇の図像には、どんな由来があるのか、本書から紐解いていきたいと思います。「キリスト教が生まれた中近東でも蛇や竜は信仰されていた。その痕跡は『聖書』にも随所に見られる。まずは創世記のエデンの園である。~略~蛇としても冥界を指し示しはしても、地上においては豊穣や、あるいは沈黙の知恵、慎重さなどをあらわしていた。ヘブライ世界でも、もっとも価値あるもの、ここでは『知恵』を守る番人だった。それを『食べるな』という禁忌は、美しい女神の裸身を『見るな』という禁忌と同じもので、人間の知りたい欲求をむしろあらわしたものである。」続いて古代の蛇伝承を取り上げます。「ヨーロッパの蛇女神として有名なのはフランスのメリュジーヌで、下半身が蛇だったという。メリュジーヌ以外にも『マムシの女王』として知られるヴイーヴルの伝承があり、似た形象の人魚型妖精はギリシャからいて、下半身が魚の場合も、それが二股に分かれて絡み合っている形で想像されることが多かった。~略~ギリシャ神話はエジプトのような動物神の性格は持たず、人間的な行動をする人文神の世界のように思われているが、実はよく見るとそうでもなく、たとえばゼウスが戦った相手のギガンテース族は蛇だった。~略~蛇はヨーロッパではもうひとつ別な機能をあらわしている。特に蛇の絡まるカドゥケウスというものが、ヘルメスの持つ杖で商業の象徴であり、アスクレピオスが持っていれば医学をあらわす。アスクレピオスの娘のヒュギエが蛇を飼っていて、その毒液から薬を作っていた。」蛇は裸女とも関係が深いようです。「蛇をまといつかせていたのはクレオパトラだけではない。アレクサンドロスの母オリンピアの寝床にはいつも大蛇がいたという。蛇がいなくとも、裸の女性は蛇そのもののように描かれた。妖艶に裸身をひねるヨーロッパの女神たちは蛇である。」とぐろを巻く蛇から渦巻く形に象徴化されたヨーロッパ文様ですが、近代絵画などの例もあげています。「絵の世界ではゴッホの《星月夜》の渦を巻く天体である。合理的機械文明であるヨーロッパで、何でもないところに、意味のない渦巻きが付け足される。それをねじり柱の延長として考えてみる。遊びなのか、過剰なのか、蛇の尻尾のように余計なものなのか、あるいはゴッホの世界に見られるように、狂い出す精神の風景なのか、漱石が『あらゆるものがぐるぐると回り出す』と『それから』の終わらない結末で世界を幻視したときは、多分にそれに近かった。」まとめになりませんが、今日はこのくらいにしておきます。
2019.07.03 Wednesday
「エコール・ド・パリ」とは、20世紀初頭にフランスの首都パリに集った異邦人芸術家たちのことを指しています。先日、東京都庭園美術館に「キスリング展」を見に行った折、「エコール・ド・パリ」の芸術家たちに興味が湧きました。当時のパリは芸術の中心であり、芸術家にとっては憧れの都市でした。ポーランドからやってきたキスリングもその一人で、パリの華やかさを体感しながら、彼は民族に纏わる事情も抱えていたことが図録で分かりました。図録から引用します。「ユダヤの血を引く者たちにとって、第一次世界大戦前から第二次世界大戦へと続く厳しい迫害の時代は、ルーツへの思いの深さとは裏腹に否定せざるを得ないという、辛い相克に苛まれた受難の世紀であった。モディリアーニやパスキンらと同じくユダヤの家系に、ポーランドの古都クラクフで生まれたキスリングの人生を振り返ってみると、そこには時代の折々にユダヤの血への葛藤に揺れ動いた心情が吐露されている。~略~このような時代状況のもと、キスリングは早い時期からユダヤ的なものから自己を切り離して、フランスに同化しようとしている。1910年代からキスリングは『モイーズ』というユダヤの偉大な指導者モーゼを想起させる名前を使うことを好まず、終生、絵のサインには姓のキスリングだけを使っていた。」(村上哲著)フランスへの同化、それは戦意高揚のための戦争画を描いた藤田嗣治にも言えることで、日本画壇の暴挙に嫌気の指した藤田は、レオナール・フジタとしてフランスに帰化してしまいます。いろいろな場面で「エコール・ド・パリ」の芸術家たちは祖国や民族が抱える諸問題も抱えていたと言えます。ただし芸術は、国籍や民族を超えて、美の価値観を共有する人々に認められることが証明されていて、私は芸術の素晴らしさを感じざるを得ません。
2019.07.02 Tuesday
先日、東京目黒にある東京都庭園美術館で開催されている「キスリング展」を見に行ってきました。まとまったキスリングの油彩を見たのは実は私は初めてだったように思います。キスリングは、エコール・ド・パリを代表する画家なので、その画風は知っていましたが、多くの肖像画や静物画に接する機会が今までありませんでした。東京都庭園美術館はアール・デコ様式で有名な建物であり、その室内装飾にも贅を尽くしているため、そこに展示される作品は、周囲環境との調和を図る必要があります。そういう意味ではキスリングの世界は空間に合致しているように感じました。ユダヤ系ポーランド人であったキスリングは、東欧的な雰囲気と同時に「感情に通暁したリアリスム」(図録より引用)という言葉が相応しく、形態や色彩の洗練さが際立っていました。図録より絵画の特徴を書いた文章を拾ってみます。「キスリングが描く人物たちは、女性の場合がほとんどだが、常に様式化されている。往々にして遠くの内面を見つめているアーモンド形の大きな目、眉や唇の正確なデッサンといったように。~略~彼の作品には写実的で静かな世界と、親密だが年齢を感じさせない、無気力で魅惑的な雰囲気とが見られ、不安定さに繋がっている。綿密で洗練された写実ではありながらも、表された人物たちの不動性が、止まった時間と深い沈黙を伴う夢のような作用を引き起こし、主題の平凡さを超越させてしまうのである。」(マイテ・ヴァレス=ブレッド著)キスリングは、若い頃からパリ画壇で認められていたので、生活が困窮することがなかったようです。確かに魅力的な肖像画や静物画は、当時はよく売れただろうなぁと察します。彼はユダヤ人であったために、ナチス・ドイツの迫害を恐れて渡米しますが、戦後は再びフランスに戻ってきています。生涯を通してみると、キスリングは画家としてのやるべきことを全うした幸福で幸運な芸術家だっただろうと思いました。
2019.07.01 Monday
7月になりました。毎年7月になるとNOTE(ブログ)に個展を開催すると書いていますが、今年も同じことを書きます。いや、こうしたことが書ける幸福を感じていると言った方が気持ちにフィットするように思えます。個展は今年で14回目になり、彫刻による個展が継続して開催できるのは、自分の体力・健康や意欲、そして何よりも周囲の協力なしでは考えられないと思っているからです。継続は力なりと言いますが、私の場合は継続は宝なりと公言したいのです。そのための準備に今月の前半を使います。後半は来年の新作に取り組みます。継続可能にさせるのはイメージの源泉にあり、次から次へと作品のイメージが湧き出ているうちは只管作り続けていくのが、自分に与えられた運命と勝手に思っています。この7月が新旧イメージのバトンを繋ぐ1ヶ月でもあるのです。今月は鑑賞でもまだ見ていない大きな美術展や映画があるので、時間を見つけては出かけていきたいと思っています。制作と鑑賞は創作活動を支える両輪で、技能と思索を行きつ戻りつしながら作品世界が深まっていくと私は考えています。そういう意味でRECORDも小さいながらも創作活動のひとつです。しかも時間を限って制作する厳しい条件を自分に課していて、ともすれば取り組みに気が重くなるところを下書きだけを先行させて、毎晩アイデアを捻りだせる環境を整えています。今月はRECORDの下書き先行を解消したいと願っています。読書は継続ですが、読みたい書籍をかなり買い込んでしまっていて、一度若い頃のように読書に埋没したいなぁとも思うところです。